第3話
学校を卒業してから琴子は、予定通りに華道や茶道のお稽古事をしながら、家事を手伝う日々を過ごした。
比較的時間があったので、三つ葉にもちょくちょく顔を出していたと思う。
そして三つ葉に行った日には日記帳に最近あったことを書き込んで、他の人が何か書いていないかページをめくってみたりした。
美鶴は結婚の準備でバタバタでまったく何も書いていない。
「あ……あった」
万喜の日記をひらくと、綺麗な字でおとといの日付の文字が書き込まれていた。
『Hi 親愛なる琴子、美鶴。お元気かしら。私は日々、英語を勉強しています。女学校の授業を聞き流してしたのを後悔しているわ。でも本当に面白いの。他の生徒は男性ばかりで、時々揶揄われるけど、きっぱり言い返したらもう寄って来なくなったわ。琴子さんが銀座で男子学生に喧嘩を売った時を思い出すわね』
「ふふ、万喜さんったら」
「楽しそうね」
日記を見てニヤニヤしている琴子の前に、ハーさんがみつ豆を置いた。
「ええ。万喜元気にしているんだなって」
「コトちゃんは何を書くの」
「私のことじゃなくて美鶴さんのことを書くつもり。美鶴ったら息が詰まるってうちに来るの」
「あらあら……実家にいられるのはあと少しなのに」
「なんでもお祖母様から嫁の心得をずっと聞かされるらしくて……」
琴子は苦虫を噛みつぶしたような顔をしている美鶴を思い出して、口に笑みを浮かべた。
「それは……まあ」
「うちは父母とは別所帯だし、心配ないって言ってるんだけど」
笑いながら琴子は、ここ数日の美鶴のことを書き込んだ。
そんな風に時折時間のある時に三人は三つ葉に通い、日記を綴っていった。
そして美鶴が花嫁衣装に身を包んで、天野家に嫁入りし、清太郎と美鶴の新婚生活が始まった。
「朝は一緒に朝食を作るんだけど、美鶴さんはしょっちゅう手を切ってね。それでもなんとか仕上げるんだけど、それを食べているお兄様はガチガチに緊張していて……」
琴子は美鶴と一緒に三つ葉に来てはその様子をハーさんに伝えていった。
「ちょっと! 琴子。恥ずかしいじゃない」
「でも日記に書くんでしょ」
「そうなんだけど……」
琴子の助けを借りながら、美鶴は家事を覚え、新生活に馴染んでいった。
万喜も熱心に英語の塾に通っていて、最初は揶揄っていた男子生徒とも普通に話すようになってきていたようだ。
「そろそろ三人でどこかに出かけようかしら」
そんな風に言っていたのに、三人はパタリと三つ葉に現れることはなくなった。
――関東大震災がおこった為である。
火災で丸焼けになった地域からは少し離れていたために、運良く家は無事だった。だが、天野紡績の支店は火災に遭った。
万喜のところも家の一部が倒壊して、家業の百貨店は大打撃を受けた。
こうして、琴子は心配した雄一から結婚を早めようと相談され、慌てて結婚をした。
万喜は震災で先生が亡くなってしまい、塾に通うことができなくなった。
復興の中で生活を立て直しているうちに、三つ葉へと向かう足は遠のいていく。
「……え、本当? 私もよ」
折しも同時期に琴子と美鶴の妊娠が分かった。
初めての子育てにばたばたとしているうちに、日記のことは記憶の片隅に追いやられていく。
そして万喜は……。万喜もまたその頃、人生の岐路に立たされていた。
あれから独学で英語を勉強していた万喜だったが、文通をしていたジョニーからの手紙を見て衝撃を受けていた。
「アメリカに来ないか……ですって」
それは唐突なプロポーズだった。
アメリカ、それはあまりにも遠い。親兄弟にもおいそれとは会えなくなるだろう。
でもジョニーには好意を抱いているし、なによりアメリカに行けば通訳になれるかもしれない。
だってアメリカは夢の国なのだ。
――こうして万喜は単身、アメリカに渡った。
それから日本は満州事変、盧溝橋事件を経て、国際社会から孤立し、戦争の道を走ることになる。
身を寄せ合って暮らす琴子たちの上にも、戦争の影は嫌が応にも降ってきた。
なんとかやりくりをして物資不足の中、子育てをする。
