4章 200年前のこと

第18話 リンナのぞわぞわ呪術考察・中級編


 暖かい春の陽気が、部屋の中まで入ってくるようだった。

 は、と息を吐いて顔を上げたとき、正面の窓を黄色い蝶が横切るのが見えた。

 新緑と明るい陽射し。どこか甘い香りのする風。目にも鮮やかな花々は今が盛りとばかりに咲き誇り、鳥がそこかしこでさえずり鳴き交わしている。


 リンナの手から、ぽろりと万年筆が転げた。机に一度当たって、柔らかい絨毯の上に音もなく落ちる。


(おかしい)

 呆然と胸を上下させる、その視界の先に、この世の楽園のような春が広がっている。

 しんと静まりかえった日陰のなかで、リンナは血の気が引くような思いだった。指先が氷のように冷え切っていた。


 死の呪いとして記録されている事件の情報を、時系列順に辿って、いまようやく全ての記録を整理し終えたところである。

 何度も、見間違いだと思った。そう思ってデータを見るからそう見えるだけだ、と。

 だから、結論が出るまでは、誰にも言わなかった。


 古地図の写しの上に色分けをして打たれた点と、右肩上がりのグラフ。

 本物の『死の呪い』と思われる事例の位置と、件数である。


(こんなの、おかしい……)


 口の中がからからに乾いていた。自分が見ているものが、信じられなかった。


 ――ある頃を境に、この国で、死の呪いの被害が爆発的に増えている。


 共通点は多数ある。

 どの事件でも呪術師は顔を見せない。誰も気づかないうちに被害者が殺されている。

 術者を捕えられないことからして、正体も詳細も分からないまま。不気味極まりないと、当時の人間の不安が記録からも伝わってくる。


 けれど、術者は同一人物ではない。だって、全国各地で同時多発的に、死の呪いが使われているのだ。

 転移魔術が開発されていない当時では、とうてい不可能な移動である。


(呪術師が増えた? ……難易度が高いであろう死の呪いを使えるような呪術師が、こんなに急に?)


 得体の知れない恐ろしさが、つま先から這い上がってくる。

 凍りついたように動けないリンナの背後で、おもむろに扉が叩かれた。



「は……はい!」

 咄嗟に広げていた資料を伏せて、リンナは明るい声で返事をした。

 扉を開けて入ってきたのはロガスだった。


「奥方様、旦那様から通信が入っております」

「閣下から?」


 振り返って、リンナは目を丸くする。アルラスは一昨日から外出していた。


 彼は月に一度か二度くらいの頻度で、仕事の用事だといって、城を二、三日空ける。

 アルラスが投資やら何やらで生計を立てているのは知っていたし、彼自身、外での仕事を話題に出すことはなかった。


 実際のところ彼が城の外でなにをしているのかは分からないが、彼の外出中にわざわざ連絡を寄越すのは初めてのことだった。


「要件は奥方様に直接伝えると仰っていて、折り返し連絡をして欲しいとのことです」

「わかりました……」

 訝しみながら、リンナは腰を浮かせた。

 リンナの部屋に置かれた通信機では、城外に連絡することはできない。


 リンナは部屋を出ると、アルラスの私室がある方を指し示す。

「閣下の部屋にある通信機を使わせてもらいますね」

「承知しました。こちらが番号です」

「ありがとうございます」

 メモ書きをロガスから受け取って、リンナは後ろ手に扉を閉じた。


 ロガスが歩いていくのを見送りながら、リンナはそっと、扉に鍵をかける。

 鍵を回せば、いつもと同じように、かちゃんと音がする。鍵をポケットに突っ込み、歩き出す。


 いつもと変わらない動作なのに、何だか奇妙な胸騒ぎがした。

 まるで、もうこの部屋に、ずっと戻ってこられないような、そんな予感が。



 長い廊下を歩きながら、リンナは強く唇を噛んだ。

 絨毯が足音を吸い込んで、窓一枚隔てた向こうでは春が訪れ、柔らかい陽射しが行く手に落ちている。

 その先の暗がりを睨んで、彼女は顎を引いた。




 呪術師たちが迫害されたのは、当時の人々の無知が招いた悲劇なのだと、ずっと思っていた。

 しかし、あれだけ死の呪いの記録が残されているとなると、事態は変わってくる。例えば、あれらの事件が組織だって行われていたとすればどうだ?


