第6話

 どうしようか、と美鶴の手が何度も畳の上を彷徨った。


 土曜の授業が終わって、すぐに家に帰って来たものの、待ち合わせ場所に何を着ていいか分からない。


 このままズボン姿で行ってしまえ、と何度も思うがそれなら一度家に帰った意味が無い。


 美鶴は結局、薄い水色の地に十字絣のお召しを着て行くことにした。




「あれっ、美鶴さん。今日は洋服じゃないんだね」


 待ち合わせ場所に現れた美鶴を見て、清太郎は少し目を見開いた後、帽子に手をやりながらそう言った。


「……はい」


「まあ、いいか。ひとまずコーヒーでも」


 二人はカフェーに入った。その店は本格的なブラジルのコーヒーを出す店として知られている。湯気を立てるコーヒーを挟んで美鶴と清太郎は向かい合った。


「あそこのレディースルームには、なかなか先進的な女性たちが出入りしているらしいよ」


「へぇ……」


 その美鶴の反応に、清太郎は意外そうな顔をする。


「あれ、女性解放運動には興味ない?」


「興味は無いわけではないですけど、別に運動の為にああいう格好をしている訳じゃないというか……」


 男装は自身の自由のためであって、社会のためかと言われると、美鶴には自信がない。


「誰かのためじゃないんです。自分がしたくてしているだけで。そんな、私は……周りのこととか将来のこととかまで考えられなです。……まだ」


「……そっか。もしかしてそのことが聞きたくて今日は来たの?」


 美鶴は黙って頷いた。それから、どう切り出そうかと迷う。しばらくの沈黙の間、清太郎は静かにコーヒーを飲みながら待っていてくれている。


「清太郎さんは……私のことどう思います?」


 考え抜いて美鶴がそう切り出すと、清太郎はコーヒーを吹き出しそうになり、激しくむせた。


「ごほっ、ごほっ……! 失礼。ええと、どう思うってのは……」


「いや! あの、違うんです!」


 清太郎の言葉に美鶴はもしやとんでもない誤解を生んでしまったのかもしれない、と慌てて両手を振った。


「その、清太郎さんは男装していても変な顔しなかったじゃないですか。それどころか褒めてくれました。周りにそんな男性はいないものですから」


 美鶴が改めてそう聞くと、清太郎は顎に手をやり思案顔をして答えた。


「そうだね……前にも言ったと思うけど似合っているからね。仕事柄、布地に関わることは頭に入れるようにしているのだけど、今は本当に流行が目まぐるしい。断髪もズボンも今に当たり前になるかもしれないよ」


「だから平気だってことですか?」


 とりあえず、清太郎は妹の友人だから気遣ったという訳ではないようだった。


「新しいものに頭から変だ、けしからんとは思いたくないと思っているよ。時代の波に置いて行かれたら僕らの商売はおしまいだからね。実際、外国の人に髪の短い女の人も見たことあるよ」


 美鶴はそっと耳のところで切りそろえた髪に手をやった。


 清太郎の様子を見ていると、口先ではなく本当にそう思っているように見える。もし、琴子が髪を切りたいと言っても、清太郎は気にしないだろうと思う。


「学校は楽しいかい?」


 唐突に清太郎が聞いてきた。


「はい、楽しいです」


 その言葉には、美鶴はすんなりと答えることが出来た。万喜や琴子をはじめとした級友たちはもちろん、お説教をしてくる教師たちだって嫌いじゃなかった。


「琴子さんともとっても仲良くなって嬉しいです。私、学校だとなりたい自分でいられるんです」


「それってどんな?」


「ええと……明るく強くいられます。みんなが私を見てくれるから」


 学校では、男装をした美鶴を咎めることなく、級友もその他上級生や下級生も、ちょっと変わった人物として興味を持ってくれる。教師だってなんだかんだ言って教え導く存在として、気に掛けてくれている。


「それってそうでない時は、そんな風にしていられないってことか」


「うん……そうかもしれません。今日も何を着てくるか、とても迷ってしまいました」


 清太郎は、ああそれでと小さく呟いた。


「だから今日はズボン姿じゃないんだ」


「ええ……」


 自分と歩いていたら清太郎が奇異な目で見られるのでは、と結局男装は出来なかった。


「だから女性活動家とか、そういうのとは違うんです」


 美鶴はそんな自分が少し恥ずかしかった。世の中には偏見や時に罵倒に耐えて、己を貫く女性もいるというのに、美鶴は学校という籠の中でしかそう出来ない。それがなんとも半端なように思えて自分が恥ずかしくなった。


「自分の好きな時にしたい格好をすればいいよ」


 しかし清太郎は優しくそう言った。美鶴はぐっとこみ上げるものを感じて、気がつけば一筋の涙を流していた。


「ご……ごめんなさい」


「どうして謝るんだい?」


「い、家でこんなこと言ってくれる人が居なくて……皆、私の気持ちになんか無関心で口うるさくやめろやめろと言うばかりで……つい、こんな……泣いたりして」


 そう言いながら、涙が止まらない美鶴の前に、真っ白なハンカチが差し出された。


「これを使って。ご家族からきつく言われるのは辛いだろうね」


「……ありがとうございます」


 そっと目元に当てた柔らかな木綿のハンカチの感触は、清太郎そのもののようだった。


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