第2話

 授業が終わり、ホームルームで担任に挨拶を告げるなり、あやのは鞄を掴んで教室を飛び出した。早く早くと急かす鼓動が、足運びを突き動かす。一日の課業から解放され、どこに遊びに行こうか相談する女子たちや、急ぎ足で部活動に向かう男子たちの間をすり抜け、一段飛ばしで階段を下りて、図書室の扉に飛び込む。


 放課後になったばかりの図書室は、まだほとんど人の気配もなかった。


 早すぎただろうか? 談笑しながら入ってきた図書委員が、立ち尽くしているあやのの姿に目を丸くしている。めいめいやってきた生徒たちの目から逃れるように、そそくさと奥へと向かう。貸し出しカウンターの前を通り過ぎ、閲覧席の脇を抜けて、書架と書架の間から図書室の一番奥へ。


 ぽつんと佇むすりガラスの覗き窓が付いたドアには、『書庫』の文字と、無断での立ち入りを禁ずる言葉が綴られている。


 あやのは逡巡した。入るべきだろうか。


 不意に、書架の影から女生徒が現れ、あやのは肩を跳ね上げる。女生徒はあやのに一瞥だけくれると、並んだ本の中から一冊を引き抜いてさっさと引き返していく。


 だがそれで、決心は固まった。


 目の前にあるのはウサギの穴だ。飛び込まなければ、物語は始まらない。自分が一度本の表紙を開いたら、どんな内容であれ、結論まで見届けなければ気が済まない人間であったことを思い出す。


 周囲に人影がないことを確認しながら、ドアノブに手をかける。軽くひねると、ドアはなんの抵抗もなく口を開く。扉の間から身体を滑り込ませ、慎重に扉を閉めたあやのは、肩を竦ませた。


 真っ先に目に入ったのは、壁だ。隙間なく分厚い書物を収納した、書棚の壁。奥行きのある書庫は、所狭しと並べられた背の高い棚で区切られ、入り口から室内の全容を窺い知ることは出来ない。棚で窓も塞がれ、天井から照らす蛍光灯は、明るさよりも影を強調している。


 本棚の迷宮だ。あやのは喉をひとつ鳴らし、一歩を踏み出す。脈打つ鼓動が部屋中に鳴り響いているかのような錯覚が、余計に心臓を大きく高鳴らせる。


 書棚をひとつ過ぎ、二つ過ぎ、立ち塞がるように聳える壁の向こうを、恐る恐る覗き込む。棚の向こうには、通路よりも広く取られた、三畳ばかりの空間があった。幅広の作業机がそのほとんどを占め、真上に位置する蛍光灯が机上を明るく照らしている。そして、人の影が。


 ほの暗い室内、ちらちらと舞い降りる淡い光に照らし出された机に向かい、あやのに背を向けて男がひとり座っていた。俯く顔は陰に隠れて判然としない。彼は大仰な表紙で装丁された、分厚い大判の本を机の上に開き、頁を押さえる左手の指が紙面をなぞるにつれて、忙しなく動く右手が手帳になにかを綴っている。筆が紙上を走る音が男の周りを飛び交い、目には見えない言葉を紡ぎあげていく。


 手帳の傍らで灯りを照り返す瞬きに目を向けると、こげ茶の革皿の上に、透明がかった光沢のある角ばった宝石のようなものが、三つ四つばかり転がされている。煌めく石は、いやに眩く目を惹いた。なにかその石たちに、人の運命を左右するほどの大きな力が宿っているような、そんな気がしてならなかった。あるいは机に向かっている彼自身が、あやのには到底及びもつかない、とても大きなものを作り出そうとしているような、そんな気が。


「……魔法使い」


「え?」


 蛍光灯の無機質な明かりの下、思わず零した言葉に、弾かれたように男が振り返る。あまりの驚きように、あやのまで跳ね上がりそうになった。


「あ、えっと、誰?」


 恐々と尋ねられ、あやのは自分が零した妄言を思い出す。音を立てて息を吸い込みながら顔面を沸騰させる。反射的に、つま先が反転する。


「え、ちょ、ちょっと待って!」


 思わず駆け出した背中に声をかけられ、あやのはますます顔を赤くする。なにをしているんだろう。なにも考えずにこんなところに来て、変なことを口走った挙句に逃げ出すなんて。


