第38話 回復(リハビリ)35 母
「お腹、大丈夫? それだけで足りるの?」
「たくさん食べると、すぐ肉になるようになっちゃって。年かなあ」
薬子がそう言うと、法子は笑った。
「あんたが年ならあたしは何なのよ。過度なダイエットは体に悪いわよ。それより、ゆっくりよく噛んで食べる方が体にいいらしいわ」
基本かつかつの生活をしているから、小食を心がけるようにしているとは言えなかった。本当のことを隠したまま、妙な沈黙が流れる。
「他に何か手伝うことある?」
「ないわよ。林檎があるから、食べたかったら自分で切って」
法子がゴミを片付ける音が台所に響く。雑用をこなしながら、薬子は胸の中に感情がもやもやとたまっていくのを感じていた。
「ああ、そうだ。言ってた整理なんだけど。明日帰るつもりなんだったら、もう今日中に見てしまってくれない?」
法子が薬子を振り返る。
「いいよ」
薬子がうなずくと、法子は先に立って二階へ上がっていった。
「これよ。要る物があったら、出してちょうだい」
二階の廊下の奥に、いかにも今まで放置されていましたというような、古びた段ボールが積んである。薬子は中身を確認していった。
「うわ、これ全部ビデオテープ? もう再生なんてできないんじゃないの」
「よくとっておいたわよね、そんなもの」
「全部いらなければ、そのまま蓋を閉めとくね」
それでいい、と法子は言った。子供の頃によく見ていたアニメ映画のタイトルを懐かしく思いながらも、薬子は蓋を閉じる。
「そっちに汚い服があるから、見てくれない? もうゴミだと思うけど、一応薬子に見てもらってから捨てようと思って」
無邪気だった頃に着ていたTシャツやトレーナーが、変色して段ボールに積み重なっている。判断を任されたが、何一つ使えそうなものはない。薬子は出した服を、全て段ボールに戻した。
「終わったら行くわよ。ここ、寒いんだから」
「あ……」
立ち上がった法子に、薬子は一瞬しがみつきそうになった。
「なに? 具合でも悪いの?」
薬子は両手を胸の前に構え、息を吸った。ここで言うのが、最善だという気がした。──万一の時、すぐに自分の部屋に逃げこんで、出て行く準備ができるから。
「ちょっと待って」
その声に気づいた法子が、顔を上げる。薬子は大急ぎで、最初の一言を放った。
「……私、仕事、もう辞めてるの」
そこで一旦、言葉を切った。色々な感情が入り交じって、薬子の中でぐるぐると渦巻いている。
「え?」
法子が首をかしげ、戸惑っている。薬子は身を乗り出して、絶句する母にさらに言った。
「今、ニート。精神科にも行った。適応障害の初期かもしれないって」
それを聞いた法子は、きょとんとしている。何が起こったのか分かっていない様子だ。──しかし、それもわずかな間だけだろう。信用していたのに、裏切られた。なんて無能な娘なんだろう。法子ならそう思うはずだ。
終わりだ。何もかも終わった。そう思って座ったままうつむく薬子に、声がかかった。荒げられたり取り乱している様子はない、落ち着いた声。
「何か困ってるんだろうな、とは思ってたけど……そんな事態になってたの」
それを聞いた薬子は唖然とした。まさか、バレているとは思わなかった。
娘の顔を、法子は正面から見る。
「去年の五月くらいから、あんたの電話の声がおかしかったからね。なんというか、覇気が無い感じで」
薬子は思わず身を乗り出した。
「……無理してたの、分かってたんだ」
「親子だからね。あんたがどういう状態か、察するくらいの耳は持ってるわ。ただし、すでに辞めてたとは知らなかったけど。……本当はそれが言いたくて帰ってきたの?」
法子の口調は、思った以上に柔らかい。薬子はうなずいた。
「何されたの。あんたが後先考えず辞めるなんて、何かあったとしか思えないわ」
薬子は口を開き、ぽつぽつとことの経緯を語った。
昇進してから、実力以上の仕事を求められるようになったこと。
最初は頑張ろうと思っていたが、人員が減って一気に仕事が増え、さばききれなくなったこと。
