2.半竜人族の少女、五龍に見《まみ》える。

“幻想龍”に連れられて、明るい光の差し込む廊下を歩いていく。

「よく頑張ったわね。

 動けぬ母の為、これだけのことを今まで耐えて生きてきた貴女は竜人族の誇りです。」

その“幻想龍”の声に、自然とウォルの目からは雫がこぼれ落ちた。

彼女の腕がウォルをしっかりと抱きしめる。

ウォルは初めて自分に甘えられる存在がいることを知った。こんなことを言ってくれる、抱きしめてくれる大人は初めてだったからだ。今まではベッドに横たわる母と会話をする程度だ。ましてや弱音を吐いて泣きつくことなどできるはずがない。

そんな存在を手放さないように…ウォルは無意識に“幻想龍”のローブをしっかりと握った。

「これから他の五龍がいるところに行くけど、何も心配することはないわ。

 みんな何があったか分かってる。みんな必ず貴女の味方になってくれる。」


ウォルの情報が国中を駆け巡った時、仙天楼の五龍である彼らにも情報が上がった。

“原初”、全ての龍、竜、そして竜人族の祖である彼は、彼の子孫である全ての者と『魂の鎖ソウルリンク』を繋ぎ、その経験や思考、記憶を見ることができる。その力は本人の自覚外にまで及び、彼の意志を飛ばせば相手を意のままに操ることまで可能なのだ。

その力でウォルの記憶を見た彼は竜人族のひとり、アクスト・ヴァイケイル・ゼ・ドラギアと最も近しい存在であることを突き止めた。その情報を受けてアクストは姪が保護された地へと赴いたのだ。


扉に突き当たり、“幻想龍”は目の前のその扉を押し開く。

その先はとても大きな広間だった。おそらく宮殿を正面の門から入るとここに続くのだろう。ウォルは涙で濡れて不鮮明な目で周りを見回した。

扉を開閉した音が反響し、大きすぎる空間に吸われてゆっくりと消えていく。

壁には等間隔に二頭の龍の紋章がはためき、床には幅が広すぎるほどの赤いカーペットが敷かれている。

ウォルと“幻想龍”はそのカーペットに沿ってさらに奥に進んでいく。コツコツ、コツコツと規則的に響く足音に、ウォルは少しずつ平静を取り戻していった。

頬の涙を服の裾で拭き、“幻想龍”に歩調を合わせて進んでいく。

先ほどまで国中からの畏敬を一身に集め、遥か上を悠々と飛んでいた“幻想龍”と二人きり、それも肩を支えられて宮殿の中を歩いているのだ。少しだけ、ここに私はいていいのだろうかという不安の気持ちも起こったが、ふと横を見上げて“幻想龍”の顔を見た瞬間そんな些細な気持ちも吹き飛んでしまった。

叔父の隣で地上から見上げ、見惚れていた存在がそこにいる。龍と人と、姿は違えどその纏う雰囲気はまさしくあの心の煌めきを想起させた。

『私も、こんな風になりたい。秀麗でどこか儚げな雰囲気。優しくて、自分みたいな存在にもこうやって寄り添ってくれるこんな大人の竜人に…。』

仙天楼の五龍である“幻想龍”に及ばないことはわかっている。それでも、少しでも彼女に近づきたい。心だけでも、こんな存在に…。

廊下を歩く間、ウォルの思考はその想いに支配されていた。

大広間の突き当たりには、階段とその奥に大きな扉があった。やはりここは謁見場なのだろう。振り向くと反対の扉が遥か遠くに見えた。

ウォルは目を瞑って想像する。

天井に連なる飾り燈シャンデリアは煌々と輝き、明るい光に包まれた大広間。この扉の向こうから姿を表す『仙天楼の五龍』。カーペットを挟んで左右にはこの国の重鎮たちがひしめく。目の裏に浮かんだ圧巻の光景にウォルは感動を覚えていた。

二人はそのまま階段を上がり、扉の前に立つ。“幻想龍”が手を振って龍力を扉の取手に放つと、ゆっくりと扉が左右に開いた。

少し小さめだが、シックな装飾で統一された部屋。待機部屋だろう。二人はその部屋も素通りし、さらに奥の扉に向かう。

その先は、なんと大きな柱が等間隔に聳え立つ、開放的な半廊下が広がっていた。左右、そして真っ直ぐに進む渡り廊下。一歩先には芝生。さらにその先には見たこともないような草木が植えられた庭が広がっていた。

