第13話 王太子たち(3)

――心臓を撃ち抜かた。からだ丸ごと鷲掴みにされた。そんな衝撃を受けた。


「ヒルデさん……?」

「複雑怪奇、変幻自在、何よりも繊細で、誰よりも大胆……」


周囲を気にも留めず、ヒルデベルトはぶつぶつと呟きだした。


「ちょっと、ヒルデさん。どうしたんですか」

「炎の文様……カイナ暦のやつだし……あ、ここでウンディーネの召還を使うの? 信じられない……」


ヒルデベルトの眼は暴風雨のように目まぐるしく模造紙の魔法陣の上を動く。

次の言葉を読み解く期待で、心臓が痛いほど波打つ。

脳の回転に体が耐え切れず、鼻血がつーっと口元に落ちて、ヒルデベルトは無意識に舐めとった。

ヒルデベルトはここ数年なかったほどの興奮と集中力を持って、魔法陣を解読した。


「ここがこうなって、こうなって、えっ、これが……こう、ええ、正気なのかよ……」


ヒルデの口元は緩んだ。


幸福だった。

最後まで解読したくないとすら思った。

それほどまでにその魔法陣は新鮮で、老熟していて、つまり素晴らしかった。


残念なことにヒルデの明晰な頭脳は一直線に、最後の一本の線までたどり着いた。


「……え?」

「……ヒルデ、どうした?」


王太子が訪ねた。

ヒルデから笑みが消えた。

興奮が消えた。

目の光も消えた。


「全部……中和した……」

「は?」

「すべての言葉が、文様が、その線の一部まで美しく完璧に中和しあった! 何の効力もない魔法陣だったんだよこの野郎!」


――それは、ヒルデの人生一番のがっかりであった。


組み込まれたすべてがすべてを完璧に打ち消し合って、中和した。

例えていうなら、1+1のような簡単な式に、膨大で複雑な途中式を書いて、最後の答えが1+1に戻るようなものだ。

これではこの魔法陣には何の効果もない。


人類史上最大級の無駄だ、とヒルデは思った。


「とりあえず、鼻血ふけ……」

「何だよ、この作者! 変態だ、天才だ、いーややっぱり変態だ!」

「ヒルデさんがそこまで言うとは……そんなにすごい陣だったんですか?」

「評価のつけようもないよ、だって何にも起きないんだもの」

「それは魔法陣ですら、なくないか……?」

「そんなわけがない、これは確かに魔法だ。見てくれ、見ればわかるから。いやむしろ見るな。僕がこの陣を独り占めしたい……」

「いや、俺たちだってそんなにすぐ読めるわけがない、だって魔法陣ですよ……」


侃々諤々の大騒ぎの中で、テラスの扉が開いた。


「失礼いたします……」


現れたのは、ファーナー男爵だった。

ファーナー男爵は、ギルベルトの顔を見るとほっと顔をほころばせた。


「ああ、やはりあなただ。あの、私が持っていた紙と混ざりましたよね……?」


ヒルデはとびかかるようにして、ファーナー男爵の襟元をつかんだ。


「ああ、ヒルデさんやめなさい――」


フェリクスが叫んだ。


「ねえ、この陣描いたのお前?」


ヒルデの問いに、ファーナー男爵は目を白黒させて言う。


「ち、違います、うちの娘で――」

「娘? 何歳? 宮廷学校の何年卒? 学生じゃないでしょ? 僕こんな生徒知らない」

「じゅ、十五歳で……」

「うっそ年下? じゃあ学生だってわけ、くそ、僕としたことが、こんな天才見落とすとは……」

「きゅ、宮廷学校どころか、家庭教師を雇ったこともありません」

「はぁ? じゃあ、ぜんぶ独学だっていうの……?」


ヒルデはしばらく呆然とした後、くっくっくっと笑いを漏らした。


「ねえ、会わせてよ。そちらのお嬢さんに」


ヒルデは言った。有無を言わせぬ気迫だが、どこか懇願するような響きがあった。


***


話し合いが終わった後、テラスを出た王太子エアハルトは、中庭でうろうろしている令嬢を見つけた。


「アポロニアさん、どうしたのかな」


アポロニアははっとした顔をして、数多の淑女の中でも際立って美しいカーテシーをする。


「王太子様に置かれましては、ご機嫌麗しゅう」

「うん、ごきげんよう。で、どうしたのかな」


エアハルトの問いに、アポロニアは居心地悪そうに目線を下げると、右手を開いて差し出した。持っていたのは、金色のボタンだった。


「さきほど薔薇の植え込みで、ヒルデお兄様のボタンが落ちているのを見つけたのですわ。つけてさしあげたいのですけれど、もうどこにも見当たらなくて」

「ああ……さっき、ファーナー男爵を引きずっていったな……」

「お兄様が……? 引きずられるのではなく、引きずっていくのは珍しいですわね……」


アポロニアは首を傾げる。

エアハルトはふと思いついて、呟いてみた。


「クラウディア・ツァールマン嬢が騎士団合同演習会に行くらしいよ。珍しいね」

「えっ」


アポロニアはぱっと顔を輝かせた。


「あの勉強しかしないクラウディアさんが遊びに行くなんて、これはチャンスですわ。この間に猛勉強して差をつけて、こんどこそわたくしが首位の座を――!」


しかし、アポロニアは顔を曇らせる。


「いえ、あの勉強しかしないクラウディアさんが遊びに行く? これはおかしいですわ。何もないのに、あのクラウディアさんがああいう場に出かけるなんて……」


アポロニアの目がギラリと光った。


「あの人、そこでも勉強する気ですわ」

「それは、どう、だろうなぁ……」

「こうしてはいられませんわ。わたくしも騎士団合同演習会に行って、クラウディアさんが何を勉強する気なのか見定めないと」


王太子エアハルトは苦笑しながら言った。


「君にとって、クラウディア嬢……あとアンネマリー嬢は……」

「ライバルですわ!」


アポロニアは顔を輝かせながら言った。


「クラウディアさんは知識欲。アンネマリーさんはその人当たりの良さ。どちらも私にはまねできない天性の才能を持っています」


そこで、アポロニアはぐっと渋い顔をした。


「でも、アンネマリーさんは才能を全く活かそうとしない。貞淑だとか何とか、口当たりの良い言葉であんなに舐められているのに、反論すらしないのですわ。自分で自分を守る気のない方って、見ていて苛々します」

「それで、嫌味を言っちゃうとか?」


エアハルトの言葉に、アポロニアはうっと言葉を詰まらせる。


「……、都合が良い人としか思われていないのに、ちゃんと傷ついているのに、アンネマリーさんは少しも怒らないんですわ。何とかして、アンネマリーさんは舐められていい人じゃないってこと、アンネマリーさん自身に気づかせないと」

「うん。発破をかけるのが悪いこととは言わないけれど、すくなくとも人を助けるのに、いつも有効なことではないよね」


 アポロニアは歯を食いしばってうつむいた。


「……肝に銘じますわ」


ふわふわの赤毛がぷるぷるとゆれ、反省、の二文字が頭上に浮かんで見えるような気がした。

エアハルトは微笑んでその様子を見ていた。


アポロニアは「冷酷令嬢」として有名だが、存外熱くて、非常に素直な少女なのだ。

そして、本質はとても善良だ。


それが他の男に、それもフェリクスの話に聞くような、ひどくつまらない男にとられるなんて、全く面白い話ではない。


エアハルトは赤い髪のつむじを見ながら、そう思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る