黒いゴミ袋 その①

 佐藤さんに助けてもらってから一週間が経過した。

 佐藤さんの診断の予想通り、エビは普通の人間の赤ちゃんの何倍もの早さで成長し、今では身長は九十センチ、体重は七キロを超えた。そして初雪みたいな白い小さな歯も見えはじめ、離乳食も食べ始めた。いつの間にか寝返りどころか座ることもできるようになり、何だか正月と盆が一遍に来たような感慨深さだ。

 子育てをはじめてトータル二週間。

 正直佐藤さんの授業を受けた後も上手くいかない事の方が多かった。けれどその度に佐藤さんから貰った言葉を励みにして乗り越えていった。

 自分を追い込まず、寧ろ気楽に構えて乗り越えていく。エビと二人……いや沢山の人の手を借りながら。

 それは佐藤さんだったり、佐藤さんから教えてもらったユーチューブの子育てに関する動画だったり、またはお医者さんとのオンラインでの相談だったりといった、本当に沢山の人達の温かな支援の手助けの数々だった。

 それら全部が、子育てをする人々を助ける為のもの。

 それは子育てをはじめるまでまったく知らなかった温かな世界。

 ……確かに子育ての現実は辛く苦しいものが多かった。

 けれどそれだけじゃない。

 あらゆる苦しみを超えるそれ以上のが、俺達大人を駆り立てる。

 そのナニカはまだ俺にはわからないけど、きっといつか知ることができたらいいなと……思っている。

 さぁて、今日も子育てを頑張ろう。

 この小さな命を、輝かしい未来へと花開かせる為に────


「──なんてことを例の母子手帳に書いていたんだが、中々ポエミーな性格だと思わないかいサトウサン」

「いやなに人の母子手帳勝手に朗読してるんだこの人でなし!!?」


 一週間ぶりに佐藤さんの授業が開かれるというので、朝からルンルン気分でエビを抱いて佐藤さんの部屋に来てみれば、俺の部屋からいつの間にかパクッていた母子手帳を広げ、腐女子はまさかの佐藤さんの目の前で朗読会を開いていやがったのだ。


「人じゃないが?」

「その開き直り方無敵すぎないか?!」


 もうやだこの邪神、いや邪心!

 

「……邪悪な心の化身め」


 そろそろどうやったらコイツを封印できるか真剣に考える必要があるな。いやマジで。


「……アハハ」


 そしてさっきから苦笑いを浮かべるしかない佐藤さん。春らしい明るい色のカーディガンを羽織った可愛らしい佐藤さん。そしてさっきから心なしか目を合わせてくれない佐藤さん。

 まさかの佐藤さんに聞かれるとか、恥ずかしいにもほどがある。というかガチ死にたいですハイ。


「やれやれ。まずは座ったらどうだい。折角のサトウサンによる第二回チキチキ子育て教室の時間だというのに、来て早々忙しないことこの上ないな形離は。それではその腕でお昼寝中のエイリアンも起きてしまうぞ」


 腐女子と佐藤さんは小さな丸テーブルを挟んで、ピンクの四角い座布団に座っていた。そして腐女子と佐藤さんの間に誰も座っていない座布団が一つあったので、きっとあそこが俺の席だろう。


