第3話 怪談による除霊

【芦屋啓介】


 やる気の無い拍手が部屋に響いた。


 芦屋啓介が怪談を語り終えたのは国分寺市にあるアパートの一室。葉山英春の部屋。

 芦屋はほんの数分前に起きた出来事を語らされたのである。


「はい。どうもありがとう」


 適当な拍手の音源、芦屋に怪談を語るよう迫った張本人であるところの月浪縁つきなみよすがは、極めて事務的に礼を言った。

 チェシャ猫のように目を細めて笑う縁を一瞥すると、芦屋は精神的な疲労から長く息を吐く。

 しかし、なぜだか知らないがやたらに身体が軽い。

 どうしてこうなったのか。芦屋は思い出して、少々途方に暮れる。


 ※


 葉山のアパートを訪ねて来たは一人ではなかった。


 ドアを開けた縁は連れの男と一緒につかつかと葉山の部屋に入ってくる。

 縁と連れ立って歩く男に芦屋は見覚えがなかったが、ボストンタイプのメガネの奥の穏やかな顔立ちはどこか縁に似ているように思えた。

 所在無さげにフローリングの床を黙って眺めている葉山を見つけると、縁はひらひらと手を振ってみせる。


「やあやあ。お久しぶりだね、葉山くん」

「……月浪さん?」


 さすがに葉山も美術予備校時代の同輩の顔は覚えていたらしい。

 だが、なぜ縁が自宅に訪ねて来たのかはわかりかねる、といったような顔で首を捻っている。

 縁は葉山に向かってにこやかに頷いた。


「そう。美術予備校の基礎課程で一緒だった月浪縁だよ。こっちは総合病院で働いている兄の月浪健つきなみたける

「どうも。はじめまして、こんばんは」


 葉山は困惑した様子で縁と健の兄妹を見比べている。わけがわからないのだろう。

 この時ばかりは葉山と自分は同じ気持ちかもしれないと芦屋は思う。

 しかし月浪兄妹は終始マイペースに事を進めるつもりらしい。縁は葉山に目をやると、首を傾げて健に問いかけた。


「兄さん、どっちだと思う?」


 健は縁の疑問に答える前に、メガネを外してシャツの胸ポケットに突っ込んだ。それから葉山の顔をジッと、検分するように眺める。柔和な顔立ちの健だが、真顔になるとその印象は彫像のように無機質だ。

