VSかわいそうなのがぬける淫魔

 淫魔とは。

 怪異と魔に連なる存在にして、性欲に纏わる性質を持つものの総称である。


 彼らは異性と性欲を満たすための行為で精気を――霊力、魔力、感情を始めとした生命エネルギーを己の身に取り込み、糧とする。

 他の行為では一部例外を除き一切の精気を取り込めない、生と淫行が表裏一体にあるという極端な在り方のもの達だ。少なくとも、この世界においては。


 そのため、彼らは人間から非常に嫌悪されやすかった。


 当然だ。獣や昆虫と違い、多くの人間は性行為に本能以外の特別な意味を込めている。

 それを言ってみれば食事としている淫魔達に対し、否定的な感情を抱き始める事はある種必然であったのだ。


 何より、淫魔という種族は基本的に人間よりも強い力を持ち、催眠などの精神を操る異能すら持っている。

 時には人間に対し強引な手段で性行為を強要するケースも少なくはなく、確執は広がっていった。


 無論、全ての淫魔がそうという訳ではない。

 人間と契約して力を貸し、その正当な見返りとして性行為を求めるものや、社会に紛れ風俗店に入り浸るもの、そして愛する人間と夫婦となってイチャコラするものなど、人間と上手く付き合い共存する友好的なもの達も居る。


 ……しかしそれも、全体から見れば少数だ。

 大多数の淫魔は人間の心や都合など欠片程も配慮する事無く、好き放題に精を貪っていた。



 ――「彼」も、そのような淫魔の一人だった。



「彼」は遥か古の時代にこの日本の地で発生した、純粋なる魔の一体である。


「彼」は強く、美しかった。

 しかし人の心はまるで無く、酷く傲慢な性をしていた。


 人間をただの食料、或いは娯楽品としか見做さず、欲望のまま弄び、食い荒らす。

 その淫蕩の限りを尽くした在り方は、当然ながら人間達より嫌悪され、恐怖された。


「彼」は、人間の悲劇的な姿にこそ性欲を掻き立てられる性質だった。

 想い人と引き裂かれ、理不尽に穢され、人生を台無しにされる女性の姿に酷く興奮し、己の手で数多のそれを生み出したのだ。


 当然、人間も必死に抵抗し、戦った。戦わなければならなかった。

 何人もの男性が犠牲となり、何人もの女性が穢されて。そうして何百年にも渡り、「彼」と人間は戦い続け――結果、「彼」は敗れた。


 成した者は奉納六家が一、「魂」の字を冠する御魂雲。

 その術により致命傷に近い深手を負ってしまい、敗走せざるを得なかったのだ。


 どうにか逃げ延びる事は出来たものの、多少の弱体化は免れず、以降「彼」は世の表から姿を消した。


 力を隠し、美を隠し。たまに日照り女をつまみつつ、日陰に潜んでこっそりと生きる。

 それは「彼」にとっては酷く退屈な生活だったが、さりとて昔のように暴れ回る気にもなれなかった。

 派手に動けば御魂雲もまた動く。彼らと二度と相対したくないと恐怖する程には、「彼」はこっぴどく痛めつけられていたのだ。


 ――きっかけは、「彼」が人間の文化に興味を持った事だ。


 近代。急速な技術発達により、人間の生活圏が大きく広がった時代。

 人気の無い場所でひっそり隠遁していた「彼」もそれに巻き込まれ、渋々と人間社会に紛れ込む事を強いられたのである。


 己の食料兼娯楽品でしかなかった存在に混じるのはウンザリとしたものの、しかし退屈だけはあまりしなかった。森と川だけの生活に比べれば、であるが。

 ともかく、そんな日々を送る中でいつも通り適当な女性を催眠し、部屋に転がり込んだ先で、ふとそれに興味を持ったのだ。


 パーソナルコンピューター。縮めてパソコン。


 催眠した女性から操作方法を会得した「彼」は、迷いなく性に纏わる情報へと手を伸ばした。

 種族柄、現代の人間どもの性事情がなんとなく気になったのである。


 その大半は昔とあまり変わらず、それどころか配慮だなんだと小綺麗にすらなっていたが――創作の分野においては、中々に面白いと思った。


 NTR、催眠、時間停止、機械姦、皮モノ、3000倍、○○しないと出られない部屋、超常アダルトグッズにその他諸々、荒唐無稽の四方山エロ話。


 無論、催眠や尊厳破壊など、一部については「彼」の方が何倍も上手であるため、既視感や稚拙さが目についた。

 しかしシチュエーションに関してはそんな「彼」をも唸らせるものがそこそこあり、他にも「彼」ですら予想だにしなかったアレな性癖がてんこもり。

 淫魔としての視野は勿論、世界自体が広がった。なんだったら人間ちょっと見直した。やるじゃん。


 そして興が乗った「彼」は、何とそれらをグッズという形で現実に創り出してしまったのだ。


 多少弱体化したとはいえ、千を越える時を生きた魔の頂に立つ一体。己の在り方に関する道具であれば、創造するのは容易であった。

 そうして参考にしたアダルト作品よろしく、創り出したグッズをバラ撒いてみれば――これがまぁ滾ること滾ること。


 遠見をすればあちらこちらで『かわいそうな出来事』が起こっており、久方ぶりの充足感に満ち満ちた。

 おまけにグッズ自体に「彼」の魂のかけらを僅かながらに宿しておけば、それを通して吸精の恩恵にだってあやかれる。なんと素晴らしい。


 さしもの奉納六家であっても、まさかエログッズから己に至る事など叶うまい――。

 ……などと冗談半分に嘯いていたら、本当にそうなった。


 否、幾度も見つかり、そして対処もされている。

 だが、宿した魂のかけらさえ回収してしまえば、彼らは「彼」の存在に辿り着けないまま、タチの悪い霊具の類としか処理できずに終わるのだ。


 ――これならば、また暫くは愉しめる。「彼」は嗤った。


 無論、いつかは看破されるだろう。

 だがそれには今しばらくの時が必要であり、その間に逃げ道は幾らでも用意できる。


 そうして「彼」は、それからも次々とグッズを作っては世に流し、それによって引き起こされる『かわいそうな出来事』を堪能し続けた。


 多くの涙が流れ、多くの愛が無下に散った。

「彼」は遠方からそれを堪能しては興奮し、催眠で自我を奪った女性にそれを吐き出し、精を吸う。


 この身で直接体験できないのは物足りない。

 だが、悪くない。ああ、悪くない生活だ。


 遥かな昔、世を卑陋に乱した大淫魔。

 この現代社会の影にも変わらずそれは在り、誰にも気づかれる事なくかつての淫らな暴虐を繰り返していた――。







 ――と、まぁ色々長々と語った訳であるが。

 そんな「彼」は今、使い古したボロ雑巾のような姿で転がっていた。




 *




「なあんでだあああああああああああああッ!?」



 月明りの照らす夜の下。

 とある山中を激怒の叫びが木霊する。



「意味が……意味が分からないッ! どうしてこんな事に……!!」



 美しい男だった。


 丹念に彫られた彫刻のような甘い顔立ちに、適度に筋肉を乗せた均整の取れた体つき。

 女性であれば、誰もが振り返るであろう容姿であったが――しかし今やその姿は酷く薄汚れ、見る影もない。


 艶やかであった筈の髪はチリチリとアフロ型に焦げ、滑らかであった筈の肌も泥と埃でベタベタだ。

 おまけに衣服も所々にほつれや焦げ付きが目立ち、まるで山火事の中を突っ切って来たかのよう。


 そんな男――「彼」は、更に汚れる事も厭わず地に膝をつき、屈辱に身を震わせていた。



 ――始まりは、「彼」の創り出した催眠アプリであった。


 数々のグッズを創り出してきた彼であるが、最近は時流というものに合わせてアプリ系のものにも手を出している。

 電脳世界に分霊を生み出し、催眠や時間停止といった異能をデータとして付与させるのだ。


 そしてそこに己の魂のかけらも含ませれば、ユーザー数だけ精気も集まるという寸法だ。

 これが中々に効率がよく、何より多くの『かわいそうな出来事』も堪能できる。


 これは良いものを創ったぞと、日々大切に扱っていたのだが――なんかいきなり爆発した。



(馬鹿なっ! この僕の分霊が手掛けていたものだぞ! そんな事があってたまるか!!)



 だが、現実は非情であった。

 分霊もデータも全損。何故か管理に使用していたPCすらも大爆発し、「彼」はそれでアフロとなった。


 しかも魂のかけらを回収する間もなく爆発した事により、「彼」本体の魂にもダメージが届いてしまった。

 アプリに使用していた異能を司る部分に傷がつき、催眠能力も暫くの間は使用不可となる始末。

 この調子では、魂のかけらで繋がっていた各アプリユーザーにも結構な被害が行った事だろう。頭がパーになる程度で済んでいればいいが。



(そして次はマジカルホール。あれもロングセラーの傑作品だったのに……!!)



