1章9節 初めての一歩

 ノートに教科書の内容を書き写す。文盲でもないのに、朝からずっと文字を書く練習をし続けているが、他にやれることがない。


 こんなことをする以外の許可がまだ私に降りていないからだ。


 現に今だって、文字を書いているだけなのに目が霞んでいる。感覚もない癖に指先の震えが止まらない。


 どれだけ練習しても綺麗な字にならない。文字の大きさも、線の長短もバラバラ。殴り書きされたカルテ以下の文字だった。


「ダメ。こんなんじゃ見せられない」


「精が出ますね、八城やしろさん。ちょっとお時間を頂いていいかな」


 次のページを捲ろうとした時に、耳障りな声が聞こえた。


 咄嗟にノートを隠そうとしたが、鈍いくせに使えない腕がノートを床に落としてしまう。


 声の主は笑顔でそれを拾って寄こしたけれど。ノートの文字をねめるように眺めていたのを私は見逃しはしなかった。


「私の時間なんて、お前の胸先三寸だろうが。いいから書類さっさと渡しなさいよ。口調も戻せ。お付がいなんだから、主治医の仕事だけやって」


 横にあるテーブルへ静かに置かれたファイルが一冊。二冊。三冊。


 量は多いが見るべき項目は少ない。幾つかの検査項目と。グラフや表と。長い長い論考の中にあるたった数行だけなのだから。


「本職が目のまえにいるんだぜ。解説くらいさせりゃいいだろ」


「頭が鈍る。そうやって気を抜くから、立って歩けるくらいしか能のない木偶が多いんだ」


「そうか。俺も時間がない、勝手に喋らせてもらうぞ。検査の結果は及第点だ。外出訓練の許可を出す」


「ちょっと。なんで訓練なのよ」


 身体に入った刃の量なら。血液に混ざっている薬剤の種類なら。ただ生きているというだけで困難なのは私も彼も、そう大した違いはないというのに。


 どういう理由で、私は彼のところへ行けないというのだ。


万洋まひろと違ってお前は転院でウチに来ているからな。救急車以外で病院の外に出た経験もないだろう。その状態でいきなり学校生活を送れると思うなよ」


 物心付いた時から、管に繋がれて生かされてきた。激痛を訴える術もないまま、排泄すら管理された状態の方が長いまま生きている。


 病院の外の情報は、万洋やこのヤブ医者から聞いた情報からしか知らない。断片的に過ぎるけれど、病室とは違うルールが外界を支配していると理解するには十分だった。


「クソが。私を治せないボンクラしかいない癖に。ルールだの決まりだの。私の足を引っ張ることしかできないのか」


「お前の半分以下しか頭の出来上がってないクソガキ共の巣窟に行くんだぞ。身を守る術を学んでからでなければ。病室からでることは許さん」


 目のまえにいる保井やすいとかいう医者は、私を癒すことができない無能だ。


 だが、私を立たせて動かすことができたのもこのヤブ医者しかいなかった。


「お疲れさん。結果も聞いてないうちから、楽しみで仕方ないようじゃないか」


「黙れヤブ医者。結果を聞いてから訓練を始めて、入学式に間に合うはずないだろうが」


 ローファーを履いてまっすぐ歩く訓練。ボタンを時間以内にかけたり外したりする訓練。硬いものを食べて、詰まらせないように飲み込む訓練。


 通常の治療に加えて、訓練に次ぐ訓練の日々だった。


 保井が来たこの瞬間も。タブレットでファイルをダウンロードして、必要事項を書き込んで提出する練習をしているところだった。


 回診の時間でもなければ、急に何かの不調が見つかったわけでもなさそうだ。


 かさばりそうな紙袋まで持ち込んで、一体何をしに来たのか。訝しいけれど。


「お父さんへ届いた荷物を預かっている。電話くらいはしてやったらどうだ」


 何か言われたらしいが、まったく耳に届かない。


 なんであれ、金を出しているのはあの血縁だ。なのに私に届くということは。


 保井からひったくった紙袋は思った以上の手ごたえがあって。予期せぬ重さに、手に取った途端に地面へ落としてしまう。


 中身は零れずに済んだけれど、袋の内側を見た瞬間に何が入っているのか。はっきりとわかった。