 葉山は無遠慮な視線に怯えたように肩を震わせたが、そのうち、ぼうっと魅入られたように健の目を眺め返した。

 光の具合か、健の眼差しに薄青い光が宿った気がして、芦屋は瞬く。

 だが、次の瞬間には普通の目に戻っていた。妹の縁と同じ、黒く色の濃い瞳である。


 気のせいにしては、明らかに目の色が変わっていたように思えた。


 いぶかしむ芦屋をよそに、健は不意に葉山から目を逸らすと、縁に向かって静かに答える。


「……俺が対処できるほうだな。母さんに頼むと面倒だから、正直助かる」

「なら葉山くんのことは兄さんに任せるよ。私は芦屋くんをなんとかするから」


 芦屋がどういう意味かを尋ねるより先に、健が葉山に向かって口を開く方が先だった。


「じゃ、葉山くんだっけ? 保険証と財布ありますか?」


 健は医者らしくテキパキと指示しながら、葉山に向かって愛想良く微笑む。


「縁から大体の話は聞いています。写真に写りこむ男を処置しますので、僕の勤める病院に行きましょう」


 葉山は健を呆然と見つめて、震える唇で呟く。


「病院に行けば……なんとか、なるんですか?」

「なりますとも。それが仕事ですから」


 自信と確信がうかがえる言葉だった。そしてやはり、健の目の色が青色に変わっている。今度は見間違いではない。

 葉山は健の目の色が変わったことにはさほどの関心がないらしい。

「病院にいけばなんとかなる」という言葉を信じきって安心したように、ほっと肩の力が抜けた様子だ。

 葉山はゆっくりと立ち上がり、縁と芦屋に目を向けた。


「ごめん芦屋。あとのこと、頼むよ」


 久々に、葉山の落ち着いた声を聞いた気がした。

 芦屋は頷くことしかできなかった。

 そうして葉山は嵐のように現れた健に連れられて、アパートを出ていったのである。


 主人のいない葉山の部屋に残されたのは芦屋と縁の二人だ。


「よいしょ、と」


 縁はテーブルを挟んで芦屋の前に腰を下ろした。

 能天気な声に我に返って、怒涛の展開に何が何だかわからないままの芦屋は縁を問いただした。


「今の、なんだ? 月浪の兄さん、目の色が……」

を使うとどうしても変わっちゃうみたいなんだ。メガネのレンズ越しに見るとなんでか黒いままなんだけど」


 異能、という言葉を聞いても、芦屋は不思議とあり得ないとは思わなかった。ただ——。


「……葉山に何をした?」


 低く尋ねた芦屋に、縁は瞬いて微笑む。


「今回のドッペルゲンガーのような怪異は『解決できる』と強く信じればそれだけで解決できる場合がある。兄は異能を使って葉山くんと、それから芦屋くんにも自分を少しだけ信用させた」


「『異能を使った』と聞いても、案外すんなり受け入れてるでしょう。それこそ、兄の異能のせいですね」とおどけた様子で続けた縁に、芦屋は無言で肯定する。


「安心して大船に乗ったつもりでいてくれよ。 兄は葉山くんを治療するためにここに来たんだ。必要なら兄の務める病院の場所を教えてもいい……」

「大丈夫なんだな?」


 つらつらと言葉を連ねる縁を遮って芦屋は真顔で尋ねた。

 縁は流石に真面目な面持ちになって、息を吐いて答える。


「保証する。兄がなんとかすると言ったのなら、大丈夫」


 その顔に嘘はなさそうだと見て、芦屋はもう一つの疑問を縁に投げかけた。


「『芦屋くんをなんとかする』って、どういう意味だ」

「言葉通りの意味だよ」


 縁の目がチェシャ猫のように弓なりに細くなる。


「そして——今から荒唐無稽だが誓って嘘のない真実を語ろうと思う。私、月浪縁は霊能力者だ」


 ※


 縁が語ったのは幼少期の縁と健の身に起きた出来事を例にした、縁が霊能力者であること、霊媒体質という特異体質の持ち主であることを語る話だった。


 話の結びに縁は「さて、君にも語るべき怪談があるはずだ」と言った。

 意図も何も説明しない、唐突な問いかけだった。

 普通なら、芦屋は縁に応じて怪談を語るようなことはしなかったと思う。

 けれど、その時ばかりはなぜか語らなくてはいけない衝動に駆られたのだ。言葉をせき止めておくのが辛かった。

 だから芦屋は縁が言うところの怪談を、語った。


 自分の身に起きた出来事を初めから終わりまで語りきった今、精神的な疲労と裏腹に、やたらに体が軽くスッキリしているので、戸惑っているというのが芦屋啓介の現状である。


 そして、語っていくうちにわかったことがある。

 まずはわかったことを確認したくて、芦屋は縁に口を開く。


「月浪は、前もって葉山か俺を絵に描いていたんだな。その絵に怪奇現象が起きていることを示す〝赤いテクスチャ〟が浮かんだ。そうだろ」

「ご名答」


 縁は再びやる気のない拍手を芦屋に送ったかと思うと、あらかじめプリントしていたらしい写真をテーブルの上に置いた。

 差し出された写真を覗き込んで、芦屋は驚きに目を瞬く。


「これ、合格祝いの時の集合写真の……模写か」

「そうだよ」


 写真の中の縁の描いた絵には高校の制服姿の縁と芦屋の他、十人が予備校の前で笑っている姿が描かれていた。

 柔らかく、淡い色合いで生き生きと人間を写しとっているのだが、赤く、異様なテクスチャ汚れが被っている人物が二人いる。

 そのせいで、絵自体の調和が取れていない。

 それさえ除けば良い絵なのに——と考えたところでそのテクスチャが被っている人間が予想通り芦屋自身と葉山であるとわかって芦屋は眉を顰めた。わかっていたこととは言え、自分の顔にべったりと赤い絵の具らしきものが載っているのは気分がよくない。

 また、芦屋と葉山の顔を覆うテクスチャの程度には明確な差があった。

 芦屋の顔を覆っているのはモヤのように薄く、葉山の顔を覆うのはシーリングワックスをたっぷり垂らしたようなテクスチャだ。元の写真を知る人間でなければ葉山だとは判別できない状態になっている。