『中身』を好きな場所へと繋げる事の出来る、ジョークグッズの決定版。

 多くの機能的なバリエーションも揃え、長きに渡り愛されて来たグッズだったが――やっぱりなんかいきなり爆発した。

 こちらのユーザーもおそらく酷い事になっているだろう。しかも脳だけではなく、股間まで。


 そして被害はそれだけに留まらず、他の「彼」のグッズも次々と破壊されていった。


 日本全国にバラ撒いていた物が異常ともいえる速さで駆逐され、魂のかけらごと散って行く。

 遠見の対象を設定する暇すら与えられず、本当に何も分からぬまま全てが数日の内に消え去ってしまったのである。



(他のアプリも、触手の素も……皮も箱も淫魔ドールも全てパア! おまけに僕の魂もボロボロだ! 何故、どうしてこんな酷い事に、こんなアフロにィィィ……!)



 そして先程にはついでとばかりに住処としていたグッズ工房までもが大爆発し、這う這うの体でこんな山中にまで逃げ延び、身を隠した。

 ここまでの事をされたのだ。何者かからの攻撃を受けた事はまず確実だと判断したが故である。かつて世を邪淫の坩堝に堕とした大淫魔の名が泣いている。



(く……だ、だが、どこだ。誰がどこから攻撃を仕掛けている……!?)



 奉納六家では無いだろう。

 もし奴らがこれほど素早く動けるのならば、己はとうの昔に見つかって討伐されている筈だ。


 では、誰だ。

 必死に記憶を探るも、それらしいものは見つからず――。



「……いや、待てよ」



 ふと呟く。


 いや、あったかもしれない。

 以前、似たような攻撃を受けた記憶に思い当たったのだ。



(アレは確か……時間停止ストップウォッチが壊された時だったか)



 今より一年ほど前、とある町で「彼」の創ったストップウォッチを手にした少年が「酒」の一族らしき少女を襲った事があった。

 当時、「彼」はそれを酒のつまみとして、遠見の術で愉しんでいたのだが――突然、第三者の力で強制的に時間停止が解かれてしまったのだ。


 その際、「彼」は時の力を操る霊能を持つ「刻」の一族が近くに居たのかとも思い、面倒事を避けるため、魂のかけらを回収し顛末を見届ける事無く撤収してしまった。

 ……だが思えば、あの時ほんの一瞬感じた力は、今回のものと同じもののような気がしなくもない。



(……最後まで見ておくべきだったかな。まぁいい、行ってみよう)



「彼」はアフロをわしゃわしゃ掻いて後悔するが、すぐに意識を切り替える。


 一応とはいえ手掛かりは得た。ならば当たってみるべきだろう。

 そこに今の事態の下手人が居るかは分からないが、このまま地団太踏んで嘆いていたところで何もならない。


 後の事はとりあえずヤッて、そしてイッてから考えればいい。これまでもずっとそうだった。



「ふふ、この大淫魔。手だけではなく足だって速いのだよ」



「彼」はおちゃらけるように手を広げると、その身を無数の蝙蝠へと変える。

 そしてアフロ頭の一匹を先頭に、夜空の彼方へと飛び去って行ったのだった。




 ■



「うぅ……太陽が、刺さる……」



 げっそり。

 そんな擬音が空中に浮かんでいると錯覚する程、天成社はげっそりしていた。



「……なんだあいつ」



 月曜日。休日明けの朝の通学路。

 校舎へ向かい、のたりもっそり足を引きずる彼の姿を認めた幸若舞しおりは、見て分かる程に眉を顰めた。


 朝から嫌な奴とかち合った……という事も勿論あったが、それよりも気になったのは、どうにもくたびれたその様子。

 空腹の野犬というべきか、或いはなりかけゾンビというべきか。そんな腹ペコの雰囲気が漂っていたのだ。まるで、以前の彼に戻りつつあるかのように。



(いやでも、葛から華は貰ってる筈だよな……?)



 そう、精気不足で常に空腹に喘いでいた社も今は昔。

 現在の彼は、しおりの友人たる華宮葛が生み出すスイカズラの華の蜜で腹が満たされ、極めて健康体となっている。


 葛も葛で華を求められ張り切っているのか、それとも何かがクセになっているのか。毎日三食、おやつ分や夜食分もおまけして。余裕をもって生活出来るだけのスイカズラが日々融通されている筈なのだが――。



(……まさか、どっかで淫魔の力使ったんじゃねぇだろな)



 じわり。しおりの瞳に疑いの光が灯る。


 腹が減っているという事は、どこかでエネルギーを消費したという事だ。それも、貰ったスイカズラでは補填できない程に。

 やつれているあたり他者から吸精はしていないようだが、何せ淫魔のやる事だ。警戒するに越した事は無い。


 しおりはポケットの中で霊具を握ると、慎重に社へと近づき――軽くその腿を蹴突いた。



「えっ、あっハイ、はよござまス……」


「オイ淫魔。お前ウラで何かやってんだろ吐けやオラ」


「えぇ……いきなり凄い勢いで因縁つけてくるじゃん……こわ……」



 突然吹っ掛けられた社は引き気味にそう茶化すが、しおりの視線は緩まない。

 社はそっと目を逸らした。



「や、ウラって言われても、特に悪い事とかしてないスけど……」


「じゃあその有様は何なんだよ。随分とお疲れみてぇじゃねーか」


「ああ……これはちょっと流れでやっちゃったっていうか、そんで結構出来ちゃったもんだから辞め時失っちゃったっていうか……いやね、グッズ殲滅無双で調子乗っちゃったよね、健全マンもね」


