朝の聖句は虚しく響き

 翌朝、差し込む日の光を眺めながら、私は夜のことを思い起こしていました。聖なる日曜日であるというのに、寝覚めの悪い朝です。

 昨夜の侵入者は、その後特に何をするでもなく帰っていきました。ですが小屋の入口近くには大きな血の汚れが残り、労働者たちもすっかり怯えきってしまいました。農作業に支障が出なければよいのですが。

 溜息をつきつつ、寝間着を脱いで着替えます。上質な麻の肌着と長衣は、湿り気の多いキューバ島の夏には欠かせません。

 さて、司祭の従者として、一日最初の勤めは朝の祈りです。師が暮らす棟の隣、熱帯の木で丁寧に作られた小さな聖堂へ、私は足を踏み入れました。

 そこで、私は目を瞠りました。


 聖堂の最奥、十字架の前で師が跪いていました。

 入ってきた私にも気づかぬ様子で、師は一心に何かを唱えていました。

 いえ、耳を傾けてみると、それは祈りではありませんでした。


「……私は、罪を犯しました」


 血を吐くような、告白の言葉でした。


「目の前で罪なき者が殺されるのを、私は救うことができませんでした。死にゆく者の魂を神の教えで救うことも、できませんでした」


 声色自体は静かでした。しかし言葉の端々に、悔いと痛みとが滲んでいました。


「私の言葉は彼らに届きませんでした。神の救済を拒む者に、私は何が――」


 そこでようやく、師は私に気付いたようでした。振り向いた顔に、青黒い隈が濃く浮いていました。


「司祭様……あれから、お眠りになられましたか?」


 その問いには答えず、師匠は私の目を見据えました。


「ペドロ。昨夜あなたはなぜ、あのようなことを言いましたか」

「改宗しなければ殺される、と教えたことでしょうか」


 師は頷きました。


「死への恐怖を盾に改宗させたとして、何の意味もありません。本心からの信仰でなければ、神の救いは得られないでしょう」

「ですがあの場で、そのような時間はありませんでした。それに恐怖というなら、我らの労働者たちも同じようなものではありませんか」


 何の気なしの言葉でした。

 ですが師は、やにわに目を見開きました。そして声も出さないまま、その場に立ちつくされました。

 しかしそうではないでしょうか。農場で働いているインディオ労働者たちは、確かに日々この教会に祈りに来ます。ですが彼らは、そうしなければここにいられないのです。師も昨夜おっしゃったように、寄託エンコメンダールの条件は「先住民の教化と保護を条件に、その統治を委任する」というもの。神に祈れば食事をもらえる、寝床をもらえる、だからこそ彼らは祈っているのではないでしょうか。


「どうかなさいましたか?」

「……私は」


 視線を宙に泳がせながら、師は絞り出すように言いました。


「彼らに日々、神の教えを説いてきました。彼らの魂を救っているつもりでいました。ですが――」


 師はふたたび黙り込みました。

 聖堂の窓から差し込む清らかな朝日が、私たちを照らします。日差しが強くなるほどに、師の顔に刻まれた隈が濃く浮き立ってくるように、私は感じました。






 しばらくすると農場のインディオ労働者たちが、一人また一人と聖堂にやってきました。今日は休息日ですから、彼らも労働は行いません。彼らは聖堂内の簡素な椅子に座り、静かに頭を垂れて日曜礼拝の開始を待っています。

 入ってくる労働者一人一人の顔を、師はじっと見つめていました。視線に気づいた者たちは、どこか面映ゆそうにうつむいたり、褐色の頬を赤らめたりしておりました。やがて全員が揃ったところで、師は礼拝を始めました。

 入祭唱、初めの祈り、悔い改めの祈り、集祷文の祈り。普段の日曜と変わらぬ形で礼拝は進んでいきます。聖書の朗読に入ると、集まった労働者たちは、師が唱えるラテン語の章句を小さな声で繰り返しています。完全には重ならない多くの声がくぐもって響く様は、羊飼いに導かれる羊の群れを思わせます。……本当は、牧羊犬の恐怖に追われているのだとしても。

