第10話 メリー・メアーの尾骨 3



3


「急に悪夢といわれても。僕ら二人で同じ夢をみているってこと? えっ違うの? 〈ホール〉?」

〈人と人は道で行き逢う。同じように人と悪夢はここ〈ホール〉で行き遭う。まあ、夢の世界だと思ってもらっていいですよ〉

「烏賊で喋るのやめてもらって良いですか? あ、ダメだ何で……」

 タジマくんは、わきへ行って吐きはじめた。

 顔色が真っ白だ。心因性の貧血だろう。

 女性の方も日頃のストレスも溜まっていそうだったし、二人とも「癒やし」を必要としているように、私には思われた。


 ややこしいことを説明しても受け入れる余裕はないだろう。

 いずれにしろ、現実のあなたたちは睡眠中であるということだけは信用して下さい、と私はこういうだけに留めた。

 ここが現実でないことは、二人とも認めないわけにはいかない様子だった。


「夢か……そういえば最近疲れてたから」

「僕らここへ来る前どこにいましたっけ……確か支店で問題が発生して……」

「それから憶えてない。気がついたらボロボロの車の中にいて……運転手もいなくて……」

 その車が恐らく、彼女らが帰るための〈扉〉だろう。

 現実の体はタクシーの中でうたた寝しているといったところだろうか。

 その事実を教えてあげると、二人はすぐに帰ろうとした。


「帰れるんですか? そりゃそうか。先輩どうします?」

「帰る……もちろん帰る。帰らなきゃ」

 そういって、女性は焚き火の前から立ち上がろうとし、目眩がするのか、砂の上に手をついてしまう。それから長い溜息をついた。

「帰ってからのこと考えたら気が狂いそう」

「……この案件が終わったら休めるんですよね?」

「まさか……次の仕事をふられるだけよ」

 後輩のタジマくんは元気づけようとするのだが、女性は皮肉めいた動作で首を振るばかりだった。

 投げ出した足と、乱れた髪が焚き火へさわりそうになっているが、気にする余裕もないようだった。


「でも行かなきゃね――」

 立てないなら寝転んでしまえばいいのでは? 再び立ち上がりかける女性を遮って私はいった。ここはリゾート地なのですから。


 落ち着いてもらうには、まずここでの出来事は現実世界での短い夢でしかないのだという事実を、理解してもらう必要があった。「杜子春」なんかを引用して説得した結果、どうにか納得してもらえた。時間の制約を解かれて、二人は一気に気が楽になったようだった。


 近づきの印に、私は焚き火で焼いた烏賊君をさしだしたが、これは断られた。どうせ夢のようなものなのだからいいじゃないですか。私が烏賊を囓ってみせると、二人はそろって嫌な顔をした。


「ずいぶん慣れているみたいだけど、キミはここ、長いの? ここで何をしているの?」

 女性がいう。私は、もちろんバカンスですよと答える。

 私も二人と同じなのだ。

 私にも現実の生活がある。

 毎日の義務を果たし、疲れとストレスを溜め、自身の生活を消費して生きている。

 だからここへは自分を「癒やし」に来ているのです。

 そう伝えてあげると、女性は私の顔と、それから薄い胸板のあたりを交互に見て「キミ歳いくつ」といった。「名前も偽名みたいだし」

 ここではそんなもの意味はないのですよと私はごまかした。

 〈ホール〉では何でも起こりえるし、何もしなくても良い。義務も仕事も存在しない。


「癒やし。ここが?」と女性。

 その答には、自分の職場を想像してもわらうとわかりやすい。


 あなたが出勤とすると職場はまったくの無人である。

 電話の音も、外からの車のエンジン音さえしない。

 空調は音を立てて機能しているかもしれないが、あなたはそれを切ってしまってもいい。

 誰もいない、何もする必要もない職場を見て、あなたは「こんなものか」と思うだろう。

 あなたはあなたの職場でいろんな感情をぶつけられたり、また自分の感情については我慢したりしたが、いざそれが必要なくなってみると、職場の敷地は、ちっぽけでままごとめいて見えるだろう。「こんな場所に人生を預けていたのか」と不思議に感じるかもしれない。