「はぁ?」



 その煮え切らない態度に片眉が上がるが、社は気恥ずかしげにヘラヘラするだけだ。

 そこに後ろめたさの類は感じられず、どうやら本当に悪事は何もしていないようだった。


 しおりは内心ほっと安堵の息を吐き、ポケットの中の霊具から手を離し、



「――いやちげーだろ!!」


「ひぇナニ」



 そんな自分に思わず叫んだ。


 何を簡単に淫魔の言う事を信じようとしているのだ。

 こうやって油断させるための演技かもしれないだろう。絆されず警戒心をちゃんと持て。


 ……いやでも、こいつがそんな器用な事をやるだろうか。

 この淫魔と出会って暫く経つが、とてもそんな奴だとは――だからその思考が危険なんだってば。



 しおりは頭を振って気を取り直すと社の首根っこを組み寄せ、その頬に取り出した霊具をぐりぐりと押し付けた。



「ぐえぇ……エ何なんスかねこのよく分かんない形のね硬いのねこっわ」


「あれだ。そうやってぼかすって事は、何かこう、アレだろ? 言えねぇ感じのヤツやったってこったろ? なぁオイ、えぇ?」


「いや言ってる意味も分かんないっていうかぁぁぁ……! いや女の子に言えないようなのってのはその通りなんスけどもぉぉぉ……!」



 淫魔の身体能力を持ってすれば容易く振り解ける拘束ではあったが、その力は下手をすればしおりの肩をも容易く砕く。

 社は押し付けられそうになる大層立派なふくらみから必死に首をねじって逃れつつ、どうにか傷つけず振り解こうと奮闘し――。



「あ。ごらん、ヤンキーがカツアゲしているよ」


「あぁ? ……あっこら!」


「イマダ!」



 ふと、背後から暢気な声がかけられた。

 そして振り向いたしおりの隙を突き、社はウナギのようにヌルっとその腕から抜け出し、声の主を盾にするように回り込む。

 そう――彼らと同じく登校中であった、華宮葛と酒視心白の陰に。



「おはようございます、二人とも。偶然ですね」


「まーたヤシロちゃんに絡んでんの? シオちゃんも飽きないねー……おお、こんなにげっそりしちゃってかわいそうに。ぼくが慰めてあげようね」


「あハイ。だいじょぶス。そんなでもないス。いッス、あざッス」


「……お前もだいぶ嫌な絡み方してんだろがよ」



 しおりは心白と社がじりじりとした間合いの取り合いを始めたのを半眼で眺め、溜息をひとつ。

 逆に葛はそんな彼らを微笑ましげに眺めつつそっとしおりの横に立ち、小首を傾げた。



「それで、今度はどうしたのですか? 心白の言う通り、少しやつれているようですが、天成くん……」


「それを吐かせようとしてたんだよ。ああなってるって事は、何かやったって事だろ。きっとろくでもねぇ事だぞ」


「……そんな事は無いと思いますが」



 しおりのかけた疑惑に対し、葛は唇を尖らせて反論する。

 そんな危機感の全くない様子に苛立つものの、葛が社にダダ甘なのは今更なのでスルーする。



「つーかお前の方で把握してなかったのかよ。いつも観察してんじゃねーのか」


「いえ、流石に休みの日までずっと一緒に居る訳では……。まぁでも、確かに金曜日の時にはどことなく疲れているように見えました」


「ならそん時にはもう何かしらやってたんだな。ちっとは疑問に思えやお前も」


「ええ、ですのでスイカズラの華をたくさん渡しました」



 そうじゃねぇよ。

 しおりはよっぽど怒鳴りつけてやりたかったが、ぐっと堪えて我慢の子。


 ……だがやはり、社に渡されたスイカズラの数は十分以上だったようだ。

 それでもなおやつれるまで、本当に何をやっていたんだ――しおりの瞳に先程以上の疑念が浮かんだ時、社の肩に跨った心白が彼を操縦しながら現れた。しおりは堪えた。



「別に怪しむ事は無いでしょ。どーせどっかでまたヤダーってなってただけだよ。ねー?」


「エ何で分かんのこわ……」


「あ、でも今度は食べなかったんだ?」


「えっ、いや……何か華宮さんの蜜で染まった身体が穢される気がして……まぁゾンビに戻るまでじゃないし、いらんかなって」


「あ、天成くん……!」


「訳分かんねぇ感じで分かり合ってんのも淫魔の言ってる事もそれで感激してんのもいっそ全部引くんだわ」



 何故か嬉しそうに頬を上気させる葛にドン引きした目を向けつつ、しおりは小さく舌打ちを鳴らす。


 やはりというべきか、葛と心白は社を疑う気が無いようだ。

 いや、二人はしおりと違い、遠見や感知など情報収集の霊術を持っている。おそらくはそれで社を潔白だとする判断材料を得たのかもしれない。

 問いかける代わりにじろりと心白を睨めば、彼女はひょいと肩をすくめて頷いた。



「ま、ぼくもナニしてたか全部分かってるワケじゃないけどさ……悪い事してないってのは、ホントだと思うよー」


「そうですね。少なくとも、今の天成くんに満ちる精気に穢れの類は見られませんし……」


「…………チッ!」



 こういった時、戦う事しか出来ないというのは弱い。

 しおりはこれ以上社に疑惑を向けられないと悟ると、またも舌打ちを鳴らし一人通学路を引き返し始めた。



「しおり? どこへ……」


「いつもの事だろうが。何かあったら連絡しろ。じゃーな」



 あからさまに不機嫌な様子でそう言い残し、しおりは肩を怒らせ歩き去る。

 とはいえ、葛も慣れたもの。無理に引き留める事もせず、ただ溜息だけを落とした。


 そして心白は遠ざかるしおりの背を生暖かく眺め、社の頭頂部に顎を乗せつつしみじみ呟いた。



「シオちゃんがこうやってぼくら残してく時点で……だと思うんだけどねぇ。そう思わない?」


「何がスか……?」


「それよりそろそろ天成くんから降りましょうね、はしたない」




 *




(ああ、クソ。イライラする……!)



 それから、しおりは昼過ぎまでをゲームセンターで過ごした。

 しかし幾らスロットを回そうが太鼓をしばき回そうがモヤモヤとした気分は晴れず、逆に苛立ちが募るばかり。


 それもこれも、あの淫魔のせいだ。

『え、何?』頭に浮かんだ能天気な顔に打ち込むつもりでマイバチを振れば、リズムが一拍遅れてフルコン逃し。増々もってムカついた。



「……はぁ」



 そうして散々と荒れ回った後、しおりは休憩スペースのベンチに腰掛け、スマホを見る。


 葛からの連絡は無い。

 心白からは何故か炭酸ジュースの画像が送られてきている。

 いつも通りだ。しおりはつまらなそうに軽く鼻を鳴らし……そんな自分に舌打ちをした。



(……SOS来んの期待してんじゃねーよ。ボケがよ)



 そう、本性を現した社が暴れ、葛達が自分に助けを求めて来る――などと。

 幾ら社の危険性を認めさせたいからといって、葛達に危機が迫るのを望むというのは違うだろう。幽かにでもそんな可能性を求める心に嫌気が差す。


 しかしその自己嫌悪により意気が萎え、苛立ちも多少は収まった。

 細長い溜息を吐き出しながら席を立ち、近くの自販機にコインを入れる。選んだのは、心白の画像にあった炭酸ジュースだ。



(何であいつら、ああまで気ぃ許せるかね……)



 そうしてぼんやりペットボトルを傾けながら、またその疑問を繰り返す。


 きっかけという意味ではまぁ分かる。特に葛の方は改めて考えるまでもない。

 心白に関してはいまいちハッキリとはしないが……もしかすると過去、社に助けられた事でもあるのかもしれない。あれはそういった甘え方に見えた。


 そして本人が(表面的には)無害という事もあるだろう。

 彼の言動はヘタレ小心者のそれであり、何より十六年間女性からは精気を吸わず、飢餓にも意地で耐えたという。それが本当ならば、筋金入りの安パイだ。


 だが……だがやはり、だからといって淫魔相手に近寄り過ぎではないのか。


 これまでが大丈夫だったからといって、これからがどうなるかなど分からない。

 親友の贔屓目を抜きにしても、葛や心白は非常に魅力的な少女達だ。そんな二人に挟まれ続ければ、いつか淫魔としての本能が暴走する恐れもある。

 そうなった時、傷つき、泣くのは二人の方で……。



(……いや、絶対嫌な事だよな? あいつらにとってもな? 流石にな?)



 何となく嫌な予感がしたが、とりあえず流しておくとして。

 そうしてあれこれつらつら考えども、結果はやはり「納得できない」に集約する。


 堂々巡り。幾ら考えても何一つ変わらない感情に、最早ウンザリとさえしてしまう。



(……それともウチの方がおかしいってか?)



 そんな訳はない――と思いたかったが、心当たりが無い訳でも無いのが困りもの。

 しおりは空になったペットボトルを八つ当たり気味にゴミ箱へと投げつけるも、勢いが強すぎたのか外れて落ちた。

 おのれ淫魔め。憎々しげに呟けば、心中の社が『えっまた俺ぇ?』と呟いた。




 *




 奉納六家が一、「舞」の一族。

 それは六家の中において、最も分家の多い一族である。


「舞」の字を冠する家筋は同時に二十以上存在し、そこから更に筋目が分岐する。

 そしてそれぞれの家には血脈に伝わる舞踊があり、それを舞う事で個々の霊能を発揮するのだ。


 その異能は決して重なる事は無く、一つの家に一つの特別な舞が授けられる。

 肉体を神に近づけるための舞、怪異を魅了し宥めるための舞。それらの宿す霊能は広くあり、しかし統一されたもの。


 神を演じ、怪異を祝福し、そして自己を称賛する――舞い踊る事で演目を纏い、神や怪異へ捧げ鎮めるための力であった



 ……しかし、一方。

 かつての「舞」の一族は六家の中で、最も実力者の少ない一族でもあった。


 正確に言えば、それぞれの家に伝わる舞踊の適合者が少なく、層が非常に薄いのだ。


 臆病な者に戦闘の力が向かないように。凶暴な者に治癒の力が向かないように。

 演じるという行為が霊能に直結しているが故、その舞踊と本人の気質が一致しない限り十全の力を発揮する事が出来ないためだ。


 そして人間の性とは、人が自由自在に操作できるというものではない。

 躾けや環境を整えただけでは意味は無く、時代が進むにつれ「舞」の一族は断絶の危機にまで瀕し――だからこそ彼らは、量に走った。


 多くの妾や男妾、多夫多妻を推進した他、身内間での多情あだ事さえも黙認し、ひたすらに多くの子を設けるよう煽動したのだ。


 下手な鉄砲も数撃ちゃあたる。

 一つの家に二十の子が生まれれば、その内の一人二人はその家の舞踊を十全に舞える者が現れる。


 様々な問題のある方法ではあったが、結果としては成と出た。出てしまった。

「舞」の一族は断絶の危機より脱する事に成功し、ついでに家系図がえらい事になった。


 そうして時代と共に妾や多夫多妻だけが廃れ、身内での多情あだ事を黙認する悪習だけが残り。

 かつて縋った苦肉の策は、現在においては大手を振って快楽に耽るための名目と化し、舞踊と共に脈々と受け継がれてしまったのである。


 ――そしてそれは、幸若舞家においても変わらない。


 しおりの父親は多くの従姉妹や叔母と腰を合わせ、母親も多くの従兄弟や叔父の上でくねり踊った。

 腹違い・種違いの兄弟姉妹も数え切れない程多く、顔を合わせた事のない者まで居る程だ。


 しおりは、そんな家族が大嫌いだった。


 父も母も、人間的には善人の部類である事は知っている。

 だが、その好色さが本当に気持ち悪くて堪らない。


 夫婦だというのに、何故互いに平気な顔で他人と関係が持てるのか。

 そして何故それを誰も咎めない。何故気にした風も無く仲良し夫婦を続けていられる。子を愛せる……!


 生来、純情潔癖な性分のしおりである。

 成長するにつれ抱く違和感と不快感は大きくなり、そういったものから必死に目を背けても、やがて他の親族から目合ひまぐわいの誘いをかけられるようにもなり。


 ――当然の帰結として、彼女は盛大にグレた。


 そしてその苛烈さこそ、幸若舞の血に宿る舞踊に必要な性であった事は皮肉でしかないだろう。

 しおりは致命的に「舞」の一族に不向きな精神性でありながら、しかし確かに幸若舞に選ばれた者であったのである。





「…………」



 ……だから、なのだろう。


 そんな家に生まれたからこそ、きっと己は社が認められないのだ。

 ゲームセンターから離れ、あてもなく街中をぶらついていたしおりは、ぼんやりと思う。



(エロオヤジにエロババァ、エロ兄エロ姉エロガキ共……人間だってああなるのに、淫魔のあいつが我慢できるなんて思いたくねぇ)



 そういった環境さえあれば、人間は容易く色に溺れる。

 社も催眠などの精神操作能力を持っている時点で、そういった環境にあったと言える筈なのだ。


 なのに何もしない、していない、などと。

 まるで人間の方が……というより「舞」の一族の方が、こう、あんな強い力を持つような淫魔よりも、なんか――。



「――だああああああッ!! 滅びろウチの家ッ!!」



 バキャアン!

