1章5節 朝のかげりの中で

 今朝はとびきりいい朝だ。朝ごはんを手早く済ませることができた。占いも万洋くんの星座が一位だったから、水瓶座が出るまでテレビの前でやきもきすることもない。


 そしてなにより。鏡に映る自分がなぜだかすっごく可愛い。入学してから本格的に始めた肌の手入れが効果を出してきたのだろうか。セットした髪だってばっちりハマっている。


「いつもこのくらいだったらいいんだけどな」


 制服だって普通に着ているはずなのに、いつもよりずっと可憐に見えている。一刻も早く喜佐美くんに見せてあげたくて胸が躍った。


 ローファーを履いて玄関を出ると、頭上には気持ちいいくらいに真っ青な空が広がっている。万洋くんの体調に何もなければ、足元や風なんか気にしないで一緒にゆっくりと登校できるに違いない。


 電車はどの路線も特に遅延がなく、座席に座ることも珍しくできた。学校の最寄り駅までは時間もあるし、教科書を読み返そう。


 今週から、通学中の電車の中で自習を始めた。立っているなら上着の中の単語帳や年号のメモを。座れたならカバンから教科書を。それぞれ目にするように心掛けている。


 ここ最近の朝野あさの先輩は、喜佐美きさみくんをあちこちに連れまわし過ぎだ。


 お姉さんのことを大事にしている彼にとって、憧れの人と同じ場所で活動するのは大事なことだろう。だからといって、朝野先輩が毎日のように喜佐美くんを秘書として使うのは見過ごせない。


 喜佐美くんの夢は私だって止めたくない。なので、喜佐美くんが朝野先輩に付いていく理由を必死に考えて、一つの結論にたどり着いた。


 いつ入院しても遅れを取り戻せるように、喜佐美くんは勉強へ熱心に取り組んでいる。そんな彼にとって、優等生の朝野先輩に勉強を教えてもらえることは絶好の機会のはずだ。


 先輩と後輩というだけでなく。一海さんという同じ相手への憧憬を抱えている。その上、勉強を教えてもらう関係まで構築しているのに。彼女が喜佐美くんの体調について無頓着なのは見過ごせなかった。


 付け焼刃でもなんでも、喜佐美くんを朝野先輩から少しでも離すことができる手段があるなら実行するべきだ。

 

 集中していると時間はあっという間に過ぎてしまう。危うく駅を乗り越してしまいそうになったけれど、なんとか時間通りに改札を出られた。


 出口の階段を降りると、喜佐美くんがベンチに座って私を待ってくれているのが見えた。


「おはよう。喜佐美くん」


久留巳くるみさんおはよう。いい天気だよね」


 高校にはなんとか通えているけれど、喜佐美くんの身体はいつ何が起こるかわからなかった。電車から降りたあとは、しばらく休憩を取ったほうがいいし。可能な限り誰かが一緒に通学してあげる方がいい。


 そういうわけで。喜佐美くんと、彼と仲がいいクラスメイトで待ち合わせをして学校まで一緒に歩くことは決まっていた。


「手、使ってもいいよ」


「大丈夫。急に動き出すと立ち眩みが怖いからね」


 一人で立ち上がろうとした喜佐美くんの動きが、少し精彩を欠いているように感じる。せめて学校までカバンを持ってあげようと思ったけれど。彼はどうしても自分の荷物を自分で持ちたいみたいで、ベンチから持ち上げて渡してあげるしかできなかった。


 カバンを渡してあげたとき。曲がり角を進むとき。信号なんかで一度止まったあと、また進むとき。喜佐美くんから自分のカバンの重みに引っ張られているような印象を受けている。


 喜佐美くんのカバンは一回り小さいし、荷物だって工夫して他の生徒より少なくしてある。普段だったら、軽々と運ぶまではいかなくても振り回されることなんかないのに。


「今日はエレベーターを使おうか」


 ローファーから上履きに履き替えた喜佐美くんが、私が言おうと思っていたことを先に言ってくれた。


 自分の身体のことを考えてくれるのは嬉しいけれど、普段の喜佐美くんなら言いそうにないことで。自覚して気をつけなくちゃいけない程に、今日の彼は体調が良くないみたいだ。