 泣きそうになりながら書棚の迷宮を抜けようとする足は、腕を掴まれて止められた。あやのが振り返ると、男はぱっと手を放して二歩後退る。


「ごめん、思わず引き止めちゃったけど……ええと」


「は、はい……」


 気まずそうに目を逸らす男は、よく見ればあやのと同じ制服に身を包んだ少年だ。彼は魔法使いでもなければ、もちろん書庫は迷宮のはずもない。落ち着けば落ち着くほど、あやのの頬には溶けだしそうなほどの熱が集まり、書棚の影に隠れてしまいたくなる。


 突然後ろに現れて、魔法使いなんて口走る女子。絶対に変な子だと思われたに決まっている。


「もしかしてだけど、図書通信の募集を見て来てくれたの?」


 顔を見ることも出来ず、無言でうなずく。男子生徒も沈黙している。恐る恐る顔色を窺うと、男子生徒はまん丸に目を見開いてあやのを眺めていた。


「あの?」


「うわ、うわ、ごめん、びっくりしちゃって。まさかあんな募集で、本当に誰か来ると思ってなかったんだ。とりあえずこっち、座ってよ」


 あやのがここにいること自体が、まだ信じられない。そんな驚きと喜びの混じった表情で席に戻る男子生徒に勧められ、彼の席のはす向かいに腰を下ろす。


 なにが始まるのだろうか。居心地の悪さに身を捩るあやのの一方で、男子生徒もまた、視線を彷徨わせながら言葉を探していた。互いに会話の切り口を見い出せない無言が呼吸二つ分ほども続き、ようやく男子生徒は口を開いた。


「僕は二年の、古湊こみなと辰巳たつみです。さっきは本当にごめん、腕掴んじゃって。痛くない?」


 あやのは首を振り、辰巳と名乗った男子を上目で窺いながら、大きく息を吸い込む。まだ頬は熱いが、それでも多少は落ち着いた。はずだ。


「わ、私は、一年の高千穂あやのです。私の方こそ、本当にすみませんでした。自分でも、なにをしているのかよくわからなくなってしまって……」


「うん、それはなんとなく伝わった」


 辰巳の苦笑いを浮かべ、次いでいくらか眉を顰めた。


「一応聞くんだけど、冷やかし、じゃないよね?」


 まさか。思ってもみない問いかけに、あやのは恥じらいも忘れて首を振る。


「ち、違います。私、本当に異世界での冒険に興味があって。思わず逃げそうになったのは、なんだか雰囲気に圧倒されてしまっただけなんです!」


「僕が魔法使いに見えたから?」


 蒸し返され、言葉に詰まったが、それでも頷く。今度は辰巳から目を逸らさない。本気を伝えたかったからだ。そして、辰巳の表情に嘲りの色はなかった。


「そんな風に見えたなんて、なんだか光栄だな」


「他にも、最初はこの部屋が、まるで迷宮のように見えてしまって」


「なるほど。本の迷宮の奥に潜む魔法使いか。高千穂さんは想像力豊かなんだね。これは有望な人材かもしれないなあ」


 あやのは首を捻る。今まで想像力が豊かと言われたことはあっても、それを褒められたことはない。なにより、なにに対して有望なのか、まだわからないままだ。


「あの、先輩、そろそろ教えていただけませんか? あの広告は、いったいなんの募集だったんでしょう」


「ううん、なんて言えばいいかな」


 募集をかけた張本人であろうというのに、辰巳はなにから話したものかと首を捻っている。


「説明する前に聞いてもいいかな。高千穂さん、異世界って、なにをイメージして来たの?」


 なんだか面接みたいだ。そう思いながら、思い浮かぶ異世界での冒険像を拾い上げていく。


「一番に思い浮かぶのは、剣と魔法のファンタジーですね。中世ヨーロッパ風の世界で、危険なモンスターと戦ったり、罠の張り巡らされた迷宮を探索して、宝物を探したり。それか、世界を脅かす巨悪に立ち向かうのも王道だと思います。あとは、魔法と一緒に、機械文明も発達してる世界とか。鉄道と巨大な生き物が一緒に走っている光景なんかも、スペクタクルがあって好きです! それかこの世界が、神々の国や、隠された魔法の世界と繋がっていて、ある日主人公は自分が知らなかった運命に立ち向かうことになったり」