「誰のせいだ誰の……」


 俺はそう言いつつ、ゆっくり座布団に腰を下ろす。あれだけ騒いだというのに、エビはぐっすりと腕の中で眠ったまま。

 寝力の高まりを感じる。


「い、いえその、母子手帳をさっそく活用していただけているみたいで、わたしは嬉しいですよ」

「佐藤さん……」


 やっぱり彼女は正真正銘のいい人だ。それに比べて……。


「活用しすぎてポエム集にならないといいが……フフ」

「お前は佐藤さんの爪の垢を煎じて飲んでろ」

「ニンゲンはあんまり美味しくないので遠慮するよ」


 ……くそ、冗談なのかマジなのかわかりづらくて突っ込めねぇ。

 腐女子ならマジで爪の垢どころか人間を丸ごと食べた事がある可能性があるからな。


「まあその、腐女子さんがちゃんと二回目も来てくれただけで良しとしましょうよ形離さん」

「……それは、そうですけど」


 そうなのだ。まさかのあの腐女子が、自分から佐藤さんの二回目の授業を受けにきていたのは驚くべき事だった。

 明日は隕石でも降るのだろうか。

 こんにちはアルマゲドン。さよなら世界。良いこともしても人に迷惑かけるとか、厄介すぎるぞこの人外。

 すると佐藤さんは場の空気を変える為か、コホンと一つ咳払い。


「さて、それでは形離さんとエビちゃんも揃ったところで、早速第二回チキチキ子育て教室を始めたいと思います。今日の議題は────」


「サトウサン先生、少しいいかな?」


 そこへ腐女子が生徒らしく挙手をして割り込んでくる。


「な、なんでしょう腐女子さん」

「なに、ちょっとした授業内容の提案さ」

「それはぁ……」


 言いよどむ佐藤さん。たぶん考えている事は俺と一緒だろう。


「……授業内容の提案?お前が? 次はどんな嫌がらせをするつもりだ」

「あぁぶ……」


 不安だ……。心なしか寝ているはずのエビも同意している気がする。余計な事言うんじゃねぇ、みたいな。器用な寝言だ。


「……心外な反応ばかりで少し傷つくんだが」

「一分前の自分の所業を思い出そうな」


 自業自得である。


「しかし生徒として、そして良き隣人としてここは引き下がれないな」

「どの口が言うんだ?」


 どの口が言うんだ? 

 おっと、最早考えるより先に反射で言葉を発していた。人体って不思議だなぁ。


「ま、まあまあ形離さん。今まで腐女子さんの助けがあったのも確かなんですから、ここは話を聞いてみましょうよ」


 ぐ……痛いところを突かれてしまった。でもだからといって、


「流石はサトウサン、話がわかる。どこかの誰かとは大違いだ」


 コイツに恩義を感じるのは、人間として凄く間違っていると思う。

 誘拐犯からもらったご飯にありがとうと言う並みの矛盾を感じる。


「フフフ、そんなに心配するな形離。今回はわりと真面目に、今後の君達に関わる話なんだから」

「今後の俺達?」


 腐女子は不敵に笑い、片目をつぶって続きを話す。


「そうだ。形離はやっと今の暮らしに適応しはじめ、いわば余裕がうまれてきたわけだろう? なら現在の続きである未来に思考を割くのは、ニンゲンとして当然だとワタシは思うね。ニンゲンは他の動物と違って、遠い未来を空想して生存率をあげてきた生き物なんだから」

「未来を空想……ですか」


 指を檻のように絡ませ、佐藤さんは腐女子のいつもの戯言に興味を示してしまう。

 あ、これは話が長くなるパターン。

 腐女子はこういうひねくれた会話がかなり好きなのだ。


「そうだとも。空想はニンゲンが手にした『力』と言っても過言じゃない。もしも、イフ、そんなあらゆる未来の可能性を恐怖し、或いは期待してニンゲンは歴史を刻んできた。世界統一、恒久的平和、滅亡、謀叛、侵略、自由、格差、平等、愛、裏切り、信頼、不正、正義、善意、悪意、共産主義、資本主義、まだ見ぬ新自由主義。君たちはありとあらゆる未来、イフを空想する。それらは来たる未来に適切に対処する為に、本能的に刻まれた適応機能さ。

 サトウサンの好きなヒーローの物語だって、そんなもしもやイフの派生の産物、物語だ。ヒトは物語を通して、社会の、または世界のイフを空想し、本能を刺激して快楽を得る。そうして日々の生活に、物語で学んだ事を活かしていく」


 また小難しいことを……。


「哲学ならよそでやってくれ」


 哲学で子育ては成り立たない。プラトンやソクラテスが子育てをしているところは、それこそ空想できそうにもないし。


「よろしい。では早速本日の授業を開始、いや議題を提案しようじゃないか」


 腐女子は俺とエビ、それから佐藤さんを見渡し、満を持してと言わんばかりに口を開く。



「今後そのエイリアンが育ったとして、果たしてソレは形離のことをママと認識するのかね?」



「は? 突然なにを言って…………言って……」


 腕に抱いているエビが、何故か突然重く、冷たくなったような気がした。

 そんなワケ、有り得ないのに。


「エイリアンであるその幼体が、寄生先、つまりエサでしかなかった形離ニンゲンを、果たして己と同種と認識するとはワタシには思えない。元来『エイリアン』の語源は『よそ者』という意味だ。遠くない未来で自意識を芽生えさせたソレが、エサでしかなかった下等なニンゲンをママと慕い、家族ごっこを続けるのか。そもそも自身のことをニンゲンとして認識するのか。

