第35話 回復(リハビリ)34 職探し

 年が明けて、二月に入った。


 月のはじめ、いつものようにネットで無料動画を見ていた薬子やくこは、ひとつの動画から次にうつろうとしていた。


 広告をスキップしようと身構える。こういう無料動画サイトでは、もうつきもののようになっていた。


『薬剤師の転職なら弊社にお任せ下さい! 豊富な実績で知られた当社は──』


 何気なく見ていた薬子は手を止めた。その広告をクリックしてみると、会社のトップページに飛ぶ。そのまま申し込みもできるようだった。


 薬子は一旦はそのページから離れた。しかし、反応を示したからか、その後は動画を再生するたびにその広告が流れるようになる。


 接触する回数が増える度に、薬子もだんだんその気になってきた。


「まあ、いい機会かもなあ」


 薬子は小さな声でつぶやいた。


 どうせ年が明けたら始めるつもりだったのだ。今からやって、悪いことは何もない。薬子はようやく重い腰をあげた。今までできなかったことだ。少し長いリハビリだったが、そろそろ終わらせよう。


 薬子はパソコンに向かった。大層な手続きはいらない。会社のトップページから、名前や電話番号を入れて登録するだけだ。登録するとすぐに、会社から連絡が来る。詳しい話を聞きたいから、面談の機会を設けてくれというのだ。第一関門は無事に突破した。


 それから数日後、薬子は街中を歩いていた。駅を出て北へ行くと大通りがあって、有名企業の支社が軒を連ねている。その一角に、薬子が登録した人材登録会社の事務所があった。


 一階で待てと言われていた薬子はビルの中を見渡す。間もなく、エレベーターの中からスーツ姿のエージェントが出てきた。


「本日はお忙しいところ、ありがとうございます。こちらへどうぞ」


 エレベーターで事務所まで上がる。会社内はとても静かで、受付に人すらいない。だから、何人社員がいるかはまるで分からなかった。数人入ったら一杯になりそうな小さな会議室で、薬子はエージェントと向かい合う。


「紹介会社をご利用になったことはございますか?」

「はい。こことは違うところですが。こちらは相談の実績も多いとお伺いしたので、話だけでもと」


 薬子が言うと、エージェントはうなずいた。


「うちは紹介業の中でも優良企業ということで、厚生労働省から認可をもらっていますからね。少ないんですよ、そういう会社は」


 堂々としたエージェントの様子を見て、薬子の不安も少し和らいだ。


「では、少し登録の際にお伺いしていますが……改めて質問させてください」


 エージェントは薬子の辞めた理由を知りたがった。当然のことだが、薬子は言いよどむ。結局、かなりオブラートに包んで人間関係の問題と言っておいた。せめて、パワハラまがいの扱いとでも言っておけばよかったか。


「それは大変でしたね。実際、そういうお悩みはよくあるんですよ。ですが、青海さんはなかなか転職回数が多い。今度はそういうことがないように気をつけるべきですね」

「は、はい」


 薬子もそれは分かっている。転職は、今回で最後にしたい。


「こちらでいくつか選んでおきました。薬局長の人柄も見込んで、ピックアップしてあります。時期がいいので、けっこう求人が出ています」

「時期?」

「ご自身で意識されて、この時期にされたのではないのですか?」

「いえ」


 薬子は正直に答えた。


「ボーナスをもらってやめる人が多いので、人数が減っていますからね。ただ、四月になるとやはり新卒が入ります。全部の薬局ではないですが……求人が減るので、その前に動いていただくことをおすすめしています」

「なるほどなあ」


 薬子は不利な立場なのだから、少しでも勝算があるときに動くべきだ。今動くことにして、良かったのかもしれない。偶然だったが、ラッキーだった。


「では、各薬局の特徴ですが……」


 エージェントは詳細な話に入っていく。どんどん詳しくなり、時間も長くなっていくが、薬子は安心していた。こういうサービスは、利用者側は全て無料だからである。


 無料ならばろくに世話もしてくれないのでは、と思われるかもしれないが、これにはからくりがある。ちゃんと金は動いているが、利用者がそれに噛まないだけなのだ。


 仲介会社は契約が成立したら、その人の年収分から何割かを手数料としてもらう。そうやってお金を得るという仕組みだった。決して胡散臭いとか、ボランティアとかそういうものではない。企業にしか出来ない、純粋なビジネスだ。


 もちろん紹介した人間がすぐやめてしまうケースもあるが、その場合は企業からの手数料が大きく減ってしまう。だからエージェントは、この人ならこういうところが合うだろうと読んで、合いそうな企業の情報を持ってくる。


