第9話

「ただ今帰りました」


「こっ、琴子! やっと帰ってきたか」


 家に帰るなり、琴子はなんだか大慌ての清太郎に玄関先で出くわした。さほど遅くはなっていないはずだ、と思いながら琴子は靴を脱ぐ。


「どうしたのお兄様」


「あ……ああ……その……とにかく上がりなさい」


「はい……?」


 琴子は清太郎の様子を怪訝に思いながらも一旦自室に荷物を置いて、居間に向かった。


「琴子、まずは座って」


「はい」


 琴子が居間のソファーに座ると、清太郎はひとつ咳払いをしてから言葉を続けた。


「いいかい、落ち着いて聞くんだよ……先刻、父上から連絡があって……お前に縁談が来たそうだ」


「ええーっ!? え、えっ縁談?」


 予想外の話に琴子は大声を出してソファーからずり落ちそうになった。


「だから落ち着けって……それで父上が来週上京するそうだ」


「父上が……」


 この清太郎の様子や、父上の上京ということを鑑みるに嘘やからかいの類いではないことがよく分かった。


「だ、だけんどまだ東京に来て間もねえのに……」


「お相手は東京の方だそうだ」


 その清太郎の言葉に、琴子はピンと来た。父が、いかに跡取り息子が心配だとはいえ、琴子をあっさりと東京にやった理由が透けて見えてしまったのだ。


「もしかして端からこっちで縁談があったから、私を東京に行かせたんじゃ……」


「ううーん、そうかもなぁ」


「嫌よ! 私まだまだ女学校に通いたいもの。お嫁入りなんて……お嫁入りなんて……」


 琴子はせっかく出来た愉快な友人達と、こんな早々に別れ別れになるなんてとても耐えられない、と拳をぎゅっと握った。


「琴子、話は最後まで聞きなさい。あちらさんも学生さんで、お嫁入り云々はまだ先の話だそうだ」


「ほ、本当……?」


「ああ。父上の古くからの友人の息子さんで、年が近いから良かろうと……そういう話になったそうだ。ま、婚約者という訳だな」


「そ、そう……ですか……」


 すぐに嫁入りで女学校を辞めるはめにはならなそうだが、琴子はずーんと気分が重くなった。婚約者がいたら、やはり身を慎んでおくべきなんだろうか、と。せっかくの東京暮らしなのに、家と学校の往復ではあまりにつまらない。


「琴子、大丈夫かい?」


「あんまり大丈夫じゃありません」


「まあそうだろうね。ただまあ、一度父上の話を聞いてみてやっておくれよ」


「……はい」


 浮かぬ顔の琴子に、清太郎はやさしく語りかけた。


「さ、話はこれでお仕舞いだ」


「では、夕食まで部屋にいます……」


「うん、そうしなさい」


 琴子はさっきまでの銀座見物で浮かれた気分が嘘みたいにしぼんで、とぼとぼと自分の部屋に戻った。


「婚約者……か……」


 畳んである布団にもたれて、琴子はぽつりと呟いてみたがまったく実感がわかない。今日の買い物の中からマーガレットのピンを取りだして、眺めてみる。ついさっきまで楽しく銀座観光をしていたというのに……。


「それにしても父上! 我が子をだまし討ちするような真似をして!」


 琴子はそうわめくと、ここにはいない父の代わりに枕をひっぱたいた。


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