「ふふ、あはは!」


 不意に響いた笑い声に身を竦ませ、思わず口元を押える。辰巳は、やけに嬉しそうな表情であやのの言葉を聞いていた。


「そんなにすらすら出てくるなんてすごいな。高千穂さんはファンタジーが好きなんだね」


「は、はい! 今までいろんな本を読んできましたけど、やっぱりファンタジーが一番好きなんです。剣や魔法や、この世界では見ることのできない生き物たちがいる世界を想像すると、すごく……」


「わくわくする」


「はい!」


 あやのの上擦った声に、辰巳はまたひとつ笑い声を上げる。今度はあやのも、少し照れくさくなりながらはにかんだ。


「わかる、僕もそう。運命とか宿命とか、そういう見えない力が当然のように働いてるのも、浪漫だよね」


「まるで無関係に思われていた出来事が、実はすべて繋がっていて、とか!」


 そうそう、と辰巳は頷く。


「異世界転生ものとかも読む? 最近だと、現代からゲームの世界に行っちゃう話とかもあるけど」


「読みます。ゲームの世界に、っていうのは、私があんまりビデオゲームとかで遊んだことがないので、ちょっとわからないんですけど」


「そうなんだ」


 辰巳は少しだけ口ごもった。対して、思いがけず話題を共有できたことに嬉しくなったあやのの口舌は、いつになく滑らかだ。


「私、子供の頃からファンタジーが大好きで、そんな世界で冒険してみたいってずっと思っていたんです。高校生になっても、その気持ちは変わらなくて。今日あの募集を見て、もしかしたら本当に異世界に行けるかもって、どうしても確かめたくて、気が付いたらここに来ていました」


 あやのの中で繁る空想の幹の、その根元の奥深くに植わった種が次々と顔を出す。


「すみません、なんだか聞かれてないことまでぺらぺらと」


 頬を掻いて気恥ずかしさを誤魔化すと、神妙な面持ちで耳を傾けていた辰巳は、静かに首を横に振る。


「ううん、とんでもない。じゃあ、冒険者募集ってなんのことなのか、説明するね」


「はい」


 佇まいを直しながら、途端に口の中に溢れた不安を飲み込む。


「一応謝っておくと、僕は魔法使いでもなんでもないから、いきなりここで君を異世界に連れていく、なんてことは出来ないんだ。ごめんね」


「い、いえ」


 わかっていたはずだったが、それでも肩が落ちるのを誤魔化せなかった。「ただし」辰巳は続ける。


「君を異世界で起きる物語の、主人公にすることは出来る」


「……それって?」


「テーブルトークRPGって知ってる?」


 聞き覚えのない言葉だ。RPGはまだわかる。テーブルトークとは?


「ロールプレイングゲーム、って言えばわかりやすいかな。テレビゲームのジャンルの大元になった、もっと古くてアナログな遊びのことなんだけど。僕がゲームマスターとして、物語の進行役になって、君を空想の世界に案内する。そこで高千穂さんは、主人公として襲い掛かってくる無理難題に立ち向かっていく。そんな遊び」


 それは、言葉と会話の上で繰り広げられる、空想世界に飛び込んでいく手立てだった。


 ゲームマスターと呼ばれる進行役が、言葉や小道具を使って、異世界の様子を描き出していく。剣と魔法の王国や、歪な近未来都市。あるいは現実とよく似た、しかし恐ろしい怪異の実在する街を舞台にした、物語の世界。プレイヤーはその世界の住民として、物語の中心となる何かしらの事件に挑む。ゲームマスターの紡ぐ物語の中で、プレイヤーは与えられた役割ロール演じるプレイ


 それが、今日ではTRPGと呼び習わされる物語遊びだという。


 また肩が落ちる。麻由香の危惧した、変なゲームサークル、という言葉が脳裏を過る。


「ごっこ遊び、ってことですか……?」


「すごく乱暴な言い方をしちゃうとそうなんだけど」


 思わずぼやくと、辰巳は苦笑いを浮かべる。


「でも、ただのなりきりごっこじゃないよ。きちんとルールが決められているんだ。例えば、目の前に閉ざされた扉があるとする。その向こうに行きたいけれど、鍵がかかっていて、扉は開かない。もしここで、強い力があれば扉を壊せるかもしれないし、手先が器用なら、鍵をこじ開けられるかもしれない。魔法が使えれば、扉をすり抜けることも出来るかも。そういったことがすべて、ルールで定められているんだ。もちろん、どれも失敗して、鍵を探しに行くはめになるかもしれないし、扉を開けてくれる人にお願いしに行くことになるかも」