 衝動的に蹴り飛ばした街灯の支柱が砕け、ぐらりと倒れた。


「おわヤッベ」すぐ我に返ったしおりが慌てて支えるも、最早どうにもならない。

 周囲の目もあり焦りに焦り、咄嗟に折れた支柱を地面深くに突き刺し、脱兎のごとく逃げ出した。

 そうして手近な路地裏へと潜り込んで人目を払い、一息。



「あー……まずったな。くっそ淫魔の野郎め……」



『なんか呼ばれる度に罵倒されるんじゃが』心に浮かべた社に新たな罪を擦り付け、壁を背にしてしゃがみ込む。


 一応、霊能力者としての怪異討伐任務による報奨金がそれなりに貯まっている。

 街灯の修理費用程度に悩む事など無いのだが……その手続きが非常に面倒臭い。


 しかし実家になど絶対に頼りたくはなく、かと言って葛や心白に助力を乞うのも気が引けた。それも、こんな間抜けな事で。


 本当に戦闘しか出来ないというのはこれだから。

 しおりは己の霊能を忌々しげに思いつつ、ビルに切り取られた藍色の空を仰ぎ――。



「……あん?」



 その時、妙なものが視界を横切った。


 それは無数の蝙蝠の群れ。

 この街においては多少珍しくはあるが、それ以上のものではない光景だったが――何故か、先頭の一匹がアフロであった。


 アフロであった。



「……? ……??」



 しおりは一度目を瞑り、眉間を揉み解してからもう一度見る。

 しかし見間違いや錯覚ではなく、どうしようもなくアフロであった。


 それはしおりが呆気に取られている内に飛び去り、夕暮れ景色の向こう側へと消え去った。

 後にはただ何とも言えない空気が残り。



(ドローンとかラジコンとか……じゃあねぇよな)



 であれば――妖魔怪異の類か。

 しおりは瞬時に気を切り替えると、路地裏の壁を蹴り上げビルの屋上へと到達。

 薄闇空に目を凝らせば、山の方へと向かう黒点の群れが見えた。先程の蝙蝠達だ。



(……あれ追ってる時にやむを得ず壊した事にすっか、街灯)



 そんなセコイ事を考えつつ。

 しおりも蝙蝠達を追い、夕暮れの中へと飛び込んだ。




 *




 辿り着いたのは、街中より少し離れた山中であった。


 傾斜が比較的なだらかで、木々の疎らな開けた場所。

 そこに集まった蝙蝠達は渦を巻くように絡み合い、やがて一つの人影を形作る。


 美しい男だった。


 すらりと伸びた足、引き締まった腰、細身ではあれど適度に筋肉の乗った腹と胸、そして丹念に彫られた彫刻のような甘い顔立ちに――アフロ。


 一部に激しい違和感を纏う「彼」は、そこに居るだけで周囲に淫蕩の気を溶かし、空気を、或いは空間そのものを淫らに、そして退廃的に染め上げて行く。



(……やべぇ)



 そして、付近の木陰で息を潜めていたしおりは、その異様とも言える気配に冷や汗を流した。



(淫魔……か? ふざけた頭の癖に相当だぞ……!)



 これだけの『色』だ。淫魔の類である事は、まず間違いないだろう。


 淫魔などこれまで社一人にしか遭遇した事は無く、彼自身強大な力を持つ事は察せられるとはいえなんだかんだと実力を見せないため、危険度の判断基準が不明瞭ではある。

 だが、受ける威圧感だけならばヘタレ野郎の社よりも圧倒的に上だった。



(……くそ、淫魔ってのはみんなこうなのか? とにかく葛達に知らせねぇと……)



 流石にこのような相手に己一人で突貫し、無事に済むとは思っていない。


 葛達は勿論、場合によっては一族の手練れや……最悪、社にも応援を求めなければならないだろう。

 しおりは目の前の「彼」から決して視線を外さないまま、後ろ手にスマホを操作して、



『――おっといきなり乱交かい? それは少し風情が無いね』


「――――」



 ――スピーカーから、そんな聞き覚えない男の声が流れた瞬間。

 しおりは即座にスマホを握り潰し、その場から大きく飛び退いた。



「ぐっ……!?」


「おや、思っていたよりずっと美人さんだ。いいね」



 直後。隠れていた木陰が爆散し、跡形もなく吹き飛んだ。


 そうして露わになったしおりの姿を「彼」の紅い目がしっかりと捉え、嗤う。

 濃い色欲を纏った視線に蕩けるような痺れが走るも、しおりは舌打ちと共に振り払って戦闘態勢。その敵意みなぎる様子に、「彼」の片眉がぴくりと跳ねた。



(やはり壊されたグッズの力が全滅しているのは面倒だね。腹立たしいなぁ、まったく)


「……最初っからバレてたのかよ、クソが」


「ん? ああ、この大淫魔。尻を追うだけでなく、追われる方も経験豊富なのだよ」



「彼」はおちゃらけるように手を広げ、動きに合わせてアフロも揺れる。


 しかししおりは油断せず、既に装着していた霊具に霊力を回す。

 履き古したスニーカーに取り付けた、三角形の木製靴底アタッチメント。漆の塗られたそれの隙間から、しおりの霊力混じりの風がこうと強く吹き抜けた。



「……身近のがアレだったから、一応、念の為に聞いといてやるがよ。てめぇ何のためにこの街に来た。目的次第じゃ蹴り飛ばすの止めてやる」


「おや、優しいね。うーん、まぁ……ちょっとした探しものさ。君、一年前のストップウォッチと聞いて心当たりは無いかい?」


「はぁ?」


「ああいや、いいよ。今ので分かった」



 怪訝な表情を浮かべるしおりに「彼」はひらひらと手を振って、その指先から影の塊としか表現できない何かを撒き散らす。

 それらは「彼」の周囲に落ちるとたちまち体積を増し、無数の異形と姿を変えた。


 それは小さい背丈に緑の肌をした、一部界隈で有名なモンスター――ゴブリン達だ。



「ギッ、ギギッ……!」


「そら、南蛮天狗だ。弱そうだろう? 存分に慢心しておくれ」


「……これも一応、何のつもりか聞いてやる」


「はは、何分使えるシチュエーションが少なくなってしまってね――ま、行きたまえ」



「彼」の号令にゴブリン達は雄叫びを上げ、しおりへと群がった。

 そのどれもが股間をいきりたたせており、何を求めているのかは明白だ。



「んのッ、やっぱ淫魔がよぉ! さっきこういうのは風情がねぇだの言ってたろうが!!」


「そうだったかな? ふふ、この大淫魔。放った言葉と精の責任は持った事が無いのだよ」


「死ねや屑がッ!!」



 しおりは額に青筋を浮かべ、迫り来るゴブリンの一体を蹴り砕く。

 すると霊具である木製の靴底より太鼓の音が鳴り響き、周囲の空気を清浄に揺らした。



「――《演目・烏帽子折えぼしおり》」



 詠唱が乗り、霊力が奔る。


 踵を打てば拍子木の音。爪先を振れば笛の音。

 足先の動き一つで様々な楽器の音色が奏でられ、霊力を織り込んだ音楽としての形を成す。


「舞」の一族の象徴の一つである舞台欅を使用した、霊力を流す事で動作する特殊な複合楽器――それがしおりの霊具であった。



「はっ――!」



 そして足元から流れる音楽に合わせ、しおりの身体がしなやかに、艶やかに跳ね踊る。

 そこに定型の振りは無く、しかし確かに舞踊と成って。彼女の輪郭に沿い流れる朱金色の燐光が軌跡を刻み、次々と敵が屠られてゆく。


 荒々しくも美しい、戦の舞だ。



「……君、『舞』の一族か。『酒』の酔いどれ共だと思っていたのだが」


「悪かったなぁガラ悪くてよぉ! オラ詫びだ受け取れやッ!」


「グギッ――!」



 一際大きな太鼓の音と共に、最後に残ったゴブリンが蹴り飛ばされる。

 それは寸分たがわず「彼」のアフロ頭目掛けて飛来するが、「彼」は表情を変える事も無く虫でも払うかのように叩き落した。


 そして足元で呻くゴブリンを躊躇いも無く踏み潰し、つまらなさそうに呟いた。



「ふぅん……やはり巣穴の用意か、最初に調子に乗ったセリフを言ってくれないと上手く犯せないのか。その辺りの改良は今後の課題だね」


「何グチャグチャ言ってんだっつーの!!」


「おっと危ない」



「彼」は間髪入れずに打ち込まれた踵落としをするりと躱すと、お返しとしてその長い脚をしおりの腹に叩き込む。

 しかししおりも身を捻ってそれを避け、その勢いで回し蹴りを繰り出し、また避けられ、そして反撃されての繰り返し。


 霊具の流す音楽も重なり、まるで二人演舞を行っているかのようだった。



「ああ、良い肉体だ。敏感さ、筋肉の付き方共にパーフェクト。しかもそこまで舞踊を続けられるなんて、相当な鍛錬を積んできたようじゃないか。しゃぶりつくのが愉しみでならないよ」