 高校の制服だ。万洋と同じ学校のもの。恵宝けいほう高校の制服。ついに喜佐美きさみ万洋と同じ学校に通えるのだ。


「やった。やった。ついにやった。できた。ハハ。息をしてるだけで、こんなに笑えるなんて。あはははは」


 初めて触れた学校の制服は重くて、ザラザラしていて固かった。


 こんな重いものを着るなんて。


 必要ないものしか入れられないのに、なんでこんなにポケットがあるのか。


 自分が着るものでなければ、センスだって最悪なのに。


 心臓が早鐘を打っているのに苦しくない。制服は重いけれど、いつまでも持っていられる。こんなに笑っているのに、まだ収まらない。


「これで学校に行けるんでしょ。馬鹿みたいに電車に乗って。教科書読めばわかる授業をわざわざ受けて。万洋とそんな時間を過ごせるのよね。なんとか言いなさいよ」


 返事がないのを訝しんで保井の方へ向いて、はしゃぎ過ぎたのに気づいた。


 満面の笑みの保井に動画を撮られていたのだ。


「血は繋がっちゃいないが、俺だって子供がいる。お前の親父さんには海外に行ってまで治療費を払ってもらってるんだ。このくらいのご褒美があってもいい」


「死ね変態」


「治療費出してるのはお前の父親だぞ。俺だってご機嫌取りに必死なんだ」


 この後、ビデオメッセージまで撮らされた。


 ニコニコと笑って。手なんか振ってやったりして。猫なで声で心にもないことを言ってやった。


 少しでも私に関心があるのなら、こんな茶番をさせることでどれ程の不興を買っているのか。わかりそうなものを。


「じゃあね。お父さん、大好きだよ」


「オーケー。相変わらず外面はいいな。百点満点だぞ。じゃ、次は制服を着て撮影だ」


「あっそ。でてけ」


「いやいや。父親的にはこれからが本番だぞ。俺だって英雄ひでおの制服を見たときは」


「着替えるんだよ蛆虫」


 試験に合格し制服が届いたところで。すんなりと入学できたわけではない。あともう少しというところで体調が大きく乱れた。


 入学式には間に合わず、ひと月が過ぎて、ゴールデンウィークを過ぎてもベットに転がされ。夏休みの方が近くなってしまった頃にやっと入学の許可が下りた。


「やっと。やっと。学校に行ける」


 病室に新しく追加された姿見で、訓練の成果を確認する。


 背丈を超えるほどの鏡の中には、制服を着ている自分が映っていて。今の自分に見えるものは、普通の女の子のようにしか見えない自分だった。


「アハハ。なにこれ。ちょっと変わった服を着たくらいでさ」


 なんで泣いてるんだろう。これからが本番じゃないか。


 まだだ。まだ何も叶っていないのに。これから学校に出かけるくらいで満足できるわけないだろうが。


 ただの女の子という。安い存在のように自分を錯覚したくらいで幸せを感じているんじゃない。


 そうだ。私も万洋と同じなのだ。


「普通。普通って。私たちに限ってそんなことは絶対にない」


 ただ健康であるというだけで普通というものになれるのだとしたら。そんなもの私の方から願い下げだった。


 身体が弱いからと見下して。先のない未来だからと憐れんで。


 私の時間が感傷に浪費されるのが許せない。同じ空気を吸っているのすら度し難い。


 そして何よりも。


「学校はいい所だと思うな。桃華とうかちゃんのいう通り、行ってみたら大したことないかもしれないよ。でもね、そういう時間だからこそ。きみと過ごしてみたいんだ」


 なんでもない時間を過ごしたいと、万洋は告げて高校へ入学した。そうして今も、ただの高校生としての生活を続けている。


 世に蔓延る有象無象の一人として生きていく。彼が過ごしている日常は、いつ絶えるかわからない私たちにとって。もう何度目かの奇跡だった。


 万洋ができたことなら、私にできないわけがない。彼と同様、私も幾度となく死地を乗り越えてきたのだから。


 次は私が不可能を踏破する番だ。そして、彼の願いを私が叶える。


 万洋のそばにいる資格を持つべきは、同じ痛みを抱え彼の強さを知っている。私だけなのだから。

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