第4話 回復(リハビリ)3 蜂蜜

「お姉さん! 魚が安いよ、寄っていって!」

「あ、あの……また、今度で」


 薬子やくこはややひきつった声で答えた。言い方には気をつけたつもりだが、声が震えて不自然な感じになるのは否めない。


 仕方無いのだ。ここは百貨店。いくら安いと言っても、スーパーよりお値打ちなはずはない。薬子はできるだけ無愛想な顔をして気配を消し、店員の視界に入らないようコソコソ移動した。


 値段に怯えるくらいならば百貨店になど来なければ……と誰もが思うだろう。だが、今日はどうしても買わなくてはならないものがあるのだ。


「退職の挨拶、手ぶらってわけにはいかないもんね……」


 今月末で正式に退職するとき、手土産として持っていかなければならない菓子を買いに来たのだ。


 薬子はようやく支払いをすませた。金、二千円+税なり。これから無職になる身には痛いが、それですんなり解放してもらえるなら安いだろう。最後まで舐めた対応をとられ、「あいつは何もしなかった」とねちねち言われたらたまったものじゃない。


「さて」


 用は済んだ。大した時間はかからなかったため、時刻はまだ午前十一時。どうしようかな、と薬子はのろのろと広いデパ地下を歩き回った。


「ん、蜂蜜?」


 狭い棚にぎっしりと、たくさんの瓶が並んでいる。色は薄い黄色から、銅に近い濃い色まで様々だ。薬子は忍び足で棚ににじり寄る。


「へえ、みかんの花からも取れるんだ……こっちの黒いのは蕎麦の花……」


 蜂蜜は一種類しかないと思っていたが、色々な花からとったものがあるらしい。中には花が咲いているところが想像できないものもあって、結構面白かった。


「ご試食もできますので、是非どうぞ」


 夢中で見ていたら、いかにも敏腕そうな店員に捕まってしまった。ずっと瓶を凝視しておいて、いらないとも言えない。薬子は店員に向かって、声をかけた。


「い、一番定番のものって、どれですか?」


 陳腐な質問をしてしまったことを恥ずかしく思い、薬子は軽く身じろぎした。


「それでしたら、アカシアの花のものでしょうか。さらっとしていて、使いやすいですよ」


 薬子が素人なのはすぐに分かっただろうが、店員はにこやかに一角を指さした。


「どういう用途でお使いかにもよりますが」


 薬子はそう問われて、頑張って想像してみた。


「うーん、ちょっと喉がいがいがするので、寝る前に舐めるかな……」

「それでしたら、アカシアは滑らかですのでおすすめですよ。殺菌作用をお求めでしたら、マヌカハニーがおすすめですが」


 なんでもニュージーランドに多い、マヌカという木の花からとった蜂蜜だそうだ。通常の蜂蜜よりも抗菌力が強く、その抗菌力の指標になる数値もあるという。


「食品と言うより、本当に薬みたいですね」


 店員の案内につられて、薬子はそのマヌカハニーの瓶をのぞきこんだ。ついでにちらりと、値札が目に入る。一番安い百グラムほどの瓶で、おひとつ税込み六千八百円なり。


 はい、無理。選べるはずがない。


「勉強になりましたけど、そこまで調子が悪いわけじゃないので……普通のを見せてもらえますか?」


 いけしゃあしゃあと嘘を言い、薬子はマヌカハニーから遠ざかった。……もし就職できたら、また会いに来よう。


「さようでございますか。うちはアカシアだけでも二種類ございますが、いかがいたしましょう」

「ええ……」


 聞いてみると、秋田産とハンガリー産、二種類あるそうだ。


「でも、花が一緒なら味も一緒ですよね?」

「いいえ、味も違いますよ。試食してみますか?」


 国産と外国産、という違いだけではないらしい。それでも半信半疑の薬子の前に、蜂蜜の試食セットが置かれた。使い捨ての紙スプーンと、開封された蜂蜜の瓶が並んでいる。


「まずは秋田からいきましょうか」


 すくわれた蜂蜜は、薄い金色をしていた。濁りや内包物は全くなく、飾りっ気のないスプーンにのっても美しい。試食とはいえ、スプーンの前の方をしっかり埋め尽くすようにのせてくれた。


 口に含むと、贅沢な香りがすっと花を通り抜けていった。甘さが後を引かず、さわやかな感じがする。もったいなかったので、薬子はいじましいと思いつつ最後まで舐めつくした。


「美味しかったです」


 薬子が褒めると、ハンガリーの蜂蜜が匙にのってきた。こちらの方が濃い黄金色をしていて、まるで別物のように感じる。握った匙を口の中に入れ、蜂蜜を滑り込ませると、味も別物のように濃厚だ。


 ゆっくりそれを味わって匙を捨ててから、微笑んでいる店員に向き直る。


「どっちもいいですね。でも、なんでこんなに味が違うんですか? 同じ花なんでしょう」


 すると、店員は説明を始めた。


 いわく、国産と外国産の味の違いとなるのは環境の違い。一般的に蜂蜜は水分が少ないほど美味しいとされているが、日本は湿度が高い。要するに、日本は蜂蜜の産地としては恵まれていないのだ。そのハンデを埋めるため、水分基準は国産の方がゆるく設定されている。


「でも、ここは国産蜂蜜も結構置いてますよね」

「ええ、それは」


 しかしそれでも、国産蜂蜜が好まれるにはワケがある。外国産だとどうしても輸送中の温度変化や、品質を保つための加工などで味が変わってしまう場合がある。よりフレッシュな軽い感じを求めるなら、国産も十分選択肢に入るということだ。


「知らなかったです。参考になりました」

「いえいえ。で、どちらをお求めになりますか?」

「ええと、どうしようかな……」


 目を泳がせる薬子を見て、店員が笑った。


 いっそ両方、と思ったが、それは理性で思いとどまった。どちらも美味しかったので、安い方を選択し会計してもらう。


「ありがとうございましたー」


 店員に見送られながら外に出てみると、秋晴れで天気が良かった。青い空に、白い飛行機雲が伸びていて、ちょっと得した気分になる。薬子と同じように、何人かが顔をあげて雲を見ていた。


「歌ってみようかな」


 もう五年ほど、カラオケにも行っていない。それなのに何故か急に歌いたくなって、薬子は小さく鼻歌を歌い出した。秋の日射しが、そんな薬子にも注がれている。


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