直線の渡り廊下の先には円形の離れのような建物がある。“幻想龍”はそこを目指しているようだった。近づくにつれ、笑い声を含む数人の声が聞こえる。

硝子ガラスと金属線で作られた透かしの飾り扉を開け、二人は部屋に入っていく。

円形の建物の中にあったのは五角形の大机。ちょうど入った扉に角が向くように、ウォルから見て逆五角形に置かれている。その各辺にはひとつづつ大きな椅子が置かれていた。

「来たか。」

そう言って円柱に寄りかかって笑っているのは片眼鏡の青いローブの青年。

「そちらが例の話のウォルちゃんね。」

続いて声を上げたのは左側の椅子の肘掛け・・・に座っている白い長髪のお姉さん。

『でかっ!』何が、とは言わないがそう声が出てしまうような『ドラゴンボディ』だ。

その椅子には杖をついた赤銅色の髪の老人が座っている。“白金龍”の左手はその老人の肩に伸びていた。

「歓迎するぞ勇敢なる半竜人族の娘よ。」

右の方からはそう声が飛ぶ。見ると黒い服に身を包んだ禿頭の男性が立っていた。


龍が人の姿を取る時、その容姿は遺伝で決まる。

龍にとって形態を変更することは、例えば人間が水中に入って泳ぐために浮かぶ…その程度の行為なのだ。人の姿は地上での適性形態として生活に組み込まれている。着ている服も形態を変化する際に龍力で作り出している物だ。また、龍形態が最も核となる姿であることから、人の姿においては髪の毛や服の色は鱗と同じ色となることや目の色は変わらないなど元の姿を想像して多少は誰かの判別ができるようである。

さて、龍の下位種族である竜はと言うと…。竜の中にも人の形態を取ることができる個体は存在する。だがそちらは長年の修行の末に身につけることができる派生的な特殊技能なのだ。一般的な竜は竜の姿しか取ることができない。近年では竜の中で、人の姿になることが成体となる通過儀式となっていたりする。

さらにその下の竜人族はと言うと、いにしえに眷属を生み出そうとした竜が竜としての強さと人としての利便性を掛け合わせたが故に生まれた種族という経緯がある。


「揃ったことだ。始めるか。」

片眼鏡の青年の合図で、思い思いに過ごしていた四人はそれぞれの椅子に向かう。

今入ってきた半廊下の反対側、大きな紋章の下には片眼鏡の青年。その左には老人が座ったままで、右手には白髪の美女が移動して座る。黒衣の男性は扉から見てすぐ右の席。

『私はどうすれば…。』そう思っていると、“幻想龍”がそのまま手を引いて左にある椅子のところまで向かった。

「あら、座るところが必要ね。」

彼女はあたかもそこに初めからあったようにもうひとつ小さな椅子を取り出すと自分の椅子の横に置く。

「さ、ここにお座りなさい。」

「は、はい。」

そう声をかけられウォルは緊張しながらその椅子に浅く腰掛けた。無意識に両手両足が揃う。背筋が今までで一番伸びていた。

見回して全員が座ったことを確認し、初めに喋り始めたのは片眼鏡の青年。

彼こそは“世界龍”。纏う服と髪色が鱗の色と同じだ。

たとえ鱗の色を抜きにしても、圧倒的な存在感。確実に“世界龍”だと分かっただろう。龍形態の時のように、自然と集まった半透明の神力が彼の周りをゆっくりと渦巻いている。

「メレイズ王国…。彼の国は我がエンデアとの相互国民保護の条を結んでいたはずだが?

