第8話 ティッシュ箱の角でチャラ

もし私が今瞬きしてしまえば、きっと次の瞬間には玉藻前に食われかけていたことだろう。それくらいハッキリ分かるほど、目の前の狐は怨恨渦巻く殺気を私に向けていた。

やはり、彼女には私が何を言っても響かないみたいだ。分かってはいたが、その頑固さと夏芽さんに対する執着心に、思わず重いため息を着く。先ほど自分で腹に収めていたいなり寿司のように、もう少し私に甘くしてくれても良いのだけれど。私が心密かにそう願っていると、いつの間にかシュルシュルと萎んでいた玉藻前の殺気が、湿り気を含んだ悲哀の表情に変わっていて、私は目を見開いて動揺する。


「……なぜお前は人が突いてほしくないものをわざわざ突こうとする? そんなに私が憎いか。そんなに私が惨めに見えるか。…………いや、そりゃあお前にとっては憎くて惨めな存在に思えるだろうな。お前は昔私に間接的に殺され、そして今でも夏芽との仲をどう引き裂こうかと考えている。……そんな私に、なぜお前は……っ」


――私の欲しい言葉を真っ直ぐにくれるのだ……!

私と夏芽さんとの関係を、初めて知ったあの日の夜。玉藻前はその時もこうして静かに大粒の涙を流していた。拭うでもなく、ただ流れるままに任せて。

私は見ていられず、反射的にバッと立ち上がって机の上に置いていたティッシュケースを箱ごと玉藻前に投げつけた。


「私は、記憶がないから憎いだとか惨めだとかどうとも言えませんけど。別に玉藻前に対して恨みは抱いてないし、何とも思ってません。でも最初は正直クソ野郎だなとは思いました。あんなに優しい神様の友達を殺すなんて、ひとりぼっちにさせるなんてとそれはもう玉藻前に敵意むき出しでしたよ」

「……っ」


玉藻前が、投げたティッシュケースの角が当たったらしい後頭部を押さえながら、涙目でフルフルと震える。


「だから、今投げたそのティッシュ箱でチャラです、チャラ。これで私に……いや、夏芽さんにも遠慮なく抱きついてください。大丈夫です、きっと殺されはしないので」

「は……?」


私が立ち上がったせいで、縮まった玉藻前の姿が余計に小さく見えた。それはまるで産まれたての子鹿のようで、保護欲に駆られる。しかし、鹿だろうが狐だろうが、野生の世界で生きていくにはある程度の厳しさも必要。甘やかすだけが優しさでは無い。だから私は、ティッシュケースの角を玉藻前の後頭部目掛けて投げつけたのだ。これでもまだ生易しい方だと思う。私なんか、首と胴を切り離されたようなものだし。……まあ、その時の痛みも何も覚えていないが。


「い、いいのか。私はお前を殺したんだぞ。一度、夏芽と喧嘩させて仲を裂かせたのも私なんだぞ……っ!?」

「えっ、ちょっと待ってそれは聞いてないです。どういう意味ですか」

「あ、え……てっきり知っているものだと思っていたのだが……。あ、あれ? 夏芽には速攻で見透かされものすごい眼力で睨まれたし……」

「は!? 夏芽さん知ってたんですか!? なんで説明してくれなかったんですか!」

「いや、それを私に言われても……っておい揺らすなコラ! 先ほど味わったいなり寿司なるものが口から出るではないか……!!」


私が揺さぶったおかげで、身も心もスッキリした玉藻前によると、夏休みのあの日夏芽さんと喧嘩をしてしまったのは、取り憑いていたこの狐の想いがダイナマイト並みに爆発したから、らしい。意味がわからないのでもう少し深堀りしてみると、懲りないこの狐は、どうやらあの日だけではなくかなり前から――それも天狗さんと出会った日から私に取り憑いていた、と暴露してきた。そのあとも、天狗さんが入ってきた際にバチッと音がしたのは玉藻前が同時に結界を壊して中に入ろうと目論んでいたから。あの日不思議と胸が苦しくなったのは、取り憑いた玉藻前が同様に苦しんでいたため、と次々に私の知らない秘密が明らかになっていった。


「てか、なんで取り憑いてるだけなのにめっちゃ影響受けてるんですか? 一心同体的な感じですか?」

「む、むむ……そこは単純に考えて、百合よりも私の方が強いからなのでは……あだだだだっ! これ、尻尾を引っ張るでない!!」


妖怪と人間で考えて強いのは当たり前に妖怪だが、今のは完全に玉藻前の言い方が悪い。しかも、少々ドヤ顔を決めているのがさらに腹立たしい。加えて、この狐は一分に一回くらい悪口が言えないと気が済まないのではないかってほどに会話にディスりを入れてくるので、私は玉藻前の尻尾をグイッと引っ張ったのだ。

けれど……、それが私には数分前の私たちよりも打ち解けられているような気がして、柄にもなく胸の辺りがむず痒かった。


「まあ、ここ数年は人間であるお前にハンデを与えてやっていたが、これからはお構いなく夏芽に甘えに行くぞ」

「うわ、そのでかい図体で行かないでくださいよ。夏芽さんが玉藻前の体重で潰れるので」

「な、なにおう!?」

「言っときますけど、さっき押し付けられたのマッジで重かったですからね。圧迫死するかと思いましたもん」

「わ、私は重くない! これでも標準だ!」


絶対嘘だ――。その異様な慌てっぷりと実体験のある私からすれば、あの重さは標準ではないだろう。そんな重さで抱きつかれたら、さすがの夏芽さんもひとたまりもない。

私がいじると怒る玉藻前のその反応が面白くて、ついつい言い争いという名の掛け合いはヒートアップしていく。もちろんそうなれば、比例するようにして声のボリュームも大きくなっていくわけで。


「ちょっと百合。漫画は読んでもいいけど、あんまり騒ぎすぎないでよ? もう十二時過ぎてるんだから。そしてちゃっちゃと寝なさい」

「わっ! あ、うん」


ガチャっと音を立てて静かに入ってきた母はあくびながらに注意をすると、しばらく不思議そうに私の部屋を見回し、かと思えばくるりと身を翻し去っていった。あの様子からして、慌ててベッドの下へスライディングさせた玉藻前の存在には気づいていないようだ。しかし、先ほどのあの私の言葉たちは、漫画を読んで聞こえてくるようなものではなかったようなと薄々勘づかれてしまったかもしれない。


「お、お前……! よくもこの高貴なる私を滑らし、暗くて狭い場所へ押し込んだな! 一生許さぶっ」

「もう寝るのでおやすみなさい」

「は? おい!」


私はまだ可能性が低いうちにと、いそいそとベッドに潜り込む。その際に何かもふもふしたものに当たった気がしたが、まあ気のせいだろう。急いでいたので勘違いしたのだ。適当に納得する理由をこじつけた私は、耳元で騒ぐ玉藻前を完全にスルーし瞼を閉じて夢が訪れるのをじっと待つ。


……翌朝、なぜか帰らず私の頭の上でヨダレを垂らして眠っていた玉藻前のことは、昨日の涙に免じて見なかったことにしてあげよう。いやしかし、本当に重い。



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