 ……破綻が目に見えているのなら、今のうちにそれらの問題について考えておくのも悪くないと、ワタシは思うわけだよ」

「ちょっと待って下さい! それはあまりに突拍子が無さすぎます」


 あまりの内容に佐藤さんからの静止が入る。


「そうかな? さっきも言ったが、未来を空想するのがニンゲンの本能で、利点だ。そして悲しいかな、悪い空想ほど大概当たるのが世の理だ」

「それは……」

「そもそも、だ。ソレがこれから無事成長しても、幼稚園、小学校、高校、大学、そして仕事はどうする? 戸籍が無いどころかニンゲンですらない、『よそ者エイリアン』に一体社会はどう向き合う? 見た目もニンゲンに近いとはいえ、けれど完璧なニンゲンの姿ではない。どう見たって異形だ。その尻尾、身体を所々覆う殻がそれを証明する。そんな化け物に、か弱い癖に攻撃的で陰湿な人類がどう反応するか、想像するだけで楽しいな。フフフ、だからこそ、そのエイリアンがもしニンゲンに寄り添う善性があったとしても悲劇でしかないわけだ。

 それだけじゃない。エイリアンであるコイツ自身が産まれながらに持つ危険性もまた悲劇を加速する。それについては形離、君の鼓膜と、その服の裏に隠した爛れた肌が一番理解しているんじゃないかい?」


 腐女子は目を三日月みたいにニタッと細めて、かつてエビの泣き声で破れかけた鼓膜……耳と、それから服で覆い隠したエビの嘔吐で焼けた肌を舐めるように見つめてくる。

 コイツ、やっぱりあの時どこからか覗き見していやがった。

 俺が心折れて、独り絶望した瞬間を。助けるでもなく、ただ見ていたのだ。

 だが今はその事に文句を言っている場合じゃない。

 そうだ、本当の問題……避けようのない未来、それにこそ頭を働かせるべきだ。

 もしエビが俺達人間のことを敵、いやエサや寄生先としか認識しなかったら? いやそもそもエビが人間社会に馴染める可能性はあるのか? そして馴染めたとしても、望もうが望むまいがエビの危険性はふとした瞬間に誰かを傷つけてしまう可能性だってある。この子の人間離れした能力は、この身で体験済みなのだから。


「…………………………」


 考えれば考えるだけ、空想は悲劇で終わる。何も良い案など出て来ない。

 重苦しい沈黙だった。

 俺はその沈黙が、まるで己を嘲笑わらっているかのような妄想に囚われて、つい、先ほどから思っていた言葉を吐きだしてしまった。

 ただ沈黙を埋めたくて、この理不尽に抗いたくて。


「今更……それを言うのかよ」


 あの日、あの血まみれの海から蘇生した日に、エビを育てると決断する前にそれを言ってくれていたら……。


「────言ったとも。でもそれを棚上げしたのは形離だろう」


 いつの間にか、腐女子の顔が鼻先に触れそうなほど近づいていた。


「それ……は」


 言葉に、詰まる。

 そうだ。あの時、甘い覚悟でも、それでもこの命を捨てたくないと我儘を言ったのは、ここにいる花坂形離じゃないか。


「やっぱりあの時、君の大嫌いな例の黒いゴミ袋に詰めて捨てていた方が良かったんじゃないかい?」

「やめろ!」


 俺はまた反射的に、その言葉をかき消した。


「……黒い、ゴミ袋?」


 佐藤さんが戸惑い気味に、口に手を当て言葉を零す。

 するとエサに食いついた魚を釣りあげるように、腐女子は会話を回す。


「ああ、そうか。サトウサンはその件を知らなかったね。すまない、つい身内ネタで盛り上がってしまって」


 身内ネタ、だと? くそ、どこまでもふざけやがる。確かにこれは身内ネタだ。これ以上なく、で。


「サトウサンも疑問に思っていたんじゃないかい? 何故形離は自分に寄生したエイリアンなんていう害虫を育てることにしたのか、とね」

「それは……」


 佐藤さんの返事を待たず、ヒトデナシは続ける。


「そりゃあ普通じゃない理由があったからさ。自分のトラウマを刺激して、思わず馬鹿な判断を下してしまうぐらいのソウゼツな過去がね」


 腐女子はそこまで話すと、とうとう立ち上がる。腐女子の体重で凹んだ座布団が、今にも泣き出す前の子供の顔に見えた。


「さぁて、一体形離の過去に何があったんだろうねぇ。気になるねぇ、気になるだろう? まぁここまでヒントを出したんだ。薄々感づいてはいるんじゃないかい? 形離の過去。形離のトラウマ。……形離の原点が」


