1章7節 かがみが映すもの

 夏の足音はすぐそこまで近づいているらしい。日が落ちた後も空は明るく、下校中も上着を脱いだままの人をたくさん見かけた。


 電車のガラス越しに映る自分の顔はとても酷く見えた。動揺を隠せていない瞳。カサついた唇。顔色が悪く見えるのも、きっと気のせいではないのだろう。


 喜佐美きさみくんの間に生じてしまった溝。下校する前に呉内くれうちが投げてきた問いかけは、今の状況を打破できるかもしれない。気づいてはいるけれど。


 オマエになにができんだよ。


「そんなことは」


 なんでもしてあげたいに決まっている。なら、喜佐美くんのために私にできることはなんなのか。考えてみても、つり革を握る手に力が籠るだけだった。


 喜佐美くんの薬の時間や飲み合わせは知っているけれど、飲ませ方や飲めない時の対処は知らない。AEDの使い方は調べたけれど、実際に使ったことはない。更に言えば触ったことすらなかった。


 でも、ただの高校生でしかない私にそれを学ぶ機会なんてどこにあるんだろう。都心の大きな本屋まで足を運んだけど、どの本を選べばいいのかわからなかった。ネットで調べても、わかったような気になるばかりで不安にしかならない。正しいことを教えてくれる医者の知り合いなんていなかった。


 学校の先生方に相談しても、その話が校内を巡ってまた喜佐美くんを苦しませてしまうかもしれない。


 一体どうすればいいんだろう。頭がいっぱいになって叫び出す前に、一度電車を降りて頭を冷やそうと決めたまではよかったけれど。


 突然、真後ろで大きくて鈍い音がした。柔らかくて重い何かが無造作に床へ叩きつけられたような音。カバンとか誰かの荷物とかとは絶対違う、聞いたことのない異様な物音だった。


 左右を振り向くと、車内にいるほとんどの人が私の方向を向いている。信じられないものを見るような顔。逃げ出すように別の隣の車両へと移動する人も少なくない。


 私の後ろで何が起こったのか。薄々感づいていたのに、振り返ってしまって。すぐに後悔した。


 人が倒れている。スーツを着ているどこにでもいそうなおじさんが、無造作に床へ転がっていた。


 カバンからはみ出てしまった荷物。小刻みに身体を震わせながら、目を見開いて。口の端から泡のようなものがドロドロと流れ出している。


 後ろに立っていただけだったけれど、さっきまでこんなことなかったはずなのに。

 明らかに普通の様子じゃない。怖がってる場合じゃなかった。今ここで私がやらなくちゃいけないんだ。


 喜佐美くんのことが頭を過った瞬間、伸ばそうとした手が止まってしまう。


 目の前の急病人に、喜佐美くんの万が一の時が重なってしまったから。カッと見開かれた目。瞬く間に青白くなっていく顔。おじさんの苦しむ姿がどんどん喜佐美くんの姿に脳内で変換されていく。逃げるように移動することも、できなくなっていた。


 今乗っている電車はさっき駅を出たばかりだから、次の駅に到着するまで何分もかかってしまう。その間ずっと、喜佐美くんが苦しむ姿が重なるのか。


 凍り付いたように動かなかった指が、震え始めた瞬間。倒れる人へ重なるように、新たな人影が現れた。


「もしもし。大丈夫ですか。聞こえていますか」


 倒れた人の肩を揺すって語りかける男の子は、他校の制服だったけれど私と同じ高校生だというのはわかった。


 けれど、目のまえにいる助けが必要な人への態度は私とまったく違っていて。


「意識なし。呼吸あり」


 彼は倒れた人を横向きにして、片腕を顎の下に置いた後、片膝を曲げさせた。変な格好をさせたり。一瞬で倒れた人のネクタイやボタンを緩めたり。妙なことしているのに、自分も含めて彼に口を挟もうという人は誰もいない。


 こんな状況でもまったく動じずに、平常心で対処しているのがわかったからだ。


 彼がポケットで何かを弄っている。気づいた瞬間にはもうスマホが取り出されていて、あっという間に私へ差し出されていた。


「消防署に電話をしました。やることがあるので、後は代わりにお願いします」


「え。私、通報なんてしたこと」


「聞かれたことに答えれば大丈夫です。安心してください」


 質問に答えるだけなら、私にもできる気がする。そう思ってスマホを受け取ると、彼は背を向けて一瞬で倒れた人のところへ戻って行ってしまった。


 電話に出てくれた消防署の人の質問は確かに簡単だった。電話の向こうにいる人は冷静に対応してくれた上に、急な出来事に慌てている私を気遣ってくれる。電車が駅に着く前に、なんとか必要な情報は伝えられたはずだ。


 私が一生懸命に通報している間も、彼は冷静に救護措置を続けていく。


「金髪のお兄さんと白い半袖のお兄さん。ドアを開けたときに、駅からのお客さんが乗らないようにしてください。ありがとうございます」


 一番後ろの車両に行って車掌さんに人が倒れたことを伝えにいってもらう。駅に着いたときにホームへ運び出すときの手伝いをしてもらう。


 彼が次々と近くにいた人にお願いを繰り返した結果。駅に着いたらすぐに倒れた人をホームへ運び出す準備は整っていた。

 

 駅に着いてから、倒れた人が搬送されたのはあっという間の出来事だった。電話は駅に着いてからも続いていたけれど。救急隊員の方とやりとりをしている彼に比べれば一瞬で終わってしまうことだった。


 一番大変だったのは、倒れた人を安全に救急隊員に引き渡せる状況を作った彼だろう。それなのに、急病人を運ぶ彼らが去った後は真っ先に私へお礼を言いに来てくれた。

「ありがとうございます。本当に急な出来事でしたが、あなたのお陰で落ち着いて対処できました。ありがとう」


「どういたしまして。私も貴重な経験ができて自信がつきました。スマホ、お返ししますね」


 手渡されようとしたスマホを怪訝に見つめた彼は、数瞬かけてやっと思い出してくれたようだ。


「忘れてました。ありがとう」


 狼狽えながら危なかったと小声で二回呟いているあたり、本当に頭から抜けていたらしい。人が倒れている時はあんなに頼もしかったのに、ちょっと滑稽な男子だった。


「助けてもらいましたし。スマホも失くさずに済みました。是非お礼をさせて欲しいのですが、自販機のジュースなんかどうでしょうか」


 あれだけ動いたのに着崩れ一つ見当たらない制服の着こなし。堅い口調や落ち着いた雰囲気もあって、襟章を見るまで朝野先輩と同じ三年生だと思っていた。まさか、同学年の一年生だったとは。


「お礼なら教えて欲しいことがあって。その、今みたいなこと、どこで教われるのが教えて欲しいんです」


「興味を持って貰えて嬉しいです」


 自己紹介の時にかがみ英雄ひでおと名乗った彼もやはり疲れてはいたようで。小休憩も兼ねて、駅中のお店でしばらく話を聞かせてもらうことにした。


 喜佐美くんのこともあって、少し食い気味だったかもしれないけれど、とてもいい収穫があった。


「知識があれば、心構えもやり易い。実体験としてそう思います」


「やっぱり鑑くんの知り合いにお医者さんとかがいるの」


 それはそうですが。と前置きはあったけれど。鑑くんが教えてくれたことは、私にもできることだった。


「応急処置の知識を纏まった形で教えてくれる講座があります。消防署で予約をすれば、誰でも受講できますよ」

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