第14話
翌日、三人は昼過ぎにふらふらよろよろとお腹を抱えて学校を後にした。
「そろそろいいかしら」
「いいと思う」
「ふう~」
学校からかなり距離を取って、三人はようやくまともに歩き始めた。
「絶対怪しいと思われたと思うよ。こんな三人してお腹壊しましたので早退します、なんて」
「あら、割烹の授業で美鶴さんが作ったカスタードプディングを食べたらお腹が痛いって言ったらなるほどそれは災難だったね、と先生に言われたわ」
「琴子……」
「それにしても抜け出すのは私一人で良かったのに、万喜さんに美鶴さんまで……」
今日は雄一と決戦……いや、話し合いを持つつもりなのだ。だから万喜や美鶴が付いてくる理由はない。
「でもあちらの学校まで距離あるでしょう。琴子さんは一人で都電に乗れないんじゃないかと」
「そこはなんとか……」
「万喜はなんとか理由をつけてギリギリまで側に居たいだけなのさ」
「ほら、都電の駅よ」
結局琴子は万喜と美鶴に手を引かれながら、えっちらおっちら都電に乗った。汽車と違い、町中をゴトゴトと進む都電の中はなんだか不思議な感じである。琴子には街が生き物のように動いているように見えた。
「きたはら……ゆういちさん……」
そしてこの都電の五つ先の駅に、雄一の高等学校がある。琴子は胸がもやもやした。どうしようやはり帰ろうか、と引き返したくなる。すると、美鶴が琴子の手をキュッと握った。
「大丈夫だよ」
「美鶴さん……」
「琴子の後悔のないように、今の気持ちのまま雄一さんに伝えるんだ」
「ええ……」
琴子は頷いた。そして都電を降りる。高いビルディングなんてあまりなくて緑が多い。少し東京の中心を離れただけで随分と鄙びた感じになるものだ、と琴子はあたりを見渡した。
「ほら、そこの木立なら少し影になって目立たないわ」
万喜が指す木のあたりに三人は待機した。じっと雄一の通りかかるのを待ちながら、琴子はあることを思い出した。
「あ、万喜さん手鏡をお持ちかしら」
「ええ、あるけれど」
「貸してくださる?」
「ええ……」
そうして琴子は耳の上に先日買ったマーガレットのピンを挿した。
「ん、ありがとう」
「似合ってるわ」
おまじないという訳ではないが、琴子はそれでちょっとだけ強くなった気がする。そんなことをしている間に、見覚えのある人陰が見えた。
「あれ……」
「ああ、間違いない」
美鶴も頷く。琴子は二人を振り返った。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ。万喜も私もここで見守っているからね」
琴子は意を決して、目をぎゅっとつむりながら道の真ん中に躍り出た。
「あ、あのっ……!」
「あ……」
恐る恐る目を開けると、そこには驚いた顔の雄一と見覚えのある雄一の学友たちがいた。
「お前!」
「……だまってろ、坂田」
最初に吠えたのは琴子に脛を蹴られた生徒である。雄一は一言でその生徒を制すると、視線を琴子に戻した。
「何か文句があれば来るように言ったっけ……それとも……」
「文句は……ありません」
「そう……文句ではない……と」
「ちょっとお話したいことがあるんです。お時間をいただけませんか……北原さん」
琴子は思い切ってそう切り出した。
「おおっ、近頃の女学生は大胆だな」
「坂田、お前は本当に一言多いな。お前ら先に帰れ。俺はこの人と話すことがある」
「えっえっ……?」
「……この人は俺の婚約者だ」
「えええっ?」
目を白黒させている学友達を置いて、雄一は先に進んだ。琴子はその後を追いながら、こっそりを後ろを振り向く。すると万喜と美鶴が小さく手を振っていたのでこちらも小さく振り返す。
「あの、いきなりすみません」
「いえ……」
それきり沈黙が訪れる。雄一は前をずんずんと歩いていく。
「あの……」
「この店でいいですか」
そこは学生で賑わうミルクホールだった。
「……ええ」
そしてその時、琴子は雄一の耳が赤くなっていることに気付いた。
「ごめんなさい、私のせいでご学友にからかわれてしまったわ」
「それは……別に……とにかく入りましょう」
「ええ」
二人はミルクホールに入ると、それぞれ注文した。
「改めて……北原雄一です」
「あ……天野琴子です」
雄一と琴子はぎこちなく会釈した。そんな二人の前に牛乳が出てくる。
「あ、牛乳は好きでしょうか」
「まあ嫌いではないです」
「私は毎日飲んでいます、体に良いって聞いて……配達を頼んでいるんです」
琴子はいったい何から切り出したらいいのか、と考え込んでしまった。とりあえず縁談の事から切り出すべきか、そんな風に迷っていると雄一が口を開いた。
「日曜日、自宅に帰ったら縁談の話を聞かされました。……驚きました」
「私もです」
琴子がそう答えると、雄一はじっと琴子を見て聞いて来た。
「どう思いましたか?」
「あのっ、そうですね……うちは父が田舎にいて、東京の家の兄から……最初、北原さんのお名前を聞かずに縁談の話だけ聞いて……まだお嫁入りは嫌だ、と思いました」