(あの頃の市民にとって、呪術師は、今の私が抱いている印象より、はるかに恐ろしいものだったのではないだろうか?)

 歩調に合わせて、髪がふわりと浮く。明るい色の木材のように、艶があってたっぷりとした髪だった。片手を上げて、髪をゆっくりと梳いた。


(呪術師というのは、一体、なんなのだろう)

 博士、と唇だけで呟く。ひとの命や人生を破壊することに躊躇いのない犯罪者。


(死の呪いを受けた閣下が生き残ったとき、呪術師たちが、そこに不死の呪いを見出したとすれば)

 そのとき、この国は一体、どうなってしまったのだろう。


 厳しい情報統制と呪術師たちの弾圧、焚書。その甲斐あって、現代を生きる人間には、呪術にまつわる当時の事件や情勢は少しも窺えない。

 わずかに残された手がかりから、隙間を一生懸命覗くのだ。歪んだレンズを通して歴史を見るしかない。



 過去を知りたい。今自分の立つこの地面が続いている、昔のことを、実際にあったことを正しく知りたいのだ。

 その機会を奪う権利なんて、この世の誰にもない。

 たとえどんな事情があったとしても、過去を覆い隠す権利なんて、


(……わたしが言えた義理じゃないなぁ)

 天井を見上げながら失笑して、リンナはため息をついた。



 ***


「もしもし。エディリンナです」

 受話器を耳に当てて告げると、『ああ、いきなり連絡してすまない』とアルラスの声が応えた。


「外出中に連絡なんて、珍しいですね。何かありましたか?」

『何かあったから連絡してるんだぞ』

「あはは」

 茶化すアルラスの声だが、なんだか彼は緊張しているように思えた。顔が見えないから、そう感じるだけだろうか?


 首をひねりながら、リンナは手持ち無沙汰に髪を指先でもてあそぶ。


『それで、用件なんだがな……リンナ、今日や明日は用事は何もないな?』

「今日明日ですか? はい、特に予定はなにも」

 いきなりの問いに、リンナは訝しみながら頷いた。


『そうか、分かった。いきなりで申し訳ないんだが、正午過ぎに転移ステーションの予約を取ってあるから、ロガスに言って旧都のステーションまで送ってもらってほしい』

 一息で告げたアルラスは、どこか焦っているように感じられる。緊急事態なのに、それを悟られまいとしているみたいだった。


 リンナは努めて何気ない口調で返す。

「転移ステーション? どこまで飛ぶんです?」


 アルラスは不意に黙った。答えられないのだ、と直感する。言えない状況に置かれているのか、リンナに言えない場所なのか。

(これは、聞いても答えなさそうね)


 そう思いながら、リンナは口を開いた。

「……答えないんなら、自白の呪いを使っちゃおうかなぁ」

 冗談めかして付け加える。『通信機越しに呪術は通るのか?』と、ややあってからアルラスの声が警戒を帯びて答えた。


「いえ、無理だと思います。そもそも呪術って術者の近くの生き物にしか使えないんです」

『なんだ……ちょっと警戒してしまったじゃないか』

「あはは」

 通信機に手をかけながら、リンナは窓の外をちらと見た。白い蝶が横切っていった。光がひらめくみたいに、ぱっと翅が開いては、不規則な軌道で飛んでいる。


「呪術って、意外と不便なんですよね。やっぱり生き物と生き物のあいだの術ですし。記録によれば、だいたい術者の身長の三、四倍程度が有効な距離の限界みたい」

 だから、自分は外にいるあの蝶に手出しができない。


『そうか……』と、アルラスが呟く。

『まあとにかく、詳細は到着してから話す。ステーションまで誰か迎えにいかせるから、到着したらその誘導に従いなさい』

 アルラスの声の向こうでは、ずっと人の気配がしていた。雑踏の中にいるようだけれど、それよりは少し静かだ。足音もする。

 アルラスは一人ではなく、どこかの施設にいる。


「……はい。なにか必要な持ち物は……特にない? わかりました」

 低い声で頷いて、リンナはそっと受話器を置いた。



 そこまで言って、リンナはつと中空を見上げた。いや……と、声には出さずに呟く。


(死の呪いに反転魔術が干渉して、不死の呪いになるのなら……声を遠くへ届ける通信機の魔術機構が、呪術を媒介することはないだろうか?)