 まるでお茶の間で流れるクイズ番組みたいに、己の過去を出題エンタメされる。

 質が悪いなんてもんじゃない。個人情報をなんだと思っているんだ。

 ……でも、これも一つの罰なのかもしれない。軽率に、ただ己のエゴで命を育てると言った自分への────


「はい、ストップです腐女子さん」


 けれどそんな番組をたった一声で打ち切ってしまうのが、佐藤さんなのだった。


「全く、人を苛める時だけなんでそんなノリノリになるんですか腐女子さんは。そもそも、今日はクイズ大会でも暴露大会でもないんですからね。今日は第二回チキチキ子育て教室だって事を忘れないでください」

「……む。サトウサンは気にならないのかい? 形離の過去が?」

「気になるとか気にならないとかそんな話じゃありません。これはプライバシーです」

「そんな正論、面白さの欠片もない」

「正論が面白い方が稀ですからね」

「フフ……なら正論で返そう。今からまたそのチキチキ子育て教室とやらを開催してどうする。未来は暗く閉ざされているんだよ?」


 そう、結局事態は何も好転などしていない。


「そうでしょうか? エビちゃんがすくすく育つのは喜ばしい事ですよ」

「さっきの話を聞いていなかったのかい? このニンゲン社会に、エイリアンの居場所はない」

「そんな事はありません」


 なのに全く引き下がらない佐藤さん。


「幼稚園も、小学校も通えないのに?」


 気に食わない反応に、腐女子の攻撃の矛先が本格的に俺から佐藤さんに向かう。それでも座ったまま、佐藤さんは言葉を紡ぐ。


「今はオンラインというものがありますから、家にいても学ぶ事はできますよ。友達だってネットがあればできますし、最近はVRが発展してきていますから、アバターを通してですが会う事もできます。社会性はきっとそこで培っていくでしょう。仕事も同じです。スキルさえあれば、家でも仕事は可能です。……今はネットで世界と繋がれますから」


 それはいつか自分が言った言葉だった。けれどそれは俺の時とは別次元の可能性に溢れていた。ググレカスなんて言っていた自分が恥ずかしく思えてしまえるほどの。


「というわけで、エビちゃんの将来は暗く閉ざされてなどいません」

「本当に? そんな生活が幸せだと断言できるかい?」

「断言はできません。だって人の人生は、その人にしかわからないですから」


 佐藤さんはそこで一度呼吸を挟み、それから情けなく座り込むしかなかった俺の方を向いて言葉を続けた。


「でもだからこそ、命の価値は計り知れない。人生に絶対的な基準なんてありません。その人にとっての最高の幸福も、他人から見ればただの日常と映るかもしれない。または人生のどん底だと思っていたら、周りからしたらチャンスに見えることもある。人生なんてあやふやです。うまくいかない時もあったり、思いがけないことが切っ掛けでそれが力になってより高みへと登れることもある。そんな文字通り計り知れない価値を秘めている可能性の塊なんですよ。

 ……だからその可能性の塊である“命”を繋ぐ選択をした形離さんは、どんな理由であろうと、自分を貶す必要はないんです」


 明るい、笑顔だった。やっぱり彼女の笑顔は眩しくて、目に、心に焼き付いた。


「……だがその逆だってあるはずだ。どん底より更に底があった、なんて話は掃いて捨てるほどあまりある。価値が計り知れないからこそ、堕ちればどこまでも堕ち続けるのも人生というやつだ。それにさっきの話で抜けていたが、そのエイリアン自身がニンゲンを敵視する可能性だって残っている」