 師はこの声をどう聞いているのでしょうか。祭壇と相対し、私たちに背を向けている師の顔を見ることは、今はできません。

 福音朗読が終わり、説教の時間となりました。私たちを振り向いた師は、薄く微笑んでいました。ああ、いつもどおりです。

 背もたれのない木の椅子に座る労働者たちを師は一人一人見回し、口を開かれました。


「皆さん。……目を閉じてください」


 少し驚きました。司祭の説教はふつう、先に唱えた章句の説明をする時間です。とまどう私をよそに、労働者たちは一斉に目を閉じました。


「あなたがたは、神を信じていますか」


 はい、という声がいくつか上がりました。まばらに続いた声が落ち着くのを待ち、師は続けました。


「私は、あなたがたに神の教えを伝えるためにここへ来ました」


 うつむき気味に、師は言いました。


「神の子イエスは言われました。『全世界に行って、すべての人々に福音をのべ伝えよ』と。それが私の役割であると信じました。……しかしこの地に、現実に我々がもたらしたものは、暴力と死と疫病でした」


 私は息を呑みました。師が何を言おうとしているのか、私にはわかりませんでした。


「昨夜、この地で若いインディオが死にました。改宗を拒んでの死でした。そして……あなた方は間近にいながら、誰も彼らを諭そうとはしなかった。あなたがたは怯え、ただ彼らが連れ去られていくのを見つめていました。どうしてでしょうか……私は、嘘偽りのないあなたたちの心が知りたい」

「……しかたが、なかったんです」


 一人の労働者が、震える声で言いました。


「あいつらは剣を持ってた。犬を連れてた。……何か言ったら剣で刺されます。犬に喰い殺されます」

「それは――」


 言いかけた師の声を、別の大きな声が遮りました。


「みんな、そうして死んだんです!」


 ひとりの労働者が、顔を上げていました。


「あいつらは笑いながら何人も剣で斬った。刺した。犬をけしかけて何人も喰わせた。村に火をつけた」

「腕を切られた。足を切られた。首を切られた。みんな、みんないなくなった」


 次々と、別の声が加わってきます。


「みんないなくなった後に……十字架を持った人が来た。十字架を拝めば、殺さないでくれるって」

「私たちが拝んでいたのは『悪魔』だと言って……悪魔を拝むのは罪だから、殺してもいいんだって」


 堰を切ったように、労働者たちは叫び始めました。涙を流す者もいました。

 ラテン語を唱えていた時の小声が嘘のような、身を切るような訴えでした。それらのすべてを、師は頭を垂れてじっと聞いていました。

 やがて、この世の暴虐と非道をすべて煮詰めたような言葉の奔流がおさまった頃、師はゆっくりと顔を上げました。


「わかりました。最後に、ふたたび問います。……あなたがたは、神を信じていますか」


 答えはありませんでした。

 押しつぶされそうな沈黙の中、誰も動く者はいませんでした。ただ眩しい夏の朝日だけが、窓から私たちを照らしていました。

 やがて師は、ほう、と大きく息を吐きました。


「ありがとうございました。本当の心を聞かせてくれたこと、感謝します」


 師の目尻には、涙が滲んでいました。ほのかに赤くなった目を何度かしばたたかせた後、師は言いました。


「礼拝を続けます。次に唱えるのは『使徒信条クレド』、すなわち神とその御子への信仰告白です。……もしあなたがたが、心からの信仰を持たないのなら、いまここで唱える必要はありません。私は、それを咎めることはしません」


 言葉を発する者は、誰もいません。

 師は、祭壇へと向き直られました。


「Credo in Deum……」


 師は静かに、ラテン語を読み上げます。私も倣い、静かに言葉を繰り返します。

 しかし私と師の他に、言葉を発する者は誰もいませんでした。






 師が、寄託地エンコミエンダの放棄と労働者たち全員の解放をお決めになったのは、その日の夕方のことでした。

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