「クソほど不快だから死ね!!!」



 そう叫び振るう烈脚は、一瞬前に繰り出したものよりも数段威力が上がっている。

 しおりがその身を躍らせる度、霊能による強化が重ねられているためだ。


 ――幸若舞の受け継ぐ舞踊は、舞い続ける事でその演目の主役に自身の存在を近づける術である。


 そしてしおりの授かった霊能であり演目、《烏帽子折》の舞にて表現される英傑の名は――後の源義経こと牛若丸。

 この日本において知らぬものは無いほどの戦名人だ。


 一つ足を振り、一つ腰を捻るごとに、少しずつしおりは牛若丸の伝承を纏ってゆく。

 それは東西南北を自由自在に駆け回り、刀一つで数多の敵を切り伏せ、天狗の異能を事も無げに扱う超人の力。


 無論、霊能力者とはいえ只人の身体が容易く扱えるものではない。

 しおりも(誘いをかける親戚をぶちのめすために)血の滲むような鍛錬を重ねた末、ようやく限定的に使いこなせるようになった霊能だ。


 こうしている間にも、重なる強化に身体が悲鳴を上げようとしている。

 骨が軋み、肉が引き攣り、徐々に身体に振り回されるようになっている。



 ――では、そんな力を涼しい顔でいなし続けるこの淫魔は何だ?



(――ダメだ! やっぱウチ一人じゃキツイ!!)



 もう何度目かも分からない応酬の後、しおりは一度大きく距離を取る。

 着地した片足ががくりと崩れかけるが、対する「彼」は息の一つも乱していない。優雅に衣服の埃を払うその様子に、しおりは大きな舌打ちを鳴らした。



(くそ、スペック差がありすぎんな。何でか催眠の類使って来ねぇのは助かるが、それでも……)



 このままでは負けるだけだ――そう悟ったしおりは、意識を完全に逃げに切り替える。

 元々キツイ一撃を入れて離脱の隙を作り出すのが目的だったが、この調子ではいつまで経っても出来る気がしない。

 ただ嬲り殺しにされ……そして「しゃぶりつかれる」だけだろう。



(しゃーねぇ、追撃上等でケツまくっか……!)



 おそらく引き剥がす事は出来ないだろうが、心白の感知範囲にまで逃げ込めればどうにかなる……かもしれない。

 しおりは背後から打たれ続ける覚悟を決め、とある術を組み上げて――



「――君、逃げようとしているね」


「!」



 発動しようとした瞬間、「彼」がそう問いかけた。



「…………」


「図星のようだね。でもすまないなぁ、流石に六家の連中に本格的にバレると面倒な事になるから、逃がしてあげる訳にはいかないんだよ」


「……だったら力尽くで止めてみろや。ウチも力尽くで逃げ出すからよ」


「ふぅん、そうかい。じゃあ――」



 ――そうさせて貰おうかな。

 その声は、しおりのすぐ耳元で囁かれていた。



「っな――かはッ!?」



 振り向けばそこにはアフロを靡かせる「彼」が立ち、しおりの腹部に開いた五指を突き立てていた。


 ほんの一拍意識が白むが、しかし唇を噛み切り堪え。

 反撃に蹴りを放つもやはり当たらず、「彼」は元の位置へと舞い戻る。



(ちくしょう……全ッ然、動き追えねぇじゃねぇか! 見誤ってんなよボケ……!!)



 遊ばれていたのは分かっていたが、どうやら実力差は予想以上にあるらしい。

 焦燥と屈辱が入り混じり、しおりは顔を大きく歪め膝をついた。



「ふふ、力尽くで、だっけ。笑っちゃうよ、どの口で言っているんだい?」


「く、そっ……てめぇの頭の方が笑えんだよっ、アフロ野郎が……ッ!」



 苦し紛れにそう中指を立てれば、「彼」はそれまでの愉快気な様子から一転、不機嫌そうに片眉を上げる。

 しかしすぐにそれを収めると、かわいそうなものを見る目をしおりへ向けた。



「……ま、いいよ。これから君の方がもっとかわいそうな事になる。今の内の生意気くらいは許そうじゃないか」


「あぁ……? てめぇ、何言って――」



 ――ドクン。

 その時、しおりの腹部が脈動した。



「っ、ぐぁ……!?」



 熱い。まるで焼きごてを押し付けられたかのような激痛が腹部に走る。


 先程五指を突き立てられた場所だ。

 咄嗟に服を捲れば――そこには妙な光を放つ紋様があった。


 うっすらと割れた腹筋の上に刻まれた、ハートとも子宮とも見える形。

 それは毒々しいピンク色に輝きながら、耐え難い、魂が引き剥がされるかのような苦痛をしおりに塗り付けている――。



「なっ……んだ、これ。てめぇウチに何しやがった……!」


「さっき言ったろ? 今は使えるシチュエーションが少なくて困ってるんだ。だからまぁ、色々と試しごとも兼ねて、ね」


「何の答えにもなってねっ……うぎ、ぐ、ぁああああ……!!」



 立ち上がろうとすれば紋様が強く輝き、その苦痛を増大させる。

 しおりは自然、腹部を抱える姿勢で額を地に擦りつけ、ただ苦しみに耐え続ける外は無く。



「――人格排泄。知っているかい?」



 その様子を満足げに眺めながら、「彼」は言った。



「ぁ……は? じん……?」


「その名の通りさ。女の子の人格をね、排泄物として固めて身体の外に出してしまうのだよ」



 ……こいつは、何を言っている?

 言葉の意味が全く分からなかった。しかし「彼」はそんなしおりを置き去りに、スラスラと語り続ける。



「パターンとしては汚穢化かスライム化に分かれるようだが……スライムで出してディルドとして扱う方が好まれているようだからね、今回はそっちにしてみたんだ」



 ……分からない。



「……おい、待てよ……」


「まぁ、まだアプリに変える前の試作段階だったからね。人格だけじゃなく、魂も幾らか排泄されてしまうかもしれないけど、そこはご愛敬だ。とりあえず死んで肉壺の温度が下がらなければいいと割り切ろうじゃないか」



 分からない、分からないままで居たい。



「待てって……だから、なんの、」


「でも廃人になってしまう訳だから。反応が無かったり、理性が飛んで淫乱化しないのを残念に思うユーザーが出るのは分かっている。でもねぇ、そのあたりの調整が難しくてね。ま、それは今後の課題だね」



 本当は既に察している。

 だが頭が、心が理解を拒んでいた。

 しおりの腹底が鉛のように重くなり、尋常では無い吐き気が昇った。



「そして肉体の方の扱いだが、安心しておくれ。僕が余すところなく使い尽くしてあげた後、適当なチンピラにでも下げ渡すからね。人格スライムの方もちゃんとディルドとして使用予定だ。喋れないけど意識は保っている筈だから、存分に――」