雄一はじっと琴子の話を聞いていた。
「それから俺の名前を……?」
「ええ……」
「そのっ、ご無礼をしまして……破談もやむなしと思っております」
「俺は……ちょっと嬉しかったですけどね」
「え……」
琴子は雄一の言葉を思わず聞き返した。
「坂田に言い返す天野さん、あんたの度胸は大したものだったなと思って」
「それは……」
「でも、そちらが嫌なら仕方ありませんね。なんとかこちらから断ります」
雄一が立ち上がろうとする。琴子はその手を思わず掴んでいた。
「待って! 違うの……」
「あ……」
「あっ」
琴子は雄一の手を思わず手放した。
「わっ、私、いっぱい考えたんですけど、北原さんの事が嫌なのじゃなくて……その……お嫁入りや、婚約することで東京観光がこれ以上できないかと思うと嫌なだけなんです」
「……ふ」
「ですから北原さんは悪くないので……えーと……」
「ふふふ……はっはっは……」
「な、なんで笑っているんです!?」
「いや……俺と似たような事を考えていたんだなぁと」
雄一は席に座り直した。そして琴子を真っ直ぐに見つめ直すとこう言った。
「俺達は気が合うかもしれませんね」
その言葉に、琴子の顔は真っ赤に染まった。
「あ、あ、あ……あの」
琴子の声は蚊の鳴くようだ。
「それで、あ、あ……」
「このままでもいいんじゃないですかね」
「え……」
「琴子さんは東京見物がしたいんですっけ。なら俺が付いて行けばいいんですし」
琴子は雄一の考えがまるで分からなかった。
「でも! こんな若さで親に将来を決められるとか……嫌じゃないんですか?」
「うーん、でも俺は跡取りだからいずれお嫁さんを貰わなきゃいけないし、琴子さんのことは嫌じゃないし」
「私も嫌ではないです……」
つまりお互い破談を画策するほど相手が嫌でもないということだ。琴子はふうと息を吐いた。
「こんな感じ……なのかぁ」
「ふふふ。天野さんはおもしろいなぁ」
「ほら、親に反抗して家出とか、誰かと駆け落ちとか、なんにもないと思ったら」
「それは新聞記事か小説の読み過ぎでは……」
雄一はこんな琴子のばかな考えを笑って聞いてくれた。それだけで、琴子は今日ここに来て良かった、と思えた。
「……私、そろそろ帰ります。次に会うのは週末ですね」
「そうですね。……天野さん、下の名前で呼んでいいですか。琴子さんと」
「あ、はい……雄一……さん……。では、と、と、友達が待っていますんで!」
琴子は雄一の名前を呼ぶと急に気恥ずかしくなって、席を立った。そんな琴子を雄一は店の出口まで見送った。
「また」
「ええ、また」
そして退屈そうに待っていた親友たちの元に琴子は駆けていった。
「お待たせ」
「お話、できた?」
「ええ」
「どうでしたの?」
美鶴と万喜が琴子を覗き混んでくる。
「……道々話すわ」
琴子はそう言って駅にやってきた都電に乗り込んだ。席についたところで、琴子はふたりに雄一とのやりとりを説明した。
「それじゃ、結局このままってことになったの」
「うん……雄一さん、同級生を蹴り上げたことも怒ってなかったし、というか面白がっていたわ」
「それは……度量のある学生さんだ。琴子にはちょうどいいのかもな」
「ちょっとどういう意味!?」
姦しい三人を乗せて、都電は夕暮れの町を進んで行った。
「ただいまぁ」
「琴子か、お帰り。さあ夕飯だよ。手を洗っておいで」
「あ、はい」
家に帰ると、清太郎が辛気くさい顔で出迎えてくれた。今日も琴子は体を大きくしようともりもりと夕飯を平らげる。
「タマ、おかわり!」
「はい、お嬢様」
「お兄様、煮物食べないならください」
「はぁー……」
琴子が夕飯にあまり手をつけない清太郎にそう声をかけると、清太郎は盛大にため息を吐いた。
「……お兄様」
「お前はいいねぇ……僕は琴子の縁談のことで胃がキリキリしているというのに」
「あ、それなんですけど。破談はなしになりました」
「は?」
清太郎はきょとんとして琴子を見た。
「さっき、雄一……さんと会ってきて、お互いこのまま婚約でいいだろうって話してきたんです」
「琴子! ……お前ってやつは……お前ってやつは……」
「お兄様、御髪が汁に入りますよ」
ほーっとして前のめりに息を吐いた清太郎に琴子はそう声をかけた。
「ご心配お掛けしてもうしわけありませんでした」
「まあ、よかったよ。……これで父上の雷を食らわなくてすむ……」
琴子は清太郎に悪いことをしたな、と思いながら残りの夕食をかき込んだ。清太郎も重たい気持ちがふっきれて食欲が戻ったようで、やっと箸をとった。
「雄一さん……雄一さんか……」
その後、風呂に入って寝間着に着替えた琴子は、布団の上でぼそぼそと雄一の名前を呟いた。それが夫となる人の名前かと思うとなんだかむずがゆい。
「やだ、もう……寝ましょ」
琴子はどこか浮かれている自分を自覚しながら布団の中に潜り込んだ。
――その後、大騒ぎになることなど、知らずに。
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