 それに竜人族保護の誓約もある。国自体がそれを破棄したのか。」

「儂も話を聞いて即座に力を飛ばしたが、竜人族は少ないようだ。

 だが中には奴隷のような身分におる者もおる。遠方かつ交流の乏しかったことが仇となったか。」

続けたのは老人。“原初”だ。溢れ出る金色の龍力は別として、近くに座るウォルの目からも音足らずな声や動作からかなり衰弱しているのが分かる。それでもその眼光は鋭さを隠しきれていない。

「そうであれば早急に竜人族の保護に乗り出す必要があります。このまま派兵しますか?あの程度の国家であれば即座に占領可能ですが。」

語気を強め黒衣の男性が“世界龍”に問いかける。“祈龍”がその手に取り出したのは水晶球と金属でできた置物のようなものだ。

“世界龍”それを手で制しながら答える。

「黒衣集の派遣でいいだろう。話が終わり次第動かす。」

「それならば問題ないでしょう。保護対象は少数であるようですし。

 ただ、彼女の母親も保護するのであれば本人の同行も必要では?」

白い髪の美女が同意する。そしてその目をウォルに向ける。

「そこは私が行きます。」

“幻想龍”だ。

「いいだろう。

 であれば、直ぐにでも黒衣集と共にメレイズ王国に向かった方が良いやもしれん。

 しばらく“幻想龍”がその少女の面倒を見ることにすればいい。おそらくは“幻想龍”が一番慣れているようだからな。」

“世界龍”はウォルの方を向いて微笑んだ。

「黒衣集を派遣してメレイズ王国内の竜人族の保護と護送。“幻想龍”は少女と共に彼の国に赴き、その母親を承認契約の後に保護、護送。当初は人間の子供たちと共に特使を派遣するとしていましたが、危険性や緊急性を考慮してそちらとは別の動きにしましょう。」

五人、いや、五龍はもう一度計画を反復するように頷き合うと、一斉に席を立つ。

“世界龍”は建物の外に広がる芝生の庭に向かって声を上げる。

「集え。」

その瞬間彼を半円に囲むよう、芝生に黒いローブとフードの集団が現れた。“幻想龍”のようにその場にいきなりだ。

「命ずる。

 優先度第三位『“幻想龍”、そしてそこの少女ウォルと共にメレイズ王国に赴き、彼の国に存在する竜人族そして少女ウォルの母親を保護、護送せよ。』

 優先度第一位『“幻想龍”と少女ウォルの護衛。』以上だ。行け。」

黒い集団は一斉に首を小さく縦に振って同意を示すと、現れた時と同じようにかき消えた。

“幻想龍”は驚いたように声をかける。

「優先度第一位をいただいていいのですか!?

 私であればこの娘を守りながら行動できますが…。」

「ああ、良い。

 近頃人間族を主体とする国家間で微々たるものだが世界則の変化が見える。大事にはならぬであろうが、嫌な予感がする。こう言うものは当たりやすいのでな。

 君はともかく少女ウォルは対抗手段を持たないであろう。」

“世界龍”は振り向きざまにそう返す。

「ありがとうございます。感謝します。」

一礼し、うんうんと頷く“世界龍”に見送られながら再びウォルと“幻想龍”は共に元来た半廊下に出る。

“世界龍”から出た『世界則』という不穏な単語に底知れぬ不安を抱えながらも、ウォルの足取りは少しづつ軽くなっていった。

ウォルが自然とその場にいた先ほどの簡単な会議は、この国の最高位の決定であることは明らかだった。知識が全くないウォルでも最強、またはそれに匹敵する力を持つと解る五龍の口から『母親の保護』という言葉が出たことに無上の安心を覚えていたからだ。

二つの扉を通り、あの大広間に戻ってきたとき、突然“幻想龍”が伸びをして砕けた口調で話しかけてきた。

「あー、疲れたぁ…。あ、私のこと、“幻想龍”と呼び続けるのはなんか他人行儀ね。ステアと呼んでちょうだい。ほんとはもうちょい長い名前があるんだけどね。私も貴女のことはウォルって呼ぶわね。」

