第6話 忌まわしき過去(4)

 崖下に落ちていくタカトの体。


 とっさにタカトはその小さな右手を母へと伸ばす。


 しかし、母には届かない。


 深くなりゆく暁の空。


 空を切る右手の先に映ったものは、魔人の腕で首を吊し上げられた母ナヅナの姿だった。


 落ちていくタカトの体は、幸運にも崖の途中に生えていた木々たちによって受け止められた。

 しかし、幼子といえどもその落下の勢いはかなり大きい。

 次々と支える枝をへし折って、地面で生い茂る深い緑のクッションへと突っ込んだ。


 すでに母がいた崖先はかすんで見えない。

 それほどの高さ……


 おそらくだれも幼きタカトが生きているとは思うまい。

 あの獅子の顔をした魔人でさえも。


 だがしかし、タカトの母親は信じていた。

 必ずタカトは生き残ると。


 そんなタカトの落ちた茂みに一人の女が急ぎ駆けよってきたのだ。

 それは金色の目と金色の髪を持つ女である。

 そう、タカトのまぶたに浮かんだお姉さん、その人であった。


 金色の目は神の証。

 すなわち、この女は神である。

 だがなぜ、女神が運よくこの近くにいたのかは今はひとまず置いておこう。


 女神は茂みを懸命に掻きわける。

 必死の形相で枝葉を次々と掻きちぎる。

 ついに茂みの奥に沈んだタカトを見つけ出すと、その腕をつかみとり緑の深海から引きずりあげた。

 いびつな方向に曲がるタカトの腕。

 一見して、手や足などの骨が折れていることはすぐに分かった。


 ゲボォ

 タカトの口から胃にたまった血が噴き出された。

 途中の枝で切り裂いたのであろうか、脇腹は大きく口を開け中から腸がはみだしている。


 女神はタカトを膝に抱き、腸がはみ出る脇腹を懸命に押さえ続けた。

 しかし、とどまるところを知らない血の勢いは押さえる女神の手の隙間からあふれ出していく。

 いつしか女神が身にまとっていた白き衣装は真っ赤に染めあげられていた。


 徐々に冷え行く小さき体。

 タカトの首すじを支える右腕からは女神自身の体温が奪われていく。


 刻一刻と迫りくる死。

 どうしようもない無力感が女神の心を覆い尽くしていった。

 その無力感は徐々に肥大する。

 ついには今まで感じたことがない恐怖へと成長していた。


 まるでその恐怖は、死神がすぐ後ろに迫っているかのような冷たい感覚。

 女神の肩越しから伸びる長き柄を持つ死神の鎌が膝の上のタカトに向かってゆっくりと伸びてくるような感じがした。

 冷気漂う蒼白の刃がタカトの命を刈り取ろうとするかのようにおさなき首筋に当てられる。

 ――ダメ!

 そんな死の誘いを拒むかのように女神は強くタカトを抱きしめた。


 震える女神は、タカトの目が力なく開いていることに気がついた。

 女神は顔を近づけ必死に励ます。


「この身がどうなろうとも……必ずあなたを助けます……もう二度と……あなたを失わない……ア」


 そんな意識が消えゆくタカトの左頬を、女神のふくよかな右胸が優しく温めてくれていた。

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