「――だから! 何の話をしてんだよッ!!」



 腹部の激痛を堪え、叫ぶ。

 すると「彼」は言葉を止め――それはそれは愉しそうにしおりの紋様を指差し、嗤い、




「――決まっているだろう? 君の末路の話さ」


「――――」



 その一言を聞いた瞬間、しおりの意識が遠のいた。


 ショックを受けた――という訳では無い。実際の現象として、意識が、魂が別の場所へと運ばれようとしていたのだ。

 反射的に地面に頭を叩き付け正気を保ったものの、それは変わらず彼女の意識を持って行こうとしている。


 そう――腸の中。排泄物を固めるための、その場所へ。



「ぐ……あぁ……ぁぁぁあぁ……!?」


「おや、耐えるねぇ。そういう意志の強い子は大好物だ――折るとよく泣くからね」


「ぁ、うぐッ!」



 しおりに歩み寄った「彼」がその後頭部を踏みつけ、地に埋める。

 地中の石にでも当たったのか、額から暖かいものが流れた。



「君は今まで、とっても頑張って来たのだろうねぇ。分かるよ。あの爛れた『舞』の連中なのに、処女だもの。自分の意志を、自分そのものを守り通そうと努力して来たんだ」


「ぐ、ぁが……うる、せ……」


「でも、本当は違うのだよ。君の努力は全部、今この時、僕のためにしていたのさ」


「は……が、あぎ、ぃぃぃぃぃぃいいぃぃぃ……!!」



「彼」の両目が赤く輝き、同時に紋様の光も強まっていく。

 これまでの比ではない吸引力で意識が引かれ、いつのまにか下腹部の内側に異物の感覚がある事に気が付いた。


 大きく、しかし硬くは無い、弾力のある何か。

 その正体など、考えるまでも無い。苦痛とは別の理由で、しおりの顔が青く染まった。



「や……やめろ……! くそ、クソがぁ……ッ!!」


「ふふ、今から糞になるのは君なんだがね。この大淫魔にも負けないナイスジョーク」



 そう笑い、「彼」はしおりの頭から足をどけ、爪先でその身体をひっくり返す。


 最早抵抗する余裕すら無いのだろう。

 しおりは身体を丸めただ脂汗を流し、涙に濡れた瞳で「彼」を睨む事しか出来ず。


 その絶望に塗れた表情に、「彼」はうっとりと息を吐き――そっと、しおりの腹に足を乗せた。



「……ぁ、あ……ぁぁ……っ」


「ありがとう、ここまで成長してくれて。ありがとう、ここまで肉体を鍛えてくれて」



 ゆっくりと、噛み締めるように。

 少しずつ、少しずつ、足を沈めていく。


 ぎゅるぎゅると腹が下る音が鳴り、しおりの意識が腸の中へと潜り込む。



「ゃ、だ……や……ぃや……ッ!」



 纏っていた意地が剥がされ、ぼろぼろと崩れ去る。


 分かる。分かってしまうのだ。

 己の全てが、魂が。おぞましく、そして忌まわしきものに変質し、別のものとして誕生しようとしている。

 それは何一つとして救われない結末で、ある種酷く下劣な転生でもあった。



「君の積み重ねてきたもの全てで、僕を気持ち良くしておくれ。僕につかの間の快楽を与えるために、君の得たもの全てを台無しにしておくれ」



 しおりの腹の中で、何かが蠢く。

 もう、我慢も出来ない。それは「彼」の足裏に押し出される形で彼女のそこへと流れ、そして、




「そうさ、君は――僕の性処理道具グッズになるために、この世に生まれて来たのだよ」




 ――濁り一つ無い、慈愛に満ちた笑みと共に。

 しおりの腹が一層強く押し込まれ、破綻した。




 *




「  ぁ が 」



 ……そして、破滅するまでの僅かな間。

 しおりの脳裏に幾つもの人の顔が浮かんだ。


 おそらくは走馬灯のようものだったのだろう。

 母親、父親、兄弟姉妹。それは大嫌いな者達から順々に流れ、消えて行き――最後に残った顔が、三つ。



(……心白)



 家を飛び出したばかりで、荒れに荒れていた頃。たまたま一緒に野良妖魔に出くわし、それ以来つるむようになった彼女。

 最初はその適当な性格に酷く苛ついたが、いつのまにか隣に居るのが当たり前の親友になっていた。



(葛……)



 心白と共に深夜徘徊し、朝まで遊び惚けていた頃。突然、六家の霊能者として相応しい振る舞いをしろと突っかかって来た彼女。

 当然何度も喧嘩をし、時には殺し合いの寸前にまで発展したが、気付けば気の置けない親友となっていた。



(あいてぇなぁ)



 強く強く想ったが、もう叶う事は無いのだろう。

 しおりはそれを酷く悲しみながら、最後の一人を見やる。



(……天成、社……)



 何故こいつが最後に浮かぶ。

 そんな疑問が無い訳ではなかったが、最早どうでも良かった。


 全てが手遅れになった今、自分でも驚く程素直な気持ちで彼に向かい合えた気がしたのだ。



(――お前、ほんとにマトモだったのな)



 ぽろり。

 零れるように、言葉が落ちた。



(……あのクソアフロ、終わってたよ。淫魔だったとしても、酷すぎるくらいに)



 しおりでは手も足も出ず、おそらく六家の長達であっても討ち取れるか分からない程に強大な力を持っていた、「彼」。


 酷く淫蕩で、倫理観も何も無い、救えない男だった。

 あれを見た後であれば、社が如何に自分を律していたのかがよく分かる。



(お前が淫魔としてどんだけヤバいのかはよく分かんねぇけど……めっちゃ我慢頑張ってたってのは、今なら余裕で信じられるわ。もうおっせぇんだけどよ)



 今この瞬間が終われば、しおりは女として……否、人間として終わる。

 こんな状況で何を思おうが、意味も価値も無いのだ。



(……ああ、そうか。ウチと似てたんだな、お前)



 ふと気づく。


「舞」の一族の爛れた性質に抗い続けたしおり。

 淫魔としての在り方に抗い、耐え続けていた社。


 思えば、境遇としては似通ったものだ。

 今更ながらに至った事実に、苦い後悔だけがせり上がる。



(クソ……何なんだよぉ……今になって、こんなんばっかか――、っ、ぁぐ)



 不意に腹部に痛みが差し、膝が崩れた。


 先程と同じ、意識と魂を苛む苦痛。どうやら、この走馬灯ももう終わりらしい。

 忘れかけていた恐怖と屈辱が蘇るが――しおりはこれも堪え、意地を張って再び社へ向き直る。



(……悪かったよ、今まで。ウチは……ここで終わる、けど。でもあいつらは違うからっ……だから、頼む。あのクソアフロ……を……ッ)



 謝っても頼んでも、本人に伝わらない事は分かっていた。

 だが最後に何かを遺さなければ、狂ってしまいそうだった。


 そしてやがては苦痛に耐えきれなくなり、腹を抱えて蹲る。



(ぁ、ぁ、ぁ、ぁ――)



 意識が消える。魂が千切られ、剥がされる。


 もう何も考えられず、感じられず。

 しおりの意識は流れ、凝固し、どこか狭い場所から捻り出されて――。




『……え? つまり長々語ってたのそれ、お腹痛いって事に帰結する感じ……?』


「……………………あ?」




 ――寸前。素っ頓狂な呟きが響き、しおりの意識がほんの僅かに浮上した。




『え……いや。違う、の? 何か、それっぽい雰囲気だけど……』


(は???)


『うわ声低こわ』



 のろのろと再び意識を向ければ、そこにはやはり社の顔があった。


 ……いや、違う。

 それは心白や葛のような記憶から切り取ったものでは無い。

 おどおど目を彷徨わせ、ウロウロ迷って声を詰まらせている、今ここに生きる彼。



 ――走馬灯ではない。本物の天成社が、ここに居る。



 そう悟った瞬間しおりの眼前で光が弾け、魂が勢いよく引っ張り戻された。



(……は? はぁ!? はあああああああああ!?)


『ンヒィ』



 意識が晴れる。

 同時に激しい混乱が脳裏を埋め尽くし、苦痛も忘れ社へと詰め寄った。



(なんッ……!? なっ、何で! おま、お前!! 出て!!)


『だだだって、その……お、俺、淫魔だもん。強く呼ばれたらあなたの夢にお邪魔するもん。トト――』


(意味分かんねぇんだよ! 呼んでねぇよそんなに強く!!)


『でもゲーセンの時は敵意マシマシだったのに、いきなり何か殊勝に呼ばれたら気になるじゃん……』


(あん時からかよお前何か変なセリフ聞こえると思ったら!! 心の声盗み聞きしてんじゃね――っい、きゅぅぅぅぅぅ……!?)



 何もかもがぐちゃぐちゃのまま怒鳴っている内、またも腹に激痛が走る。

 一度引っ張り戻されはしたが、また排泄されかかっているらしい。ギリギリと腹を押さえ、耐え忍ぶ。



『え、や、あー……やっぱアレじゃん。漏らしそうになってるじゃん。早くトイレに……』


(ち、ちげ……じゃねぇ、頼むから葛達、敵っ、知らせて……! おねがい……!)


『華宮さん? えでも、それよりトイレ……』


(いいからトイレから離れろや!! っあぁぁあ……! ヤバ、ちょっと、出、っ……!!)


『うわっ。ど、どうしよ、流石に俺も下痢止める力は……あっ』



 突然の事態に社も動転していたようだったが――しおりをよく見る内に何かに気付いたように声を上げ、顔を顰めた。



『うげ……何かお腹気持ち悪い事になってんじゃん。どんなゲテモノ拾い食いしたのよ……』


(……は、ぁ……?)