突然の提案に驚きながらも、嬉しさが優った。初めて名前を呼び合える存在ができたのだ。

「はい!ステアさん!」

そう大きな声で答えるウォル。

「ふふ、やっぱり名前の方がいいわね。それにしても…。さっきの集まり、無事終わってよかったわ。」

不思議そうな目を向けて見上げるウォルに気づいたようだ。ステアが続けて説明する。

「さっきの五人、同じ机に座っているけど結構差があるのよ。

 私とストラ、あ、“祈龍”のことね…はほぼ同じ立場だけど、オリガさんとアズウェンさんは私にとって親のような存在。

“世界龍”ルイン様は…。差がありすぎてなんて言ったらいいかわからないわ。強いて言うなら自然現象?そんな感じ。」

ステアの笑い声が大広間に響く。


実際にその認識はあながち間違いではない。“世界龍”は、『龍』とついているもののその姿が東洋龍であることから分かるように“原初”とは全く別の存在なのだ。

その正体はまだ明かさないでおくが、仙天楼の五龍の関係を示すとこうだ。

“世界龍”と“原初”がそれぞれ個々に発生する。“世界龍”が己の権能を用いて“白金龍”を創造する。“原初”と“白金龍”が婚姻を結び、二人の間の子が龍として生まれる。子の内の二龍が特殊な力を獲得し、“幻想龍”、“祈龍”となる。

龍は眷属として竜を生み出し、竜は眷属として竜人族を生み出した。長い年月を経てその関係は主従から生活を共にする仲間へと変わっていった。


「五人で話しているように見えて、やっぱり決定権はルイン様が持ってる。

ルイン様は友人の立場でと仰るけど、流石に私がそうできるわけないじゃない。」

ウォルの目からはあの場にいた五龍には“世界龍”以外に隔絶とした差は感じられなかったが、“幻想龍”がそう言うのだ。当人からすると明らかなのだろう。

そう笑いつつ、二人は大広間を進む。そのまま叔父のいる部屋まで戻ると思っていたウォルは、ストラが来た時に通った扉を無視してそのまま真っ直ぐ進んだことに驚いた。

「大丈夫、アクスト・ヴァイケイル、ウォルの叔父さんにはもう話は行っているわ。

 ルイン様が直ぐにメレイズ王国に向かうようにと判断された。もしかすると一刻を争うことになるかもしれない。」

二人は自然と早足で歩いていた。

ストラが手を振る。大広間の正面の大扉が音を立てて開く。その外には左右にあの大鐘とその先に街が広がっていた。

これでもかと横に伸びる長い階段を降りていく。

全てが白で統一された階段と平面空間。ここはあの大通りを進んできた終着点のようだ。

『これだけのただ広いだけの場所は何に使うのだろう…。』

そこでウォルは思い出した。自分が朝見た光景、円門から飛来する“白金龍”の姿を。あれだけの巨体は広い場所がないと着陸できない。おそらくここは五龍が龍の姿から人の姿へと変わる時に使う場所なのだ。