「今、薬局の正社員で求人が出ているのはこのあたり──通勤距離は三十分弱で、どれも同じくらいですね」


 特に薬局薬剤師がやりたかったわけじゃない。正直、トラウマがあるので逃げ出したいくらいだ。しかし、未経験の職種に応募するのはそれ以上に怖すぎた。警戒した薬子は、結局安全パイを選んだのだ。


 事実、それで良かった。他職種はなかなか求人が出ないらしい。薬局に次いで多いのは病院だそうで、エージェントはそちらの求人も一つ持ってきていた。


「ご興味ありましたら、こちらも受けられますよ」

「病院の経験はあんまり……」


 薬子は不安をにじませながら答えた。一年ほど在籍はしていたが、元気いっぱいに引き受ける気分にはなれない。


 結局、迷ったあげく、提示された中から一つ選んで受けてみることにした。だいぶ絞ったのでエージェントは不満そうだったが、最初なのだからあまり欲張りたくはなかった。


「では、必要書類ですが。写真付きの履歴書と、職務経歴書の準備をお願いします」

「し、職務経歴書ですか?」


 薬子の意識が一気にそこへ持っていかれた。


 自分が今までやってきた仕事、役職、業績。そういうものをまとめて書いて、企業にアピールするための書類を職務経歴書という。薬子はそんなもの、今まで書いたことはない。早々に逃げ出したくなった。


「私、そんな名のある役職もやってませんし……」


 ほとんどが平社員、いい年だが管理職になった期間はかなり短い。短期間でやめたので、仕事内容すらよく覚えていない会社もある。薬子のキャリアはそれが全てで、詳細な書類が作成できるとは、とても思えなかった。


「大丈夫ですよ。こちらでひな形をお渡ししますから。それにきっちり書いていただければ、全く読んでもらえないものにはならないはずです」


 混乱する薬子を見て、エージェントは笑った。


「でも……」


 これといったキャリアのない薬子は抵抗してみたが、今はどうしてもいるのだと押し切られてしまった。


「メールでひな形はお送りしますので、作成して返送してください。よろしくお願いします」


 大きな宿題をもらって、やっと面談は終了した。


 家に帰り、パソコンに向き合った薬子は口をへの字にして、大して優れてもいない自分のアピールを書き連ねる。すぐに埋められるのは勤めた年数くらいで、長所をひねり出すのに本当に苦労した。


 ろくなことがない。世の中、変な風に変わってしまったものだ。


 しかし、時代が進むといいこともあった。履歴書がコンピュータ作成でもよくなっていたのだ。新卒時代には、返却されない履歴書をいちいち手書きで書くのに泣きそうになったものだが、今は違う。


 しかしそれでも、全ての書類が完成した時には深夜になっていた。


「つ、疲れた。でもこれで終わりじゃないんだよね……」


 何度か見返して、エージェントに送る。やるべきことを終えた薬子は、泥のように眠った。


 数日のうちに添削されたものがかえってきた。やはりプロから見るとボロボロの書類だったようで、いくつも訂正が入っている。薬子はその指示に従い、なんとか見られる書類を作り上げた。


 そして今日はとうとう、紹介された会社の面接日。


 意地だけで薬子はスーツに体をねじこんだ。どっちみち、面接を受けて内定を得る以外に、この生活から抜け出す方法はない。かなり面接の練習もした、きっとなんとかなるはずだ。


 約束の場所に行くと、エージェントがもう到着していた。灰色のスーツに身を包んだ彼は、薬子を見て手を上げる。


「おはようございます。調子はいかがですか?」

「いやあ……受かる気がしないです」


 薬子は思わず本音を吐露する。するとエージェントが苦笑した。


「最初からそれでどうするんですか。大丈夫ですよ、私も一緒に行きますから。いいですね?」


 薬子はうなずいた。戦うと決めたのは自分だ。敵前逃亡だけは、したくない。


 今日受けるのは、大きな通りから少し入ったところにある路面店。上の階が医療モールになっており、そこを受診した人が主に訪れる店だ。


 入ってきた薬子たちに、受付の事務員が視線を投げてきた。年は四十代くらい。細面で、やや気むずかしそうな顔立ちだ。それでもいい人だと無理に思い込んで、薬子は笑顔を作った。


「面接をお願いしていたのですが……」

「ああ、ちょっと待って下さいね。薬局長を呼びます」


 事務員が奥に消える。固く拳を握る薬子に、エージェントの視線が注がれた。

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