第22話 メリー・メアーの呼び声 10
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『あの人』は、すでに世話係の少女を懐柔して、利用したようである。
梅雨の切れ間のある日、医療用ベッドの搬入の途中で、居合わせたスタッフのあいだでちょっとした諍いが起こった。
その騒ぎに乗じて『あの人』は家を抜け出したのだ。
あとで調べたところ、笑い声を上げて車椅子を押す走る少女の姿が近所で目撃されていた。
つばの広い帽子をかぶった車椅子の婦人も、やはり笑っていたのだという。
二人は最後のどのような会話を交わしたのだろう?
バスとタクシーを使って、最後に二人はフェリーに乗った。
それから『あの人』はどうにか動く体で少女を出し抜き、海へ身を投げた。
遺体は見つからなかったが、状況的に死亡と判断されているらしい。
『あの人は』誰も道連れにしなかったのだ。
カトウと『あの人』の夫は、少女が後追い自殺をしないよう、しばらく見張っていなくてはならなかった。
少女はじょじょに落ち着きつつあるのだという。
おそらく生きるだろう。『あの人』がそんなことは望んでいないと気づくからだ。そうなるよう『あの人』はあらかじめ少女を教育していったに違いない。
カトウと『あの人』の夫もまだ生きている。
けっきょく『あの人』は誰も信じず、救いの手をすべて拒みつづけ、後追いさえ拒んだまま、去って行ったのだ。
なんて繊細かつ図々しい最後だろう。
報告を聞いて私は少し愉快な気持ちになった。
そしてここからは多分、余談であろう話。
亡くなるまでのあいだ『あの人』とは〈ホール〉で何度か会った。
もっと彼女は水の底から出てこなかったし、すぐに〈扉〉を使って帰ってしまうのが常だった。
稀にだが、いつもの私の誘いを振ったあとで、音楽鑑賞に付き合ってくれることもあった。彼女に嫌われたくないので私はスピーカの音量を控えめにした。
そして、思えば亡くなる本当に直前のことだったが、ある少女の話を私にしてくれた。これが『あの人』が私に話しかけてくれた最初で最後だった。
すべてを完璧にこなさなくてはならない、そう考える少女がいた。
女の子は努力して学校の授業の内容はもとより、道徳の作文のようなものまで大人が気に入るよう考えて、喜ばれるよう苦心してきた。けれど本当の話、女の子は図工の授業だけはずっと苦手だった。
あるとき、焼き物を作る授業があった。
学校で粘土をこねておいて、あとで陶芸教室で焼いてもらうのである。
女の子は馬の置物をつくった。埴輪みたいな馬ができた。
自分でもこれが褒められないであろうことはわかっていた。
大人が褒めてくれるのは、うんと子供らしいダイナミックな失敗作か、写実的にできた優秀作品なのだ。
後日、クラスで陶芸教室へ行って焼き上がった作品を受け取った。
他の小学校と合同の授業だったらしく、知らない男の子たちと一緒だった。
出来上がった馬はやっぱり褒められなかった。
この馬は失敗だと女の子は落ちこんだ。
どうしても家に持って帰りたくなくて、女の子は馬を近くの池に捨ててしまった。
その帰り道の途中、女の子は他校の男の子たちとすれ違った。
やはり自分たちでつくった陶芸作品を手に持って品評し合っている。
その中のひとりが、女の子と同じような馬をつくっていた。
いがぐり頭の「好きな食べ物? 肉とイモです」といった感じの子で、下手くそな友達から馬鹿にされていた。
女の子は自分のことのように居たたまれない気持ちになったが、いがぐりの男の子は笑っていた。
「いいさ。俺は好きでこいつをつくったんだ。それはお前らも一緒だろ?」
子供たちはなおも馬を変な顔だとか、足が短いだとか繰り返していたが、もうその口調からは、馬鹿にした様子は消えていた。
いがぐりの少年と話しているのが楽しくてしょうがない様子で、彼の作った馬に対しても、いっきに親しみが増したという感じだった。
立ち止まって、彼らを見送ると、女の子はさっきの池の方を振り返った。
女の子のつくった馬はもう泥の底に沈んでしまったろう。
戻って沼を攫う勇気も彼女にはなかった。
女の子はそのまま何事もなかったかのように帰路についた。
でも、本当の本当は、あの馬は自分では成功だと思っていたのだ。
「頭が大きく、足がよちよち小さく、とても可愛いかった」
そういって『あの人』は最初で最後の会話を終えた。
その女の子は最後にはどうなるのでしょうと私は訊いたが応えはなく、睡蓮の花は密やかに揺れるばかりだった。
このときの話をカトウに教えてやるべきだろうか?
今のところ、答えは出ず、私はそれを胸にしまいこんだままにしている。
ただ、未だに見つかっていないという『あの人』のことを、私はこう考えることにした。
『あの人』は自分の馬を探しにいったのだ。
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