 そこまで考えて、リンナはかぶりを振った。通信機が届けるのは、音声のみである。呪術に必要なのは音声だけではない。


 再度受話器を取り、ロガスが常駐している部屋へ内線をかける。転移ステーションまで送ってもらうよう頼めば、彼はすぐに快諾してくれた。

「ロガスさん」

『はい、どうされましたか?』

 柔らかい口調で答えたロガスの声を聞きながら、リンナは小指に口づけた。『魅了』と小さく呟く。


『いま、何かおっしゃいましたか?』

 聞き取れなかったロガスが不思議そうに聞き返した。リンナは受話器に両手を添えたまま、慎重に問う。

「ロガスさん。私と閣下、どちらが好きですか?」

『ええ? いきなりですね……どちらがと聞かれましても、私にとってはお二人とも大切な存在ですよ』


 そこを何とか、とリンナは食い下がった。ロガスがすっかり困り果てているのが、受話器越しに伝わってくる。

『どうしても選べと仰るなら、強いて言えば、旦那様の方がご恩は大きいですし、付き合いが長いです。だって父ですよ』

 言葉を選んで答えたロガスに、リンナは息をついた。魅了の呪文はかかっていないはずだ。

「いきなり変なことを聞いてごめんなさい。閣下のこと、これからもよろしくお願いしますね」

 釈然としないような様子で、ロガスは『はい……』と頷いた。



 荷造りのために自室へ戻る道すがら、リンナは中庭を見下ろしながら思案する。

 通信機では、呪術は伝わらないと確認できた。


 やはり、遠隔でひとに呪いをかけることはできないのだ。

(……あれ?)

 と、そこで、足が止まる。顎に手を添えて、虚空を睨む。


「――じゃあ、二百年前の戴冠式で、王に死の呪いを放った呪術師は、どうやって王に近づいたの?」


 あいにく王の戴冠式には参列したことがないけれど、兄の叙勲の場に居合わせたことはある。

 間違っても人混みの中ではない。近くに人はおらず、いたとしてもせいぜい数人の関係者や身内くらいのものである。


(遠くから呪術をかけるための、私の知らない方法がある。あるいは……)


 細く開けられていた窓から、花の香りが入り込む。よく日の当たる中庭を、リピテが箒片手に歩いていた。

 少し前にヘレックが取り付けた機構は、風の力で枯葉などを一箇所に集めるはずらしいが、まだまだ試作段階のようだ。小さな背中が庭園を縦横無尽に移動し、散らばった枯葉をせっせと掃き集めている。


 庭へ出る渡り廊下をヘレックが歩いてきて、身長ほどもあるような大きな袋を上下に振って空気を含ませた。ここに枯葉を入れろ、と手振りで合図をすると、枯葉の山を指さしたリピテがなにか言う。


「ヘレックさん、これじゃ逆に手間が増えるばっかりですよぅ」と、風に乗ってその声が聞こえた。

「困ったなぁ、こんなはずじゃ……」

 袋片手にヘレックが早足になる。弱った様子で頭を掻くヘレックを見て、リピテが笑う明るい声が響いていた。




 そんな様子を黙って眺め下ろしながら、リンナは外の二人に見つからないよう、そっと身を隠す。


 アルラスは、自分の傍にいる人間を厳しく制限している。期間を厳格に区切っているのももちろん、必要最小限の人数しか近くに置かない。過度に親しくならない。


 彼が、大切なものを失うことを恐れているからだ。でも、それだけではないのかもしれない。

 記憶を消されても、そのひとの人格が変わるわけではない。彼には他人に対する警戒が根ざしている。


(……王を暗殺しようとした呪術師が、王の近くにいた、とか)

 もしそうだとすれば、それは、王の弟であるアルラスにとっても近しい相手のはずだ。


 柱に背をつけて、リンナは天井を仰いだ。

 彼を救いたい。でも、私はあの人のことを何も知らない。


「いったい、二百年前に何が起こったの……?」

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