 確かに、今回の「ドッペルゲンガー」の怪異を彷彿とさせる絵だった。


「月浪が俺にこれまでの経緯を喋らせたのは、赤いテクスチャだけでは怪異の詳細がわからないから、だろうか」


 自分で言っておいてしっくりこない仮説だった。案の定縁は首を横に振る。


「いいや。実は芦屋くんに話してもらうことこそ私の目的だったんだ」


 芦屋は面白がるような調子の縁に眉を寄せた。


「どういうことだ?」

「『語るに落ちる』って言うでしょう?」


 縁は人差し指を立てて淡々と説明を始めた。


「これは他人から質問された時には警戒して漏らさない秘密を、自ら語り出した時には明かしてしまう、口を滑らせてしまうという意味だけどね。私は違う意味で使ってる。怪異の被害者は自分の身の上におきた怪談を話すことで怪奇現象を終わらせることができるんだ。『語って終わらせる』『落ちをつける』ことができるんだよ」


 そこまで言うと、縁はにこやかに告げた。


「つまり怪談が一種の除霊になるというわけ」

「理屈がわからん」


 話すだけで除霊になるとは、いったいどういうことなのか。

 頭に疑問符が浮かんでいる芦屋に、縁は「まあそう焦らずに」と笑って続ける。


 縁は怪談を用いた除霊のルールを端的に芦屋に明かした。

 一つ。除霊の対象となる人間に、怪異に取り憑かれていることを認識させること。

 一つ。怪異の名前と正体を突き止めること。

 一つ。怪談によって怪異への恐怖心を取り除くこと。


「なんでもそうだけど、自分の置かれている状況が理解できないから怖いし、自分に危害を加えるものの理屈が分からないから気味が悪いんであって、正体を解き明かしてしまえば恐怖は薄れる。怪異も同じだ。怪異にも怪異なりの行動原理ルールがある」


 ドッペルゲンガーならば本人が見たら死ぬ、というのがルールにあたるだろうか。

 腕を組んで考え込む芦屋を前に、縁は朗々と説明する。


「怪談は怪異を解体する。話せば話すほど恐怖は遠ざかり単純化される。代わりに理解が深まり理屈が通る。因果関係を解き明かしてしまえば、恐怖を覚えることはない。……こうして人から憑き物が落ちる」


 除霊の対象となる人間に怪談を語らせることで、怪異を「物語」の中に押し込め、怪異の神秘を削ぎ、力を弱める。

 怪異のルールを解明し、弱点をついて無力化する。

 最終的に、除霊の対象となる人間が怪異を恐ろしく思わなくなった時点で除霊が成功する。


「今回は私の兄が葉山くんをカウンセリングすることで怪奇現象は終わる。芦屋くんの前にドッペルゲンガーが現れることもない」


 と強く断言する縁に、芦屋の気が楽になったのは確かだった。


 しかし、そんなんで解決できる怪異ばかりではなさそうな気もする、という芦屋の感想がモロに顔に出ていたらしい。縁は「疑り深いね」と苦笑する。


「まあ、確かに語り手が意図的に情報を伏せたり、核心を話していない場合は除霊の効果もないし、ものすごく強い相手を怪談だけで祓うのは難しいけど、できないわけではない」


 だから縁は怪異の被害者たちと怪談を催すのだ。

 怪談によって怪異を解体するために、自らに起きた怪奇現象を語らせ、縁が聞き手となって怪異を祓うのだと言う。


「怪異を呼び寄せる霊媒体質でありながら、問答無用で怪異を払い除けるだけの強い異能を持たない私にできる、唯一の除霊方法がこの〝怪談〟なんだよ、芦屋くん。だからね、ほら、この通り」


 テーブルに置いた、絵画の写真を縁は指し示した。

 芦屋の目の前に置かれていた写真の中で、描かれた葉山と芦屋の顔に被っていた赤いテクスチャが、端から風に吹き飛ばされる塵のように、目の前で消え去っていく。

 芦屋は思わず写真を手にとって確かめるように裏にし、表にし、そしてテーブルに置いた。

 本当になんのタネも仕掛けもないただの写真だ。

 芦屋はこの超常現象を目の当たりにして改めて思う。

 月浪縁は、本物の霊能力者なのだ。


「うん。きれいに消えたね。よかったよかった」


 赤いテクスチャが剥がれたのを確認すると縁は満足げな笑みを浮かべた。

 それまで浮かべていたチェシャ猫のようなニタニタ笑いとは違う。穏やかな顔だった。


「じゃあ、葉山くんの部屋の戸締りをして解散にしよう。私が兄の病院にいる葉山くんに鍵を届けに行くから。ではではおつかれさまでした!」

「ちょっと待ってくれ」


 さっさと立ち上がり、この場を立ち去ろうとする縁を引き止めて、芦屋は問いかける。


「葉山は、なんでドッペルゲンガーに取り憑かれたんだ?」


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