5 Ya'aburnee/先になくなりたい

 5 Ya'aburnee/先になくなりたい



どれくらい経っただろう。どれくらいの時間が流れたのだろうか。結菜にはわからなかった。トイレに時計はなかった。彼女が時間を知る術はない。嫌な匂いとも感じ取れるその空間はどこか落ち着きも与えた。外で何か引きずる音がする。それは彼女が絶望している最中の出来事だった。ゆっくりとドアノブが捻られ、音を立てずドアが開いた。見えない透明な何か。カフカだった。


『時間になっても来ないから、もしかしたらって見にきたんだ』


その文字は優しかった。結菜の目から涙が溢れ出した。今まで我慢していた涙だった。


「わたし……わたし……どうしようもなくて……」


結菜は声を絞り出した。カフカはゆっくりと抱きしめた。彼はやはり暖かかった。心の内から暖かかった。


「何してる?」


声が聞こえた。結菜の体が縮こまるがそれは一瞬だった。反抗の目をしていた。義父を睨みつけた。


「おい、結菜。そこに誰かいるのか? 早くこっちにきなさい」


義父は彼女の目に気づいていなかった。彼は一度も彼女の目を見たことがなかった。結菜は台所に置きっぱなしになっていた包丁を手に取った。


「お前なんか……」

「おい、なんでそんなもん持ってる?」


刺す。それだった。それしかないと思った。それが解放だと思った。それが救いだと思った。走り出した。狙いは一つだけだった。目の前にいるクソッタレ。それに刃を向けた。だが包丁が握られた手は空中で停止した。何かに阻まれた。カフカの手だった。


「なんで」


彼女は手に持っていた包丁を落とした。彼女の目から涙がこぼれ落ちる。義父は彼女の腕を引っ張り、そばに寄せた。


「やめて、離して」


「うるさい! お前は黙ってろ! そこにいるのは誰だ!」


義父は結菜の腕を離さず、目の前の何かに怯えていた。


「一歩でも近づいてみろ! 警察呼ぶからな!」


近くにあったテレビのリモコンを棍棒のように持ち、威嚇した。それは身を守るには心許ないものだと義父もわかっていたが他に武器を探す時間がなかった。結菜は掴まれた腕を振り払おうとしたがその度に義父は強く握った。

カフカは自分を助けてくれるだろうか、その不安が募る。目の前にいるはずなのにいない気がする。彼女の心は決壊寸前だった。彼女は耐えきれなかった。だから叫んだ。そこにいるかもしれない透明人間に。


「私を攫って透明人間!」

「透明人間? 何を言ってる?」


義父は結菜の言葉が理解できなかった。それと同時にキッチンに置いてあった皿が何枚か義父に向かって飛んできた。


「クッソ、何なんだ。怪物め!」


義父は結菜の腕を離し後ろに倒れ込んだ。結菜は先ほど落とした包丁を拾い上げ、義父に馬乗りになり、振り下ろした。


「待ってくれ!」


義父が彼女を制止しようとするが間に合わない。カフカも咄嗟に彼女に手を伸ばしたが届く距離ではない。包丁の刃が義父に迫る。鈍い音がした。それは刺さっていたが、義父には刺さっていなかった。

倒れている義父の顔まであと十センチメートルほどの床に刺さっていた。義父は失神していた。カフカは安心からかため息をついた。包丁を突き刺したまま結菜は立ち上がった。


「私はもう断ち切ったの。だから、ねぇ飾ってよ透明人間。不幸な私を攫って透明人間」


カフカは咄嗟に結菜の手を握り走り出した。階段を勢いのまま駆け下り、一直線の道路を走り出した。そこは二人だけの世界のように感じた。結菜は自然と笑みが溢れ、カフカを超えて走ってゆく。二人は息が切れても走り続けた。カフカは気づいた。狭く高い塀が立ち並ぶ交差点に差し掛かったところで。角から結菜を照らす光の正体を。結菜は気づいていない。カフカは持てる限り全力で走った。


「邨占除!」


日本語ではない、どの言語にも属さない言葉がカフカの口から飛び出た。結菜は振り返った。そこには自分を押すカフカの姿があった。押されて吹き飛ぶ。そこを車が通過した。ゴンッと音が鳴った。数メートル先で車が止まり、窓が開いた。


「おい! 危ねぇだろ!」


運転手はそう怒鳴ると走り去って行った。結菜はその車を目で追いながら腰を抜かしていた。だが数メートル先に誰かが転がっているのがわかった。それだけは理解できた。


「カフカ!」


結菜は何もないところに駆け寄った。カフカは気持ちの整理がついていなかった。元々好きになる予定なんてなかった。ただ匿っただけだった。それがこんなにも美しい感情へと変わるとは思っていなかった。目から大粒の涙が溢れる結菜が見える。

まだ死にたくない。彼女とまだ一緒にいたい。その気持ちがカフカの体に鞭を打った。高鳴った心臓の鼓動は安定し始めた。


「あぁ、神様。私はあなたを一度否定しました。でも今だけは今だけは、あなたを信じます。だから……」


結菜は天に仰ぎながら言った。人は頼るものがなくなった時、天にいる存在に助けを求めるものだと彼女は悟った。今の自分のように。結菜はカフカの顔であろう場所を撫でた。


「あなたが先に死んじゃったら、私は耐えられない。それならあなたより先になくなりたい」


誰もいない交差点で結菜は泣くしかなかった。血は見えない。それが彼女をさらに混乱させた。


「約束したじゃない。私の人生を飾ってよ。ねぇカフカ笑って、お願いだから笑って。そんな悲しい顔しないで」


カフカは口角を上げた。だがそれは結菜には見えない。


「死んじゃいやだよ。透明人間」

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