第5話

「今からご飯食べましょう。えっと、こういう時はまず、消化にいいものからですかね。できたら声をかけますから、まだ横になっててくださいね」


 唖然とした。また俺に料理を振る舞おうだなんてどうかしている。逃げなければ――ようやく生存本能が働いて、立ちあがろうとしたが、肩をがっちりと掴まれてしまった。


「いやっ、俺はその! 大丈夫」


「いいえ。お顔、真っ青ですから。無理しちゃだめですよ」


 にっこりと笑うと、逃げようとした俺を再びベッドに押し付けた澪さん。物腰は柔らかだが、やっぱりそこは吸血鬼。驚くほど力は強く、抵抗することができなかった。


 ああもうどうにでもなれ。


 俺は生きることを諦め布団を被った。自分が普段使っているものとは違う、暖かく柔らかな肌触り。そしてほのかに甘い匂いに包まれた。これはたしか、訓練でお馴染みの吸血鬼特有の体臭というやつだ。


 警戒すべきものと刷り込まれているのに、澪さんの匂いだと思うと次第に気持ちが和らいで、瞼が重くなってくる。


「喉乾いてないですか? お水置いときますね」


「あ、ありがとうございます」


 枕元に水の入ったボトルをそっと置かれる。キャップが未開封であることを確認してから遠慮なく飲み、台所に目をやる。


 澪さんがこちらに背を向け、鼻歌交じりで料理をしていた。手際よく作業する姿はまるで踊っているかのように見えた。こんなにも楽しそうに料理する個体がいるなんて話は聞いたことがない。


 こちらに無防備に背を向けているのだから、正体はバレていないのかもしれない。懐の武器に手が伸びる。仕留めるなら今だ、と頭の中で声がしたが、今日もどうしてもそんな気にはなれなかった。


 トントンと野菜を刻む音が響く。コンロにかけられた土鍋が煮立っているのか、空気が少しずつ湿り気を帯びてきた。


 吸血鬼が糧とできるのは人間の血液のみと言っていい。人と同じものが食べられないこともないが、ほとんど栄養にできないし、味覚も反応しないらしい。


 とはいえ、人間の社会に紛れ込む時、怪しまれないためにだとか、特有の体臭を薄くする目的で適当なものを食べることもあると研修で教わった。


 最初に出会った日、野菜や肉を買っていたことを思い出すと、彼女はおそらく普段から自分で食べるために料理をしていると思われる。擬態目的ならばそこまでする必要もないだろうに、とは思うが。


 本当によくわからない人だ。よくわからない人だが。


 再びベッドに横たわって目を閉じると、腹の虫が安心しきったように鳴いた。


 彼女の鼻歌はなおも続き、柔らかく耳を撫でてくる。ときどき俺の様子を伺いにきては、台所に戻るを繰り返す。どうやら、ちゃんと寝ているか見守られているようだ。


 どうしてこんなに心地がいいのだろう。罠かもしれないとはわかっていても、誰かに優しく介抱されたことなんて生まれて初めてで、なんだかくすぐったかった。


 あれ?


 生まれて初めてな訳がないか。俺にだって母親はいたのだから、子供の頃には介抱されたことくらいはあったはずだ。


 しかし、かつて家族とどんな暮らしをしていたかなんて、とっくに忘れてしまっている。思い出せるのは血の海と、そこに折り重なった家族の亡骸だけ。青い炎が揺れる。


「ご飯できましたよ。起きられそうですか?」


 意識が現在に戻った。促されるままにダイニングの椅子に座ると同時に澪さんはテーブルの上の土鍋を開けた。中は黄色く輝く物体で満たされ、ほこほこと湯気を上げている。澪さんは俺の目の前に木のスプーンを置いてから、仕上げとばかりに鍋に刻んだネギを散らした。


「えっと、これは雑炊ってやつでしょうか」


「ええ、あたりです。卵と、鶏肉と、お野菜もいろいろ入れました。今日は私もいただきますね。お夕飯まだだったので」


 そう言って微笑むと、鍋の中身を二つ並べた椀に順によそった澪さん。出汁の香りが立つと、遠慮を忘れた腹の虫がとうとう飢えた獣のようにグルグルと鳴き出した。クスクスと笑って返され、どうしようもなく居た堪れない気持ちになる。


「私はこれだけでいいので、あとは空木さんがどうぞ。熱いので気をつけてくださいね」


 小さな子供を相手にしているかのような優しい調子だった。ただただ戸惑う俺の目の前で澪さんがまず一口食べた。


 もぐもぐと口を動かす澪さんと目が合う。どうぞ、と言っているのだろう。俺は、腹を括った。


「いっ、いただきますっ!!」


 まるで毒薬でも煽るように、スプーンに山盛りすくい上げた雑炊を一気に口に含んだ。口に広がったのは強烈な苦味……ではなく、見た目から想像した通りの優しい味だった。


 騙されたような気持ちになって顔を上げると、澪さんは食べる手を止めこちらをじっと見つめていた。期待がこもったような、なんとなく嬉しそうな顔で。


 意を決して飲み込んだ。柔らかく炊かれた米が空っぽの胃にゆっくり落ち、ほぐれて広がっていくのを感じると、なぜか胸がジリジリと痛んだ。やっぱり何か盛られているのかと思ったが、単に心に染みているだけということに気がついた。


 もうひと口。またひと口。手が止まらなくなった。


「美味い」


 勝手に口がそう動いた。何かを食べて気持ちまで温かいと感じたのは初めてで、正直に言うと戸惑っていた。


 前に作ってもらった食事のことを思い出した。あんなに美味しいものを食べたのは生まれて初めてだった。本当に申し訳ないことをしてしまったかもしれないと、水とともに流してしまったはずの罪悪感が蘇ってきた。


「この間の飯も美味かったし、澪さんって料理上手なんですね」


「えっ!? あのっ、その」


 澪さんは困ったような声を上げた。笑っているのに、両目からは大粒の涙をボロボロとこぼしている。


 必死で涙の理由を考えた。もしや、吸血鬼の世界では料理を褒めることは失礼に当たるのか? 人間同士の付き合いすらまともに経験のない俺に異種交流は早すぎたか。


 いや、交流って。相手はいちおう敵。もう何が何だかわからない。しかし、俺はおおいに焦っていた。


 今まで無自覚だったが、目の前で女性が泣いているのに平気な顔ができるほど図太い人間ではなかったらしい。


「ああっ、気に障ったなら申し訳ないです。いや、あまりにも美味かったので。つい」


「いいえ、うれしいです。そっか、ちゃんと美味しいんですね。よかった……」


 しばらくして涙をぬぐった澪さんは、自分の分をひと口食べて微笑んだ。


 結局、土鍋の中身は米粒一つ残さず綺麗に平らげてしまった。食べ盛りの少年のような振る舞いをしてしまったことが少し恥ずかしかったが、澪さんは嬉しそうに食後の緑茶を振る舞ってくれた。もちろん全て飲み干した。


「ちゃんと帰れますか?」


「大丈夫です。今日は本当にありがとうございました。またお礼は後日」


「いいえ。こちらこそ、美味しそうに食べてくださってありがとうございました」


 すっかり温まった体で見上げた夜空は、やたら綺麗に見えた。頬にあたる夜風が心地いいなんてこと、今まで感じたこともなかった。目が覚めたような、感じるものもの全ての解像度が上がったような、不思議な感覚だった。


 この日、俺の中で確実に何かが変わった。

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