第4話 メリー・メアーの火冠 4


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 悪夢は客人に憑いて〈ホール〉にやって来る。初めは姿を見せないが、じょじょに力を振るい始める。私はそれを〈悪夢の兆し〉と呼んでいる。


 例えば、魚になった夢を視ているとしよう。

 そのとき夢見る者は、ヒレを動かす順序や、エラ呼吸のやり方について悩む必要はない。すべて夢の強制力に従うだけで、魚としてやっていける。その強制力が〈夢の兆し〉だ。

 魚になった夢の中では小魚やザザムシを食べることに躊躇しないかもしれない。それも〈夢の兆し〉だ。

 夢の中で魚になりきって、現実の世界のことを忘れきっているかもしれない。それも〈夢の兆し〉だ。


 〈夢の兆し〉の力が強いとき、人は自分が夢視ていることを忘れている。

 脳髄のなかで見る夢なら、それは当たり前のことだが、〈ホール〉ではもっと具体的なことになる。

 魚の夢の例でいうなら、その客人は実際〈ホール〉を游ぐ一匹の魚になりきってしまうことになる。脳内で見るはずだった夢が、客人を飲みこんでしまうのだ。


 こう説明した上で、私は少年に尋ねる。

 〈ホール〉で何か変なものを視たり、聴いたりは?

 少年は首を横に振った。

「悪夢といわれても……」

 彼の悪夢はまだ姿を見せていない。

 私は〈ホール〉に慣れているので、他人の悪夢もわずかなら捕まえることができた。

 都合の良いことに羽織の中には小箱がひとつある。それと、日頃から手首に巻いていた赤紐を解く。

 動かないで下さいねといって、私は背後へまわり、彼からは見えない、うなじのところで作業を完了した。


「それは――箱?」

 少年は不思議そうにして、私の手に乗った小箱を眺めた。中のものが、幽かに箱を揺らしていた。

 彼の悪夢を、ほんの一部だが中に閉じこめたのだ。赤紐で封をしてある。かつて、あるものと取引して得た特殊な紐だった。

「悪夢……その中に?」

 少年は自分の首を確かめるようにさすった。


 ただし、私はサンプルを取ったに過ぎない。これで〈悪夢の兆し〉が抑えられるわけでもない。

 悪夢は依然、力を増し続けている。そろそろ〈ホール〉に姿を見せはじめるころだった。

 その時、まさしく我々のすぐ側、自販機の影から声がした。


〈組合会長さんあんなこといってねぇ〉

〈おばあちゃんの面倒だって見られないだろうに〉


 少年が身を強張らせる。もしかしたら、聞き覚えののある声だったのかもしれない。

 他の人間がいるわけではありませんよ、と私は先回りしていった。

 その証拠に、こちらに気づかれても、影たちは話をやめない。声の主は悪夢の一部であって人格は存在しないのだ。つけっぱなしのラジオみたいなものだ。

 自動販売機をまわりこむと、声の主が見つかった。

 横からの灯りに照らされながら、人間大のぶよぶよしたものモノが、ぺちゃくちゃ話し続けている。


〈でも健三さんも悪いよ〉

〈盗んだっていってもねえ〉


 それは顔も指もない。かろうじて肩の輪郭がわかる程度の不定型な姿だった。

 子供の粘土細工に水をかけて溶かしたかのようだ。

 そんな二つの不定型が、我々に気づいたかのように、こちらを向いた。大丈夫ですよ。と私。人間並みの知能はありませんから。

 その言葉を裏付けるために、私は不定型なモノへ足払いをかけた。「きゃあ」と、声だけは人間らしく悲鳴を上げて、そいつは転んだ。

 少しすると何事もなかったように起き上がって、また話し続けた。


〈してあげられることは、もうないねぇ〉

〈ほんと、身内じゃなくてよかったよぉ〉


 つまり、こいつらはあなたの悪夢に出てくるモブキャラといったところなのだと私は少年へ説明した。

 夢モブは、時に人間そっくりの姿にもなるが、人ではなく、知的に振る舞うこともあるが、そう見えるだけで自我は存在しない。当然、自分が何者なのかも、ここが〈ホール〉であることも理解しない。働き蟻のように、与えられた役をこなすのみである。


「つまり、夢を見ているということですか……見て触れる、夢……」

 少年は息をのんで、自動販売機の灯とノイズの中に蠢く不定形を眺めた。

 問題は〈悪夢の兆し〉は我々をこの不定形たちのような存在にしてしまう。先ほどの魚の夢の例えはこういうことなのだ。


 〈悪夢の兆し〉が極まった時、客人は人間性を完全に失う。そうなると、自分が何者なのかも分からなくなる。

 夢の登場人物に成り下がってしまうのだ。取り殺されるとはそういうことだ。


 これがただの夢ならいい。

 しかしここは〈ホール〉である。我々は脳髄を出て〈扉〉を使い、此所へやって来る。

 人間性を失った者はこの〈扉〉を扱えない。現実の世界や〈扉〉について思考することもできなくなるからだ。

 つまり〈ホール〉から帰還できなくなってしまう。自分が何者かも分からなくなったまま〈ホール〉を彷徨うことになる。


「ああ……それは……確かに、悪夢だ。まるで現実世界のように、地獄だ」

 少年は夢モブたちを振り返ると、青い顔でそう呟いた。

 我々は、だから〈悪夢の兆し〉が弱いうちに脳髄へ帰らなければならない。

 そのために〈扉〉が必要なのだ。

 〈扉〉は悪夢と同様、客人の精神を反映した形をとる。私の場合はゴミ車だ。

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