 苦しむしおりの返事を聞かず、社は慌てた様子で彼女に駆け寄ると、その腹部をそっと撫でる。


 先程踏みつけられた時とは違う、確かな優しさが感じられる手つき。

 しおりはそれに、どうしてか泣いてしまいそうになり――。



『――そいっ』



 そんな、気の抜ける声が聞こえた直後。

 しおりの意識は、まるで空に勢いよく投げ出されるようにして掻き消えた。




 *




 ――突然。

 踏みつけられるしおりの身体から、白光が一つ飛び出した。



「っ!」



「彼」は咄嗟に足をどけ、間一髪にそれを回避。

 白光はそのまま陽の落ちた空へと昇って行くが――途中で弧を描くように反転。流れ星のように地上へと落下する。


 それは明らかに「彼」を狙って落ちており、その端整な顔が不愉快気に歪んだ。



(……人格排泄の紋が剥がされただって? それも呪い返しと来た。おかしいな、この子にそこまでの力量は無いように見えたのだが……)



 ちらりと未だ倒れたままのしおりを――正確にはその臀部を見る。

 つい数瞬前まで人格スライムが排泄される間際であったというのに、そこにそれらしき物体は無い。それどころか意識の覚醒する兆候を見せており、やはり人格排泄が完全に失敗に終わった事が窺えた。



(……面白くないな)



 自力にせよ、第三者の横槍が入ったにせよ。

 大淫魔たる「彼」の術が解かれてしまった事に変わりは無い。


「彼」は少なくない苛立ちを持て余しつつ、再び白光に視線を戻した。



「まぁ……いいか、もう一度愉しめると考えようかな……」



 溜息と共にそう呟く一方、酷く白けた表情となり。

「彼」は白光の迫るタイミングに合わせ、ゴブリンを払いのけた時と同じく無造作に腕を振って、



 ――白光に触れた瞬間、腕が跡形もなく消し飛んだ。



「……は? ――おぅごッ!?」



 それに唖然とした一瞬の隙を突き、白光が「彼」の腹に直撃。身体を激しく吹き飛ばす。


 幾本もの木が折れ、幾つもの土塊が飛び散って。

 やがて山奥にある崖の岩肌に激突し、ようやく勢いが止まった。崩れ落ちる土砂と共に地面に落ち、激しく咳込む。



「げほっ……ば、馬鹿な……この大淫魔が、こんな――ッぐぅ!?」



 そうしてよろめきながらも立ち上がろうとするも、腹部に激痛が走り膝をつく。



「……ま、まさか――」



 先程白光を受けた場所だ。

「彼」はすぐさま己の腹を確認し――それを目にして青褪める。


 そこにあったものは人格排泄の紋様だった。

 おそらくしおりに刻んだものが跳ね返されたのだろう。それに関しては予想の範囲内であり、驚きは無かった。


 ……問題なのは、その上から別の紋様が重ね掛けされていた事だ。


 神社の地図記号によく似た鳥居の形をしたそれが、人格排泄の紋を閉じ込めるように刻み込まれていたのだ。

 当然「彼」は引き剥がそうと試みたが、相当に強力な存在が施したものらしい。どれだけ力を流し込もうがピクリともせず、人格排泄の紋を「彼」に押し付け続けていた。



「この大淫魔でも解けない呪い返しなんて嘘だろう!? まずい、これでは僕が……はぅッ!? ぉほォォォォォォ……!!」



 言っている間にも、腹痛はより大きく、そして激しくなって行く。


 最早、取り繕う余裕も無くなっていた。

 消滅した腕の再生も忘れ、ぼたぼたと脂汗を流しながら必死に紋の解除を試み続け――。



「――よぉ、随分と苦しそうだなぁ」



 カン、と。

 拍子木の打ち鳴らされる音が、響いた。



「……や、やぁ、おはよう。そういう君も随分と早いお目覚めで」


「どっかのすげぇ奴が優しくお腹さすってくれたもんでなぁ、スッキリしちまってよぉ」



 折れた木々を跨いで現れたのは、凶悪な笑顔を浮かべたしおりであった。


 重なる舞踊の負担に加え、人格排泄の紋が余程効いていたのか、彼女も相当に疲労した様子ではあった。

 しかしその額にはビキビキと青筋が走り、充血した瞳は激怒に揺れて。それに呼応し、朱金の燐光が間欠泉のように立ち昇る。


「彼」は無意識の内、半歩だけ足を下げた。



「ふふ、それは良かッ……たぁ、ぐぉぉ……でもごめんッね、今は君にィッ、か、かかずらっている暇ないッ、からぁッ……ふーっ、ふーっ……見逃して、お゛っ、あげるよ……!」


「いやいや、遠慮すんなよ続きやろうぜ――オラァッ!!」


「っうおおおおおおおお!?」



 突如として飛び掛かったしおりの踵が、「彼」の腹部目掛けて落とされる。

「彼」は必死に飛び退き、空振った踵が大地を叩いてそのまま割った。太鼓の音と共に、大量の土砂が巻き上がる。



「何をする!? そんなものがお腹に当たれば、僕は……!!」


「人には良くて自分は良くないってぇ!? ざけんじゃねぇ全部ヒリ出してやっから動くんじゃねぇクソボケがッ!!」


「く、くそっ、蛮人め……!」



 続けて繰り出される攻撃に、「彼」はプライドを捨てて逃げ出した。

 しかし腹部の激痛により上手く身体が動かせず、術の類も使えない。社の紋への干渉以外にリソースを回せば、その瞬間に人格排泄の紋が一気に進行するためだ。


 ――「彼」の人格が、魂が、スライムとなって押し出されてしまう。



(――そんな馬鹿な話があるか! これは僕の力だぞッ!?)


「このっ、待ちやがれクソアフロが!!」



 しおりの蹴りを器用に躱し、「彼」は腰から翼を生やして空へと逃げる。

 蝙蝠化はともかく、羽程度であればまだ身体機能の範疇だったようだ。


 しおりも夜空に溶け行く「彼」を追うべく、先程離脱に使おうとした術を発動し――。



「――ぐぅッ、な、何だ!?」


「!」



 霊力を組み上げる最中、突如として地中より植物の蔓が伸び、「彼」の四肢を拘束した。

 そして混乱する「彼」とは逆に、しおりは嬉しそうに顔をほころばせる。



(葛、来てくれて――いや遠見か! 助かった!!)



 おそらく社が知らせたのだろう。

 そうして遠見の術でこちらの状況を把握し、ひとまず遠隔で植物を操り助力したのだ。


 しおりは心の中で葛に深く感謝しつつ、改めて術を発動させた。



「――《天狗兵法・小鷹の法》」



 それはかつて牛若丸が扱ったという、小鷹に姿を変え飛行する術である。


 無論、《烏帽子折》を十分に会得した訳では無いしおりには、全身を変化させる事は不可能だ。

 しかし、身体の一部であれば可能ではある。しおりは霊力で覆った両腕を鷹の翼と変えると、大きく羽ばたき宙を舞う。



「歯ぁ食いしばれ……!!」



 そうして矢の如き速度でもって突貫。

 未だ蔓に拘束される「彼」の腹に、その爪先を突き刺した。



「ごっ……!?」



 太鼓の音。

 蔓が千切れ、「彼」の身体が力の限り蹴り上げられる。


 逃走の隙など与えない。朱金の燐光が軌跡を描いてそれを追いかけ、また腹部を蹴り抜いた。

 何度も、何度も、何度も、何度も。追撃は終わらず、二人の身体も天高くへと上昇して行く。



「がはっ……やめっ、あぉぉぉぉッ、漏れ……出ぇ……ッ!!」


「てめぇのために舞ってやってんだ、もっとよく噛み締めろやぁ!」



 太鼓、拍子木、笛。霊具より三つの音が絶え間なく響き、音楽を奏で。

 執拗に腹部への攻撃を受け続ける「彼」はあっという間に限界を迎え、そして――。




「――ん゛ッ、ほおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉおおおお……お゛ッ」




 ぶりゅ、ぶりゅりゅりゅん――。

 ……いっそ耳を塞ぎたくなる破滅の音が、「彼」のケツから轟いた。



「――ったねぇなぁ!!」



 しかし、しおりは僅かに顔を顰めるだけで止まらない。


 両腕の翼をはためかせ、更に飛行の速度を増して。

 白目を剥き、完全に廃人と化した「彼」の身体を打ち続ける。



(コイツは言った! ウチの努力は今この時、コイツのためのもんだって!!)



 朱金の燐光を纏った脚で、「彼」の残った片腕を蹴り砕く。

 意識が喪われた事で霊的防御力も無くなったのか、腕は容易く浄化され、木端微塵の塵と化した。



(だったらそうしてやろうじゃねぇかよ! ウチの積み重ねてきたもの全部、コイツの積み上げたもんにぶち込んでやる!!)



 そうして広がる塵の一つ一つの裏側に、どれだけの悲劇があった事か。


 きっと先程のような絶望が無数に繰り広げられ、そのどれもが救えない結末を迎えているのだろう。

 そこから逃れられたしおりは、ただ幸運だっただけ。そうでない人々は全て「彼」に穢され、その糧となった。


 ――「彼」という存在は、核から末端に至るまで、誰かの涙で創られている。


 しおりはその在り方に、心底腹が立っていた。



「――オラアアアアアアァァァァッ!!」



 脚、腰、腹、胸――「彼」の身体が次々と砕かれ、塵へと還る。

 残すはアフロの揺れる頭部のみ。


 高度は既に、月が大きく見える場所にまで上がっていた。

 しおりは残った全ての霊力を朱金の燐光に変え、脚へと注ぎ――あらん限りの力でもって、アフロを月に向かって蹴飛ばした。


 ――ドドン!