やがて雄一と清太郎には招集令状が来て、戦地へと向かっていった。
そしてアメリカにいる万喜は、日系人に対する厳しい差別と戦いながら、ジョニーとの間に生まれた二児を懸命に育てていた。
……そして、終戦。
長いこと日本への渡航が叶わなかった万喜だったが、ようやく帰ることが出来た。
そこでいの一番にしたのは、琴子と美鶴と連絡をとることだった。
再会した二人はずいぶん痩せて疲れた様子だったが、万喜の帰国を涙を流して喜んでくれた。
「本当に色々あったのね」
「ええ、でも生きててよかったわ」
再び泣き始めたハーさんの背を、万喜は優しく撫でた。
「あ、そうだわ。これ……ハーさんへのお土産に持って来たの。少しだけど」
「缶詰?」
「今ね……夫はGHQで通訳をしているの」
少し複雑な気持ちになるけれど、と言って万喜はハーさんに缶詰をいくつか手渡した。
「あのね、人手が足りなくて私も通訳をすることになったの」
「え……そしたら長年の夢が叶うのね?」
「ええ、この歳になって思いがけないことだけど。本当はアメリカでも話はあったんだけど、あの情勢で受ける気にはなれなくて。やっぱり私の心は合衆国ではなくて日本にあったんだと思うわ」
万喜の夫ジョニーはそのことを責めることなく、理解を示してくれていた。
遠く、極東の島国から嫁いできた万喜を気遣ってくれるジョニーに、万喜は深く感謝していた。
「それで……日記なんだけど長いこと預けっぱなしでごめんなさい」
これまでの暮らしを語った後、琴子はハーさんにおずおずと切り出した。
「ちゃんと引き取ります。これまで大変な中、預かってくれてありがとう」
「コトちゃん……いいえ、いいのよ。この日記を持っていたらいつか三人に会えるって、随分励みになったんだから」
「ハーさん」
「それにね、決めたわ。私、おしるこ屋を再開する」
えっ、と三人は唐突なハーさんの宣言に顔を見合わせた。
「そりゃ、まだまだ小豆も砂糖も統制が激しくて大変だけど、マキちゃんの話聞いてたら老け込んじゃいられないって思ったわ」
だから日記はもう少し持っていたい、とハーさんは答えた。
これから開くおしるこ屋に、日記の続きを書きに来て欲しいと。
「そういうことなら。ハーさん、私も手伝いたいわ」
琴子がそう言うと、美鶴も手をあげた。
「ハーさん、私も」
「いいわね。あのね、美鶴さんの作るあんこ、美味しいのよ。学生の時がうそみたい」
清太郎のために、とまだ存命だった祖母に聞いて美鶴は猛特訓したのだという。
「なるほど、そしたら物資の都合をつけなきゃね」
万喜は万喜でできるだけのことする、とハーさんの手を握った。
***
それから三年後――まだ日本は食糧難ではあったが、復興に向かっていた。
その日、琴子と万喜と美鶴は、ハーさんの家に集まっていた。
「さぁて、ミッちゃん。のれんを持って来て」
「はぁい」
通りから一本入った目立たない店。暖簾とカウンターが無ければ何の店かも分からない。
しかし、三人にとっては待望の、甘味処の開店だった。
メニューはおしるこだけ。
「さあ、開けるわよ」
「それにしても……いいの?」
「なあに、コトちゃん」
「店名……それって」
美鶴の手にある暖簾には、いつかのように申し訳程度に店名が書いてある。
それは――「四つ葉」と書いてあった。
「だってこの店はあんたたちとあたしの店じゃない。だから四つ葉。幸運の四つ葉よ」
ハーさんは美鶴から暖簾を受け取ると、表にそれを引っかけた。
「ああ、そうそう。あんたたちの日記なんだけどね。やっぱりあたしが預かっていていいかしら。あたしがあの世にいくまで」
「あら、しかたないわね。ね、琴子さん」
「そうね、万喜さん」
「随分と先になりそうだね」
三人は、返事をしながらククク、と笑った。
「ああ、楽しいわね」
ハーさんも、三人も皆全員、若い娘になったような心持ちでしばらくケラケラと笑っていた。
完
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