第23話 ウィグナーの恋人

 待ち合わせは美空先輩の指定で駅前の広場にある噴水の前になった。夏が近づいてきている日差しを時々大きく吹き上がる噴水が気化熱を奪って冷ましてくれる。スマホを取り出して時間を見ると、約束は10時からなのに、まだデジタル表示は9時半に近づくところだった。


「さすがに早すぎたな」


 今朝は緊張して6時前には目が覚めてしまった。何度も鏡に向かって髪をいじっているのを輝にからかわれて、逃げるように出てきた。部屋にいても落ち着かないけど、こうして歩いている人たちを見ていると、自分だけが世界で一番ダサい格好をしているようで結局落ち着けない。


 暇を潰せるものもないし、気が紛れないかと、噴水を見上げていると、後ろから何かがぶつかってきて危うく噴水の池にダイブしそうになる。


「何だ⁉︎」


 驚いて振り返ると、もふもふとゆるくウェーブのかかった髪が顔に迫ってくる。ぎゅっと抱きつかれた柔らかな感触に美空先輩だとようやくわかった。


 いつものように体型を隠す緩やかなラインのニットとロングスカート。だけど少しずつ暑くなってきた季節に合わせて、少しだけ涼しそうな薄さになっている。つまり美空先輩の豊かな体がいつもより目に入ってしまうということでもある。


「こーくん早いねー。私、なんだか緊張して早くきちゃったのに」

「だいたい同じ理由ですよ」

「もしかしてこれが集合的無意識ってやつなのかな?」


 美空先輩がさっそく目を輝かせる。


「人間は過去の経験や性格からは想像できないことをすることがあって、それは人間が先天的に持っている無意識から引き起こされるんじゃないかと考えられたの」


 そんな感じで美空先輩の熱弁が始まる。サークルに入った頃は、勉強熱心な人だと感心したけど、半年もするといつもの持病か、くらいにしか思わなくなっていた。

 でも、一緒に動画を作って一つわかったことがある。


 美空先輩の説明は早口だけど丁寧で、何も知らない俺でもわかるように噛み砕かれ

ている。順序はきちんとしているし、補足も入ってきて、この話を聞くだけで基本的なところがわかるようになっている。


 解説動画だって輝の見た目で再生数が伸びているのは事実だと思うけど、美空先輩のしっかりとした資料という下地があるからあの動画は完成まで辿り着けたのだ。


「あの、そろそろ移動しませんか?」

「あ、そうだった。ちょっと熱が入っちゃった」

「いいですよ。それがいつもの美空先輩ですから」


 カッコつけない俺が見たいと言った美空先輩と同じで、俺も飾らない素のままの美空先輩が見たい。こうして思考実験の話をしてくれる美空先輩が一番輝いていると思う。


「そういえば、今日はどこに行くか秘密にしてましたけど」

「うん。その方がおもしろいでしょ?」

「美空先輩はそういう思いつきで提案するのも好きですよね」


 俺としては先にプランを話して、いいとか悪いとか言ってくれた方が気が楽なんだけど。自分の考えてきた行きたい場所は、決めたときこそ自分らしいとは思ったけど考えれば考えるほど美空先輩が気に入ってくれるとは思えなかった。


 駅の改札に向かって歩き出しながら、美空先輩はピッタリと俺の隣を歩いてついてくる。当たり前なんだけどいつも俺が美空先輩の後を追いかけていたから新鮮な気分だった。


「じゃあ先に私の提案から聞いてもらおうかなぁ」


 美空先輩はそう言ってスマホをいじって画面を見せてくれる。それはお店のホームページだった。


「猫カフェ、ですか」

「うん。やっぱり観測するなら猫だよね」


「あの、放射性物質を持ち込んだりしてないですよね?」

「さすがの私もそれは手に入らないよ」


 手に入って安全に持ち出せたら本当に持ってきそうな怖さがあるから困る。50%の可能性で死ぬ装置なんて猫カフェには持ち込まないでほしい。


 美空先輩の目的地は駅近くの通りの雑居ビルの3階に入っていた。猫が逃げないように隔離された別室にいる猫を眺めながら受付を済ませると、ふわふわのマットが敷かれた部屋に通される。中には20匹ほどの猫が気ままに寝ころんだり、他のお客さんに撫でられたりしている。


「おおー、本当に猫がいるんだねぇ」

「猫カフェなんですからそうですよ。何がいると思ってたんですか?」

「うちは家族みんな犬派だから。人に近づいてくる猫って存在するんだねぇ、と思って」


 そう言いながら美空先輩が手を伸ばすと、2匹の猫が指先を嗅いで頬を擦りつけた。


「慣れるの早いですね」

「お店の猫ちゃんだしこういうものなんじゃないの?」


 そう言われて俺が隣にしゃがんで手を伸ばすと、猫は驚いて逃げていってしまう。これが普通のはず、と自分に言い聞かせてみるけど、やっぱり逃げられるとショックだな。


 飲み物を受け取って座っていても、俺の周りには全然寄りついてこないのに、美空先輩にはゆっくり近づいてきたり体を擦りつけてきたりと何もしていないのに集まってくる。ちょっとズルいと思うけど、人間も毎年山のように美空先輩に集まっていたんだっけ。


 種族を問わず、美空先輩は第一印象で好かれるタイプらしい。


「そういえばどうして猫カフェに?」

「ちょっとウィグナーの友人の気分を味わいたくて」

「それはまた、他では聞いたことない理由ですね」


 ウィグナーの友人はシュレディンガーの猫が入っている箱の中に人間がいて観測者であったとしたら箱の中の猫の生死は確定するか、という思考実験のことだ。

 その気分が猫カフェで味わえるのかは別として楽しそうならいいかな。


 話しているといつの間にか俺の隣に1匹の猫が座っていた。美空先輩と話していたから安心できると思ってもらえたらしい。でも撫でてやろうと手を伸ばすと驚いたように逃げていった。


「あぁ、逃げられた」


 猫を観測していても、その気持ちまでは観測できない。言葉や行動にして相手の反応を見るまでは相手の気持ちは確定できないのだ。


 恋と量子力学は似ている、とは思わないけど、隣で微笑む美空先輩を見ているとあながち間違いじゃないような気がした。

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