 給湯室へ向かい、誰かのティーカップを手に取ってみてもいい。

 飲み口を指でなぞって、手触りを確かめてから、地面へ叩きつけてやる。

 カップの割れる大きな音に、あなたが怯える必要はない。

 何ならもっと派手なこと――椅子を投げつけてガラスを割ってもいいし、会議室にペンキをぶちまけても構わない。

 飽きたら建物ごと燃やしてしまえばいい。

 隣のビルの屋上に立って、燃える様を眺めることだって自由だ。

 どうです? と私は二人へいった。それが〈ホール〉なのです。


 二人は心を動かされた様子を見せた。

 男女はやや離れて砂浜に座り、おたがい遠慮がちに目配せし合っている。

 私はこれが気に入らない。

 二人を隔てるのが上下関係なのか、男女の壁なのかは知らないが、バカンス楽しむためには、まずこうした浮世の義理を脱ぎ捨てる必要があるのだ。

 私は耳を貸すよう呼びつけると二人にこういった。まずはハグをして下さい。ほら早く。


「えっ」

「いやいやいやいや、なんで?」


 案の定、この社会人たちは抵抗した。

 戸惑った顔を見合わせ、それから距離を取って座った。

 こういう所なのだ。

 もっと子供の距離で楽しめなければ本当のバカンスではない。

 子供のころ、犬にハグした時の幸福感を思い出してほしい。

 同様に、子供同士でも体をぶつけ合って遊んだはず。

 そう前置きして私は演説をはじめた。烏賊焼きの棒を振り回して、感情をアピールした。


 あのころ簡単だったことが、大人になるとできなくなる。

 なぜでしょうか?

 そう社会のせいだ。

 社会は、あなた方の仕事は、時間と体力だけでなく、あなた方から温もりさえ、奪ってしまったのです。

 でもね、ここには社会なんてものは存在しないんですよ。


 最後の所では顔をよせて、打ち明け話をするような口調で念を押した。

 そして、ぜんぶ夢なんですよ。〈ホール〉には社会なんてないのです。ここでは社会なんかよりあなた方の方が強い。あなた方のための世界なのです、と結んだ。

 そう。もし〈ホール〉に社会が存在するとすれば、それは彼女らの頭の中だけにあるのだ。

 壊しましょう。その幻。


 二人は息を止めて聞いていた。

 私が演説を終えて烏賊を囓ると、二人は夢から覚めたみたいに瞬きして、顔を見合わせた。

「いや~でも、それでハグですかぁ」

 とタジマくん。彼の抵抗は先ほどより弱くなっているようにうかがえた。

 むしろ背中を押してほしそうな風情である。


 私は女性の方へ向き直ってこういった。

 さきほどからタジマくんが、あなたをいつでも受け止められるよう気を配っていたのに気づいていますか?

 あなたが貧血をおこして焚き火につっこみやしないかと心配しているのです。 

 そういわれると女性は心を打たれたようだった。

 タジマくんは照れて頭をかいている。

 私は私のでまかせが当たっていたことにちょっと驚いていた。

「この所疲れている様子でしたし」とタジマくん。


 私はそこへたたみかけて、もし社会の常識、というヤツがなければタジマくんは、すでに肩へ手を置いてあなたを支えていたでしょう、といった。

 それを妨げているものを壊してやりたいとは思いませんか?

 形だけでもいい。あなたたちが社会のしきたりを壊すところを、私に見せてはくれませんか。

 私も社会に疲れてここにいます。あなたたちが社会の下らない常識を壊すところが見たい。それは私をも「癒やし」てくれるでしょう。

 そういって待った。


 猫。

 やがて女性の方がこう呟いた。

「猫。子供の頃、猫を捨てた。父の転勤で飼えなくなって、山へ。ここの景色、あの山にちょっと似てる。あの子と一緒に寝ると暖かかった。そんなこと今まで思い出す余裕もなかった。大人になったて自立できたらら猫を飼おうと思っていたはずなのに。どうしてこうなったんだろう」


 女性は涙声になって、タジマくんへもたれかかった。

 タジマくんが応じるのは時間の問題だろう。

 見られていてはやりにくいだろうと考えて、私は席を外すことにした。

 バカンスについて尋ねたくなったら教えて下さい。焦ることはぜんぜんないですからね。ほんとにぜんぜん。ごゆっくり。そう言い置いたが、二人に聞こえていたかどうか。


 ストレスは生きる力を奪いもするが、それが爆発する際には、火山の噴火みたいに強い感情の力を発する。そういうことだ。


 日も暮れかかったころ、二人はピッタリひっついて、妙に腰回りをそわそわさせながら、報告にやって来た。

 いったい二人に何があったか、私は奥ゆかしくも尋ねなかった。

 二人はうって変わって、ここを夢の世界だと信じたがった。


「ここが夢の中だというのは正しいように思います。ええ。夢の中ってこういう感じですものね。判断力が通常と違うっていうか」

「あの。夢の中の出来事って、目覚めた時全部憶えてるもんなのかな? 完璧に」

 あなたは今朝見た夢の内容を全部憶えてますかと私が訊き返すと、二人は満足したようで、ここからは積極的にバカンスを楽しみだした。

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