「そうですね。でもエビちゃんはきっと大丈夫です。人間を嫌いにならないし、人生を愛せる」

「何故そう言い切れる?」


「──だって形離さんが『親』ですから」


 彼女はキッパリとそう言った。

 それは死角から鈍器で殴られたみたいな衝撃で。


「形離がそんな立派なママだとは思えないがね」

「最初から立派な親なんていませんよ。親も子供と一緒に成長していくんです」


 ああ、そんな似たようなことを、自分もかつて言った気がする。勿論過去の自分の言葉と彼女の言葉には部分があるのだけど。

 ああ、でも、それでも。

 ……一緒に成長する。

 そんな浅はかで……希望に満ちた言葉を、かつての俺は言葉にした。

 なんでだろう。他人から言われるだけでこんなにも、あの時よりも確かに信じられて、心強く感じられるのは。


 ………………………………………………………………………………けど。


「もしかして知らないんですか腐女子さん。最近の形離さんは、もう最初の頃とは違うんですよ。日々エビちゃんと二人で成長していて、今では立派で素敵な親御さんです」


 彼女の言葉はあまりに綺麗すぎて、それがこの世界で力を持てるとは信じ切れなかった。

 ……なにより己がそんな立派なニンゲンであるとは、自分自身が思えないのだ。

 どうしても。


 だって俺は────


「フフ、フフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフフ」


 そんな自身への嘲りに同調するかのように、ソレは笑う。


「ワタシが……このワタシが、形離のことを知らない?」


 笑いが途切れる。まるで夜の帳が下りたとばかりに。


「……………………………………何も知らないのはそっちのくせに」


 世界の悪意を煮詰めて焦がして固めたような存在には、やはりキレイごとは通用しないようで。


「さっきから随分と口が回るじゃないかニンゲン」


 世界は汚く醜いのが真実だと声高々に叫ぶように、腐女子は手と髪で顔を覆ってまた「フフフフフ」と笑いを再開させる。


「腐女子さん?」


 あからさまに空気が変わった腐女子に、さすがの佐藤さんも少し警戒の色を見せる。


「……サトウサン。君は何も知らない。この世界の仕組みも。そして何より……形離のことも。まったく全然これっぽっちもね。

 いいだろう。かつて無知な猿に知恵を授けた神の真似事じゃないが、世間知らずなサトウサンに少しだけ、この世界の仕組みを教えてあげようじゃないか。……ワタシと形離の二人しか知らない、形離の過去を通してね!」

「ちょ……だから腐女子さん、それはプライバシーだからダメって」


 しかしヒトデナシにはそんな常識は最早通用しない。


「さぁサトウサン、君に形離の過去を追体験させてあげよう。なに、心配はいらない。夢をみるようなものさ。趣味全開で、痛くて怖くてキモチよくて、死と隣り合わせどころか一緒にケツ降ってダンスする、そんなとっておきの悪夢を、ね!」


 そう言って腐女子は自身の長い黒髪をさらに伸ばして、佐藤さんの身体に這わせていく。


「待て腐女子! 佐藤さんに危害を加えるなら例えお前でもコ──」

「慌てるな形離。なに、危害は加えないさ。これはそう、社会勉強だよ。

 ……それに形離も内心思っていたんじゃないかい? サトウサンのこの真っ直ぐさでは、何れどこかで致命的な行き止まりに突き当たるんじゃないかと」

「そんなことは……」


 ない! と俺はすぐに反論できなかった。

 世界は決して綺麗ごとだけでは廻らない。

 この世界は残酷で理不尽で悪趣味。

 綺麗なだけでは、いずれどこかで見るも無残に穢される。

 それがこの世界のどうしようもない真実で。


「だからその前にこの世界の悪意を学ばせてあげるのさ。これは寧ろ世間知らずの彼女の為でもある」

「それ、でも……。こんな無理矢理は」

「いいですよ形離さん」


 必死に止めようとしていた俺を、まさかの佐藤さんが待ったをかけた。


「佐藤さん?」

「わたしが世界の悪意を知らない? ……はぁ。そんなことを言われてしまったら、是非ともご教授願いたくなってしまうじゃないですか」


 佐藤さんは怯えた顔を浮かべるどころか、寧ろ戦いに挑むような顔をして……暗く笑っていた。

 ……もしかして佐藤さん、怒ってらっしゃる? 


「あ、でも形離さんのプライバシーを侵害してしまうことはその、ごめんなさい」

「いやいや。今はそんなの気にしてる場合じゃ……」


 もっとその身大事に! いつも思っているけども。今は特に!


「わたしだってそれなりに世界の悪意は知っています。あまり舐めないでください」

「フフフ。随分可愛く吠えるじゃないか。それではその思い上がりを正してあげよう。徹底的に、ね」


 腐女子は両手を広げ、高らかに謳い上げる。


「ではさようならサトウサン。これは……一人の男の物語。黒い、黒い何でも捨ててしまえる真っ黒なゴミ袋からはじまった、悲劇にして喜劇。そして今も世界のどこかで起こっている、『よくある話』ってやつだよ」




 そうして腐女子の黒い髪が、まるで黒いゴミ袋のように広がって、そのまま佐藤さんを丸ごと飲み込んだ。

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