最後には助けてもらうどころか、本格的にパワハラモラハラが悪化して、逃げ出したこと。
今まで法子には話せなかったことを、全部ぶちまけた。エージェントにも遠慮して言わなかったことも、本当に全部。
長い話を聞いた法子は、顔色を変えた。
「なんなのそのクソ上司。怒鳴り込んでやりたいわ」
「まあ、私も気が利かないところはあったし……」
「それは知ってるわよ。でも、そういう部下を使うのも上司の勤めじゃないの」
薬子はうなずく。まだ法子は顔を般若のようにして怒っていた。その様子を見て、薬子の溜飲が少し下がる。
「でも、ごめんなさい」
「ちょっと、分からないんだけど。何を謝るのよ。辞めたこと?」
「……それもそうだし、この年になってお嫁にも行ってないし」
切なげに薬子が言うと、法子は笑った。
「嫁は知らないけどね。あんた、よくやったじゃない。それでいいのよ」
「へ?」
褒められて、薬子はあっけにとられた。本当に、法子は話の内容を理解しているのだろうか。
「別に今の時代、なにをしたら正解で、絶対幸せになれるなんてものはないじゃない。大事なのは健康よ。たかが職場のために体をすり減らしたところで、誰が責任とってくれるの?」
「……別に、誰も」
「でしょう? だから、あんたがそこを辞めたのは正しかった。私はそう思う」
「本当に?」
まだうつむく薬子に向かって、法子はきっぱり言った。
「負け戦をズルズル続けるのが一番バカなのよ」
「……でも、今はどうしたらいいのか」
法子はそれを聞いて笑った。
「言われないと分からない? 今は休みなさい。それしかないでしょうが、病み上がりなんだから」
「でも、早く仕事をしないと」
「あんたは誰かと競争でもしてるの?」
そう言われて、薬子は別に、とつぶやくしかなかった。
「ちゃんとした資格もあるんだから、どこにも仕事がないってことはないでしょう。一生ニートでいるのを許すつもりはないけど、あまり悲観的にならないことね」
決してとっつきやすい人柄ではない。かわいそうだと言ってくれるわけでもない。しかし自分と同じではない意見が、薬子には新鮮だった。
「で、お金は大丈夫なの? 貯金はちょっとはあるの?」
「数ヶ月生活していけるだけなら、十分」
「そう。じゃあ、どうしようもない状態ではないわね。めったなことがない限り、大丈夫でしょ」
打つ手がないと思っていたのに、法子はそれをましな状態と言う。
薬子は過敏になりすぎていたのだ。不安と、落ちたショックが重なって、勝手に自分は終わりだと思い込んでいた。世の中で自分が一番不幸なんだと思い込んでいた。それはなんて、惨めなことだったのだろう。
特に諭されたわけでもないのに、薬子の中で何かがすとんと附に落ちた。
「周りの人間が何もかもやってあげるわけにはいかないけれど、職場なんて日本中に腐るほどあるわよ。なんなら、資格が全くいらない別の仕事をしたって構わないんだし。むしろ、そっちの方が向いてるってこともあるんじゃない? 以外と大物になるかもよ、あんた」
よく考えれば、法子の言うことの方がまともだった。人生には波がある。辛い状況がずっと続くなんて、いったい誰が決めたのか。自分を責めるばかりで、どうして今まで気づかなかったのだろう。
「ひとりじゃないんだから、困った時はみんなに相談しなさい。みんなで考えて、必ず助けてあげるから」
「……わかった」
何も難しくはない。こんなに簡単なことだった。
笑いたいのに、両の目から涙が溢れてくる。もう大丈夫だと言いたいのに、喉から出るのは嗚咽だけだった。法子は泣く娘を、黙って見ている。下手な慰めより、その視線が嬉しかった。
法子は単純な「いい人」ではないし、理想の親子関係ではきっとない。それでも、この恩はいつか返さなくてはならない。薬子は真剣にそう思った。
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