 一際大きく太鼓の音が炸裂し、燐光が渦を巻く。

 弾けた肉と鮮血が帯を引いて月へと吸われて行くものの、しかしそこに辿り着く事はなく。

 道半ばにて爆散し、ただ細かな塵として夜空の闇へと溶けて消えた。


 積み重ねた悲しみも、絶望も。全てが無に帰し、台無しとなる。


 千年を超える時を生きた大淫魔の最期とは、そのような救いのないものだった。




 *




「っしゃラァアア!! ざまみろボケカスがよぉ!!」



 空中。

「彼」を討滅するために霊力体力全てを注ぎ込んだ結果、小鷹の法すら維持できなくなったしおりは、天から地へと真っ逆さまに落ちていた。


 元居た山は遥か小さく、鮮やかな夜景が見渡す限りどこまでも広がっている。そのような高さだ。

 しかししおりは全く怯える様子も無く、「彼」の消えた月に中指を立てて笑っていた。


 現状が理解できていないという事では無い。

 ただ分かっているだけだ。先程葛の蔓が現れた時点で、じきに彼女も駆けつけてくれるという事を。



「――もー、何笑ってんのさ、こんな状況で」



 ほら、来た。


 頭から落ちていたしおりの身体が突然白い靄の帯に包まれ、ふわりと受け止められた。

 それは綿のように柔らかく固められた、酒精の雲。

 見れば少し離れた場所に大きな雲に乗った心白が居り、しおりに呆れと安堵の混じった半眼を向けていた。


《酒足の二、呑んだら乗るなと言ったが乗ってからも呑むなよ》。固めた酒精を船として飛行する、「酒」の一族の霊術であった。



「わりぃな、今すげぇスッキリしててよぉ。助けてくれてサンキュな」


「いきなりビックリしたよ。ヤシロちゃんからいきなり『シオちゃんがおトイレ漏れそうなんだ』って来てさー。どれどれって見てみたら、何か大変な事になってるんだもん」


「……その勘違いずっと続けるんか、あいつ……」



 愉快な気分に水を差され、しおりの笑顔が渋面に変わる。

 心白はそんな彼女を己の隣に運ぶと、神妙な顔をして問いかける。



「で、何があったの? なんか残り香だけでも分かる程ヤバいの居たっぽいけど」


「……その感知能力の十分の一でもウチにありゃな。ま、詳しい事は後で話すよ。今はちょっと疲れちまった」


「おっとと」



 今になって心身の疲労がぶり返したのか、しおりはぐったりと心白にもたれかかる。

 心白はそれにバランスを崩しかけたものの、酒精の雲で作ったクッションに倒れ込みつつ受け止め、頭を撫でた。その体勢のまま、ゆっくり地上に降下する。



「んー……何があったか分かんないけどさ、でも凄いね。一人で倒しちゃったんでしょ? ヤバいの」


「いや……実質ウチの完敗。一人じゃ手も足も出なくて……葛とか、あと……あー、天成……の、やつの力がなきゃ、どうにもならなかった」


「……ふ~ん……?」


「……んだよ」



 しおりはどこかニヤついた表情の心白をじっとり睨むも、「べっつにー?」とだけ返り。


 そこに何かしらの含みがある事は明白ではあったが、さりとて掘り起こす気にもならず。

 ただ舌打ちだけを残し、しおりは不機嫌に目を閉じ――こっそりと、腹部の「それ」に指を這わせた。


 そうして夜空を揺れる雲の中、穏やかな空気がただ流れ。



「……心白ー」


「なーにー」


「ウチがうんこ漏らした云々の誤解、解くの手伝ってくれー」


「やーだよー」


「くそったれー」


「自己紹介おっつー」


「ころすぞ」



 などなどぐだぐだ話しつつ。

 白い雲は明るい月に見守られながら、夜の街へと降りて行くのであった。



 ――遠くの空を流れた、青く弾力のある流れ星を見落として。




 ■




 翌日の放課後。

 地域伝承研究会の教室の中に、しおりの姿があった。


 近くには葛の姿もあり、そわそわと落ち着きの無いしおりを微笑ましげに眺めている。

 どことなく浮ついた、何とも微妙な空気。それに耐え切れなくなったのか、しおりはちらと葛を見た。



「……なぁ。来っかな、あいつ」


「天成くんですか? 来てくれると思いますけど」



 不安げなその言葉に、当然のように葛は返す。


 そう、今日この日、この地域伝承研究会の教室に初めて社が招かれている。

 葛と心白がそれを望む中だった一人反対していた会員が、くるりと掌を返したためだ。

 無論、しおりの事である。



「それに、呼びに行ったのが心白ですから。あの子なら、例え天成くんが逃げようとしても絶対捕まえてくるでしょうしね」


「ああ、まぁ、そうだよな……あぁ~……」



 しおりはぐったりと机に突っ伏し、細長い声を上げる。

 来てほしいような、来てほしく無いような。そんな葛藤すら感じられる声音だ。


 うだうだと意気地の消えた彼女の様子に、葛は困ったように眉尻を下げた。



「……もう、しおりが言い出した事でしょう? あなたもそのために放課後にだけ学校に来たのでしょうに……授業を全部サボって」


「ちくちく言うなや……サボってたんじゃなくて、昨日の今日で疲労困憊だっただけだっつの……」



 もごもごと言い返すが、否定はしない。

 今日という日を指定して社を招こうと提案したのは、葛の言う通りしおり本人だった。


 単純に、社の事を信じられるようになったから……という理由は勿論ある。

 しかしそれ以上に、今までの事にケジメを付けるためだった。



「まぁ、あなたの気持ちも分からなくはありません。初対面時からこちら、少々目に余るところもありましたから」


「ぐ……わ、悪かったよ」


「これから来る彼にそれを言えるよう、頑張りましょうね」


「……はい……」



 ぴしゃりと言われ、しおりはガックリと項垂れた。



 ――今日、しおりが社を呼んだ一番の理由は、感謝と謝罪を伝えるためだ。


 人としての尊厳を助けられた、昨夜の一件。

 そして暴力だの疑惑だのとやらかした、これまでのアレソレ。

 諸々含め一度社としっかりと向き合い、頭を下げなければならないと決断したのだ


 であれば事は早い方が良いと、昨日の時点で葛と心白に相談し、こうして場を整えた。

 ……のだが、いざ本番となった今になって、どうにも気後れしてしまう。

 冷静になって振り返った自分の行動は、それほどにアレであったからして。



(でも、頑張んねぇとなぁ……)



 そっと衣服の隙間に指を差し入れ、「それ」を撫でる。


 そこは昨夜、アフロの淫魔に人格排泄の紋様を刻まれた場所だ。

 当然、もうその姿は無いが――今は代わりに別の紋様が刻まれている。


 神社の地図記号によく似た、鳥居の形をしたそれ。

 あの走馬灯の世界で、社に刻まれたと思しき紋様だ。


 人格排泄の紋様を解除した際、力を入れ過ぎたか何かしたのだろう。

 おそらく社本人すら気付いていない、はぐれ紋である。



(……うし)



 これに触れると、不思議と心が温かくなる。


 人格排泄の危機から脱した後、アフロの淫魔を追えたのもこれがあったからだ。

 何があってもまた守ってくれるような気がして、だからこそ行動出来た。至りかけた絶望の恐怖に負けず、前を向いて怒り狂う事が出来た。


 今回もそうだ。指先を這わせるだけで、萎えかけた心が奮い立つ――。



(……そういや、これも相談した方が良いんかな)



 ふと思う。


 社の性格を考えれば、女性にこういった紋様を刻む事は本意では無いだろう。

 望めば消してくれるだろうし、むしろ知らせるだけで勝手に消してくるかもしれない。

 というか、絶対にそうする筈だ。彼であれば。


 ……………………、



(…………やめとこ)



 まぁ、別にあって困るものでも無いし? いちいち手を煩わせる必要も無いし?

 じゃあ別に残しといてもいいじゃん。ほら、謝ろうってのに新しく迷惑かけたくないじゃん。ねぇ?


 ……などとつらつらと考えつつ、こっそり葛を盗み見る。



「……? どうしました?」


「いや……別に」



 素知らぬふりで顔を逸らし、また紋様を優しく撫でた。



 ――と、その時。バタバタとこちらに近づく足音に気が付いた。



「あ、来たようですね」


「!」



 葛の表情が綻び、しおりの身が硬くなる。



(……許してくれるかな)



 社にしてみれば、幸若舞しおりとは初対面時に暴力を振るわれ、顔を合わせる度に喧嘩を売られ、身に覚えのない疑惑を延々擦って来る上にうんこを漏らしかけた女である。泣きそう。

 果たして一度謝っただけ受け入れてくれるかどうか。



(――いや、ダメだったとしても、ちゃんとしなきゃな)



 ……そうだ。

 受け入れてくれるかどうかは関係なく、ちゃんとする。

 そのために今日、己は社と会うのである。紋様の温かさを感じながら、そう思い出す。



(えっと、じゃあまず謝る……いや礼の方だったか? あ、あれ、どっちから行くつもりだったっけ)



 とはいえ、勇気と緊張はまた別のもの。

 足音が大きくなるごとに頭の中がこんがらがり、訳が分からなくなっていく。


 そうして挙動不審となったしおりを葛が呆れた目で見る中、勢いよく教室の扉が開かれる。


 最初に現れたのは、楽しそうな笑みを浮かべた心白の姿。

 そしてそれに手を引かれ、戸惑った顔の社が教室へと足を踏み入れた。


 そんな彼を見た瞬間、しおりは思わず声をかけていた。



「なぁ! あま、天成! ウチなっ――」



 頭の中は纏まらず、何をいうべきかもあやふやだ。

 だが、それでも伝えなければいけない事は心にある。


 しおりは初めて感じる熱に浮かされながら、勇気をもってその一歩を踏み出した――。


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