第1話 白井百合という少女

多分、いやきっとこの世には、容姿端麗で何でもこなせる完璧人間よりも、私みたいな平凡な人間の方がたくさんいるだろう。

遠くの方からじわじわ鳴き続ける蝉と、背中を汗ぐっしょりと濡らした原因である太陽を恨みながらそんなことを考える。


「あっづい……」


今朝母がつけっぱなしにしていたテレビを覗くと、お天気お姉さんが今日は気温が三十度を越え、地域によっては三十五度にとどくと予報していた。

肩から外れた学校指定の黒いスクールバッグを背負い直すその動作さえも、この暑さの中では億劫に感じる。

これも全て、私が今着ている長袖シャツのせいだ。

さて、なぜ私は今朝ニュースを見たにも拘わらず、半袖でなく長袖を着ているのか。

理由は一ヶ月前に遡る。


「日焼けしたくないしさ、みんなで長袖シャツ着ようよ!」

「……えっ」


唐突に発せられた衝撃の言葉に、私は思わず読んでいた本を閉じ、発言者に目を移した。

ふわふわのロングヘアーに、微かに香る花の匂い。

おそらくどこの学年にもいるであろう、クラスの中心的人物の桜田さんが発言者だった。

整った顔立ちで末っ子気質のある彼女は、いつも周りに人だかりができ、冗談を言っては周りを笑いに包み込んでいる。

そんな人だ。

今回も桜田さんの冗談だろう、と不安な自分の心を無理やり納得させ、再び本に視線を落とした。

しかし、いつまで経っても彼女の口癖の「冗談だしぃ!」が聞こえてこない。

私はたらり、と冷や汗が背中をウォータースライダーの如く流れ落ちるのを感じた。

どうやら桜田さんは、本気でこの夏を長袖で過ごそうと思っているようだ。 


「いいね、それ。みんなでやれば怖くない的な」

「そうそう! さすが涼ちゃん。私のこと分かってるぅ!」


しかも、さすがに止めてくれると淡い期待を抱いていた周りの人たちも彼女の意見に賛成し、引き止める人は誰一人といなかった。

比較的人よりも汗をかきやすい私は、この暑い夏を長袖で過ごすなんて考えられない。

というか、やるなら自分たちだけでやればいいのに。

そう考えている私の視線に気づいたのか、桜田さんと私の目がカチリと合った。

まずい、と思い慌てて読んでいた本に目を落としたときにはもう遅い。

なるべく自然に視線を外したつもりだったのだが、桜田さんにはバレてしまったようだ。

キュッと教室の床を鳴らす音がどんどん近づいてくる。


「ねえねえ、白井さん。白井さんも一緒に長袖で登校しようよ! 心配しなくても、私たちも着るからさ、ね?」

「あ、えっと……」


ここで無理だと断れたら、登下校中に無駄に汗を流さなくてもよかったというのに。

心做しか周りの目が私へ対する圧力へ変わる。

そうなればもうおしまいだ。 


「……うん」


冷や汗を垂らしながら、縦に頷くことしかできなかった。

先ほどは長袖で過ごすなんてと考えていたくせに、いざ彼女を前にすると何も言えなくなる。

我ながら、なんて意思の弱いヘタレ野郎なのだろう。

もちろんクラスの女子の中では、あの圧力に負けず断っていた子も何人かいた。 

凄いと尊敬すると同時に、羨ましいと心の底から思った。

周りの意見や目に動じず、自分の意見を言えるその勇気。

私が今一番欲しいと願うそれを、既に持っている子たちが妬ましかった。


嫌なことを思い出して、体の体温が少し上がる。

暑さとそれで我慢できなくなった私は、眉をひそめて長い袖を肘あたりまでグイッとまくり上げる。 

さらさらと吹く風が熱のこもった腕にあたって気持ちがいい。

……まあ半袖ならば、もっと涼しかっただろうけれど。

小さくため息をこぼしながら、紺色のコンクリートの道をずうっと歩いていく。

鈍色のそれを見ていると、なんだか倒れてしまいそうだ。

そうなる前に、とたまたま右手側にあった涼し気な緑色の林の方へ視線を移す。

頬に汗がつうっと伝った。


「木陰の下、涼しいだろうな」


ボソリとこぼしたそれに引き寄せられるように、右足と左足は自然と林の方へ進んでいく。

いつもは怖くて絶対に寄り付かない緑一面の中。

緑が暑さを吸ってくれているのかやはりここは涼しかった。

蝉の声が少々うるさいけれど、それも慣れたら気にしなくなるだろう。

休憩と称して木にもたれ掛かる私は、瞼を閉じて短く息を吐く。

すると、数々の立ち並ぶ木々の中に一本――いやニ本だけ色の違うものがあることに気がついた。

ここからでは遠くてよく見えない。

もし変なものだったらどうしようと思いつつも、好奇心がくすぐられたので、とりあえず近寄ってみることにする。 

近くで見ればその正体はすぐにわかった。

それは特に大きくも小さくもない、一般的に知られる鳥居のようなものだった。

ただ一つ違うとすれば、茶色く薄汚れており元の色がわからないくらいだろうか。

――そこでふと、私がまだ小学生の頃に流行っていた幽霊神社のことを思い出した。

幽霊神社というのは、その頃の同級生の子が「幽霊が出そうだから」という何とも子どもじみた理由でつけた神社のあだ名だ。

私は小学生の頃から引っ込み思案な性格だったので、友達と幽霊神社に探検や肝試しなんて行かなかったが、何となく目の前のこの鳥居こそが例の神社に通じる鳥居だと感じた。 

鳥居の奥には、これまた古びた石の階段が上へと続いている。

そんな独特の雰囲気と、昼間だというのに日が当たらないこの場は、本当に幽霊が出そうだった。

サワサワと風が吹き、木々が揺れる。

ゴクリと喉を鳴らした私は、何を思ったか幽霊神社に続く石の階段を登り始めた。

自分でも、なぜ登ろうとしているのかわからない。

単に興味本位なのか、それとも人ならざる何かに呼ばれたのか。

真相は分からないままだったが、神社への道のりは案外短かったので、考える間もなく数秒もすれば最後の一段を登りきった。


「うわ……草めっちゃ生えてるし、落ち葉もそのまま……。誰もお手入れしてないんだ」


神社に着いてまず初めに思ったのが「汚い」だった。

草は無尽蔵に生え、枯れ葉も落ちてそのままだ。

これはひどい。

特に神社に詳しくない私でも、ここにはさすがに神様もいないのではないかと苦笑しながら、恐る恐るお賽銭箱の前まで近づく。

このはとても静かだ。

無駄な音や騒がしさもない。

階段を登り切る前まではあれほどうるさく鳴いていた蝉の声も、ここではなぜか全く聞こえない。

それどころか、暑ささえ感じなかった。

三十度を越える気温の中階段を登ってきたというのに。  

少し不気味に感じたが、暑さを感じなくても困ることはないかとあっさり思考を放棄した。

お賽銭箱の前には四段くらいの階段らしきものがあり、私はそれにちょこんと座る。

涼しいけれど暖かい。 

まるで母に抱きしめられているかのような感覚に、突然睡魔が襲ってきた。

たしか昨日は、読みたい漫画を十二時過ぎまで見ていたのだったか。

それが睡魔の原因だろう。  

ここは幽霊神社で誰も寄り付かない。

それなら少しくらい寝ていても大丈夫だろう。多分。

確証はないのにそれに安心した私は、再び抱きしめられるような暖かい感覚により簡単に眠りに落ちた。

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