「床がふかふかのエレベーターって恵宝高校が始めてだったんだけど。久留巳さんは他に見たことある」


「言われてみればそうかも」


「やっぱり珍しいんだね。これからはもうちょっと乗ってみようかな」


 エレベーターに乗っている喜佐美くんは壁に身体を預けている。やっぱりいつもの喜佐美くんらしくない。お姉さんに憧れて毎日頑張っているのに、そんな行儀の悪いことをする理由がなかった。


「喜佐美くん。ちょっといいかな」


「いいけど、もう着いたよ」


「二人で話したいことだから」


 そのままゆっくりと扉が閉まって、エレベーターは私と喜佐美くんだけの小部屋になる。


 エレベーターを生徒が使うことは、特別な事情がない限り原則禁止。先生や用務員の人たちも、重かったり大きい荷物があるときしか使わない。


 体調に関する話題はセンシティブだから、色んな人に聞かれる場所で話したくはなかった。教室で話したら、呉内が茶化しに来て流れを滅茶苦茶にしてしまうかもしれない。偶然であったとしても、朝野先輩の耳に入る可能性も消したかった。


「喜佐美くん。本当は調子があまり良くないんだよね」


 声には出さなかったけれど、喜佐美くんは小さく頷いてくれた。


「かかりつけの先生も大丈夫だって言ってくれてるし。金曜日の放課後から検査もあるから」


「生徒会の活動。しばらくお休みしようよ」


 最後まで話を聞いてあげなかった対価として、初めて目にする喜佐美くんの怯えたような表情。お願いだからそんな目で見ないで欲しい。


 私だって、こんなこと本当に言いたくはなかったけど。喜佐美くんのためだ。私ができることは、彼にもう少し自分を大切にしてもらうようお願いするしかないんだから。


「久留巳さんが言うんだから誤魔化せないね。教えてくれてありがとう。朝野先輩や生徒会の皆さんには僕から伝えたいから、先に教室で待ってて欲しいな」


 酷いことを言ってしまった私にも、喜佐美くんはありがとうと言ってくれて。笑顔でエレベーターから見送ってくれる。


 喜佐美くんの気遣いと優しさに甘えて、そのままエレベーターに背を向けてしまった。


 一人になった喜佐美くんがどんな顔をしているのか考えてしまう。


 少しでもいいから辛そうな表情をみせて欲しかった。いっそ、嫌うような素振りさえ見せてくれた方が私も楽になれるのに。


 その日の放課後から喜佐美くんは生徒会に足を運ばなくなった。


 定例会に顔を出すことはなくなった。朝の挨拶運動で、校門の前にいる彼に挨拶してもらうこともない。放課後になったら窓越しに生徒会室を覗いて、幸せそうな喜佐美くんを見ることもないだろう。


「生徒会の活動には行けなくても。お休みの日にお邪魔して、朝野先輩に勉強を教えてもらうくらいならいいんじゃないかな」


「手伝いのお礼で教わってたんだ。何もしてないのにお邪魔するのは、気が引けちゃうかも」


 あれだけ引き留めたかった朝野先輩の所にも、もう行っていない。


 喜佐美くんの態度も笑顔も、いつも通り何も変わらなかった。相変わらず呉内は雑に絡んでくるけれど、私が喜佐美くんに勉強を教えてあげる機会もできている。


 一緒に過ごす時間は、単純に考えれば増えている。けれど、どこか虚ろに流れていくばかりで以前のように楽しいばかりの時間ではなくなっていた。


 喜佐美くんの自由を一方的に奪ってしまった。私の感じている負い目が、彼とのわだかまりを産んでいる。解決する方法も思い浮かばないまま、また今日という日が過ぎようとしていた。

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