あきらくんへ

 まず、神崎あきらという筆名がよい。
 絶妙によい。
 ありふれているようだが圧倒的な主役感と「書ける人」感が漂う。

 あきらくん!

 と呼びたくなるのは何故だろうと考えてみたのだが、多分いくつかの漫画や小説で「あきら」が主役だったからだ。
 永井豪「デビルマン」平井和正「ウルフガイ」大友克洋「AKIRA」。
 伝説的な傑作ということしか知らず、どの作品も読んだことはないのだが。

 歴史物でもホラーでも紀行でも、ジャンルを問わず「神崎あきら」という名は著者名として収まるべきところにぴたりと収まる。
 とてもいい名前だ。


 神崎あきらさんは真面目な方だ。真面目に真摯に、創作に取り組んでいる。
 こういう方は自分の足りないところを自分で見つけていくだろうから、特に外野が何か云うこともない。
 とても大人だ。
 最初から大人であったわけではなく、一つ一つ真面目に階段を昇っていくようにして今の神崎さんになったのだろう。
 最初に惹かれたのは、実は、神崎さんの風景写真だ。
 国内でも海外でも、わたしは一人旅をよくしたが、その時の写真を帰国後に見せる機会があると決まって云われた。

 人間がどこにも映っていない。

 わたしは一切の人間を排除して建物や風景を撮っていた。ファインダー越しに写し取りたいのは風景であって、人間ではなかった。
 しかもただ人がいないだけではない。
「あなたの視点はあるが、どの写真も寂しい。見ているだけで寂しくなる」
 プロの写真家からそう云われた。
 わたしにとって旅先で撮る写真とは絵画のように撮るものだった。美しい風景や荘厳な建築物に人間という異物を入れたくなかったのは確かだ。
 異物といっているくらいなのだから、はっきり邪魔だと想い、人がいればいなくなるまで待ってから撮っていた。
 しかし人物が映っていない写真はたくさんある。「見ているだけで寂しくなる」とまで云わしめる風景写真とは何事だろう。

 映す人の心を写真はうつす。
 見渡す限り人家のない外国の荒野で冷たい雨に打たれて遭難しかかった時にはじめてわたしは何か自分は大きく人とは違うのではないかと痛感したものだ。
 平和な日本に生まれて何不自由なく育っておいて、なにが哀しくてこんなところでたった一人で雨に打たれて遭難しかかっているのだ。
 わたしを荒野に連れ出したわたしの気質の冷たさや荒涼さが、わたしの撮る写真には正確に映っていた。
 そういうことなのだろう。


 そんなわたしが神崎さんの撮る「人の映っていない写真」に引き寄せられるのはお分かりいただけると想う。
 ついでにわたしも吸血鬼が大好きで、関連の写真を観るとぐっと前のめりになってしまう。
 とはいえ神崎さんは自分の世界を確立しておられる方だ。無遠慮な犬のように寄っていくことは無論したくない。
 時々うろうろしては、丁寧に返答を頂いて、また犬小屋に帰るような日々だ。
 わたしと神崎さんに似たところがもしあるのなら、お客さまが来るのはとても嬉しいが、お客さまはお客さまということだ。
 その方々にはその方々の創作があり、自分には自分の創作がある。
 立ち話できれば十分だ。

 ある時、神崎さんが、ご自分の作品の不足点を真正面から書いておられた。
 そこにわたしは彼の高い自負をみた。
 中途半端な自尊心があればそんなことは表には書けない。実は自信があるからこそ「ここが足りない」と書けるのだ。
 こちらはその記述をちらっと読んで、それから忘れた。
 同意だからではなく、模索する神崎さんのその姿勢の厳しさに、真面目さと本気をみたからだ。
 神崎さんのような書き手の作品はべつに読まなくてもいいかなと考えている。
 いや、ちゃんと読むのだが、ほっといてもきちんと書いてあるでしょ? という信頼がある。
 真剣に創作する方には、そういう信頼がついてくるものだ。

 想うことがあるとすれば、神崎さんは本当はどんな作品が書きたいのだろうかということだ。
 文章力はもう十分にある。だからそこではない。
 この小説を書きたいがために自分は小説を書き始めたのだと強く想える作品はどれで、今後それは書かれることがあるのだろうか。
 もちろん、「今の段階ではこれだ」というものはきっとあるだろう。
 神崎あきらさんに創作への野望と情熱があるのなら、きっとまた神崎さんは階段を昇る。

 今(2022年末)はカクヨムコンの最中で忙しいだろうが、落ち着いたら、

 あきらくん、あーそーぼ!

 少し息抜きして原点に戻り、ご自身と遊ぶようにして「書いていて楽しい!」という作品を羽目を外して書いて欲しい。
 いずれ、「鬼の風穴」を長篇ホラーか、またはスタンド・バイ・ミーのような少年たちの小説として読みたいものだ。
 短篇ではもったいない。