 なにもかもが思い通りに行くわけではないが、さりとてテレビゲームのように、決まった手順を踏まないと扉が開かないとは限らない。


 なるほど。それならば、ただのごっこ遊びよりは現実の出来事らしくなるし、登場人物と自分の言葉で話せるならば、テレビゲームよりは自分の想う通りに振舞えるかもしれない。


 それでもまだ、ゲームという言葉に抱く懐疑心を拭いきれない。


「でも……それはやっぱり、ゲームの中の登場人物の体験じゃないですか。私が主人公になれるわけじゃありません」


 ふむ。辰巳は顎に手を当てて考え込んでしまう。やっぱり、こんなバカげた願望は笑われるだけなのだろうか。


「あくまで高千穂さん自身が、異世界で冒険したいってことだよね。別にそういうシナリオにする分には問題ない、かな」


 辰巳は、笑いも嘲りもしなかった。


「え?」


「高千穂さんは、主人公にとって一番大事なのはなんだと思う?」


「主人公に一番大事なもの?」


 突然の問いに、あやのは首を傾げた。大事なものとはなんだろうか。挑戦、挫折と成長、あるいは友情? いくつもの言葉が飛び交う。辰巳が口にしたのは、そのどれでもなかった。


「選択とその結果だって、僕は思うんだ」


「選択と、結果」


「シナリオの中で出会う難題に、主人公がどう立ち向かうのか。慎重に回り道をするのか、無理を承知で近道しようとするのか。それが成功するのか失敗に終わるのかも含めて、高千穂さんのすべての選択に結果が伴なって、ひとつの物語になるんだ。それに一度きりの物語だ。選択してしまえば取り消すことは出来ない。逆に空想のゲームだから、少し無茶なことに挑戦することだってできるしね」


 選択と結果。顎に手を当てたあやのの胸中で、辰巳の言葉が幾度も繰り返される。


 思い返してみれば、あやのがこれまで膨らませてきた空想の中では、なにをしようと、どこへ向かおうと、あやのの思い描いたことしか起き得ない。すべてあやの自身の中で始まって、そして終わってきた。そこに選択も結果もありはしない。どんな困難もあやの自身の想像の範疇を出ることはなく、意図しない結果に終わることはないのだから。


 けれどもし、筋書きを考えるのが自分ではなかったら?


 なにが待ち構えているのかも見えないシナリオの中で、正解のわからない選択を、自分の判断で下さなければならないとしたら。公正に判定するためのルールのもと、苦難に立ち向かっていくことができるのだとしたら。


 それは確かに、自分が主人公の物語だと言えるかもしれない。空想の中に飛び込めば、現実ではできない経験をすることも出来る。現実にはあり得ない存在に触れることも出来る。同じ空想でも、自分だけのものではないのならば、確かにそれは、未知の異世界の疑似体験になるのかもしれない。


「僕は、そのロールプレイングゲームの参加者として、主人公になってくれる人を募集してたってこと。興味出てきた?」


 はっと顔を上げる。いつの間にか真剣に考え込んでいたあやのを、にこやかに見つめる辰巳がいた。


「まだよくわかりません。でも、少しだけ」


「どうする? 胡散臭いと思うなら、ただの妄言として忘れてもらって構わないけれど」


「本当に、私が主人公になれるんですか?」


 私が主人公になれる。口に出した途端その言葉は、胸の中の入るべき場所に、すっぽりと収まった。


「もちろん。どんな主人公になるかは、高千穂さん次第だけど」


 自分はどんな主人公になれるのだろう。勇敢な戦士だろうか、知識を武器にする魔術師だろうか。大きな力を手にした孤高の英雄か、それとも絆で結ばれた仲間たちと力を合わせて試練に立ち向かうのか。


 確かめてみたい。気付けば空想の大樹は、今までになく大きく広く枝葉を広げている。幾重にも分かれたどの枝先に実が成るのか、見届けてみたい。あやのの心は、気付けばすっかりその思いに囚われていた。


「今日ってまだ時間ある? 少し体験してみて、それで続けるか考えてくれてもいいけど」


 答えは、もう決まっていた。


「やってみたいです。私、物語の主人公になってみたいです!」


 辰巳は、本当に嬉しそうに笑って頷いた。

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