中央に豆粒のように黒い点が見える。

「あれは…飛空車?」

「そうよ。あれは飛空車の中で最速、長距離航行もできる。さ、跳ぶわよ。」

ステアがウォルの肩に手を回して引き寄せる。次の瞬間、二人は飛空車の目の前にいた。

周囲には黒いローブの人たちが控えている。先程“世界龍”の命を受けた人たちだと分かった。


黒衣集、それは“原初”と“白金龍”に最も近い龍で構成された集団。

仙天楼の五龍には劣るが、莫大な神力を有し、悠久の時を生きてきた怪物たちの集まりだ。

エンデアの盾となり、鉾となり、さらには耳としての活動も行うプロフェッショナル。全数は“世界龍”のみが把握しており、彼の力を分け与えられているとされている。

二十九評議会に従う国軍とは異なり、五龍のみが命令権を持っている。

“幻想龍”と“祈龍”は、今の力を得なければここに所属していただろう。


「彼らは黒衣集。“世界龍”及び仙天楼の五龍直属にしてこの国の最後の砦。」

そのストラがウォルに紹介する声に合わせて全員が“幻想龍”に頭を下げる。

一番近くにいた人がフードを脱いでこちらに一歩踏み出した。銀の髪を後ろで一纏めにしている、髭を生やした男性だ。

「ステア・イリアル・ディヴィア・ラ・イル・エーズーレーン様。“世界龍”の命により護衛いたします。」

『誰?名前、なっが!』

音を反芻してみると、一番初めに『ステア』と言っている。“幻想龍”のフルネームのようだ。

「ステアでいいわ。私よりもこっちのウォルの方の護衛をお願いしますね。」

苦笑いしながらステアが言う。

「すみません、イリアル様。規則でしてこればかりは。」

彼も含み笑いでそう返す。

次にウォルの方を向いて右手を差し出した。

「こんにちは。

 私はホールン・サイルヴァ・ラ・フォル・ドラグ。ホールンと呼んでください。」

ウォルは恐る恐る伸ばされた手をとって握手をする。何気ない握手だったが、その瞬間、ホールンさんが莫大な神力を持っていることに気づいた。

普通に見ているだけでは覇気オーラも出ていないが、触れた瞬間にそれがわかった。

『ストラさんとは別の方法で神力を制御しているんだ!』

ホールンさんはそのままウォルの手を引いて飛空車にエスコートする。彼に支えられて乗り込むと、中には応接間かと言うような空間が広がっていた。馬車の車輪を取り外し、流線型に加工した無骨な外観とは違い、豪華な家の中にいるような感じだ。

後からステアが乗り込み、扉を閉める。飛空車に外付けされた前後の踏みステップに黒衣集の龍が立つのが見える。

「それでは。」

外にいるホールンさんの声がやけに鮮明に聞こえた。

飛空車が急上昇する。そのまま大通りの真ん中を滑るように走り出した。

反射的に窓のそばに行って外の景色を眺めてしまう。

すると急に飛空車の下に銀色の何かが見えた。それは巨大な銀色の鱗の龍。ゆっくりと滑空して下から飛空車を追い越し、前を飛び始める。その大きさは“白金龍”と比べてもひとまわり分小さいだけの巨体。

「前を行くのはさっきのホールンだ。“銀角龍”と呼ばれている。」

ステアの声に前を見ると、確かにその銀の龍は二本の立派な角を持っている。

ウォルは神力が大気と混じってその角の周りに渦巻いているのが見えた。鐘は鳴っていないので大通りは多くの竜が行き交っているが、中央部を優雅に滑空する巨大な銀の龍は五龍に劣らずその威容を誇っていた。小さく見える地上の人々や連なって飛ぶ竜が顔をこちらに向けて感嘆しているのがわかる。

そんな龍に先導され、一台の飛空車が円門を通過する。

ウォルは知らなかったが、その飛空車は扉にエンデアの紋章を持つ特装車。“世界龍”の力によって防御結界を付与し、どんな武器、兵器でも破壊できないという、この国に三つしかない『仙天楼の五龍』専用の飛空車だった。

叔父に連れられ列になってこの円門をくぐった時、まさか1日も経たずに自身があの“幻想龍”と共に円門を出ていくことになるなど思いもよらなかった。


遥か後方に円門を残し、大陸を抜け出す。銀の龍と飛空車は海の遥か高くを滑るように飛んでいく。

ウォルは窓から流れていく遠くの雲を眺める。目印の何もない洋上なのでウォルの目から速さを知ることはできない。

だが実は飛空車は音の速さを超え、衝撃波が発生して周囲の空間が歪んで見えるほどの速度で移動していた。

「あと四時間くらいかしら。ウォル、時間が長いからそこのソファで寝ていてもいいわよ。」

ステアの声にウォルは窓から離れ、ソファに座る。

テーブルの上にはいつのまにか用意されたお菓子が載っていた。砂糖漬けの柑橘オレンジだ。

「私が作ったものだけど、もしよかったら食べてみて!」

そう言いながら次はチョコレートを取り出すステア。

「いただきます!」

フォークが無かったので少し躊躇ったが指で摘んで柑橘を食べる。

程よい酸味とシャリシャリとした砂糖の甘さ。思わず二つ三つと食べ進んでしまった。

「初めて他の人に振る舞ったのだけれど、思いの外美味しく食べてもらえたみたいでよかったわぁ。これからはウォルに作ったおやつ食べてもらおうかしら。」

「他にも作るんですか?食べてみたいです!」

ステアさんはウォルの前に紅茶入りのコップを出現させた。

「あら、いいの?私のところに来たらいつでもおやつがあるわよ。

 さ、チョコレートも食べて食べて。」

ウォルにしてみれば初めてたくさん食べた甘いおやつ。チョコレートも街に売っているものがあったが、お金がなかったあの時は横目で眺めることしかできなかった。

「いつも色々作るけど、他の人たちあんまり食べないんだよね…。

 オリガさんは甘いものダメだし、ストラも一つしか食べないし。ルイン様とアズウェンさんは食べてくれるけど、口に合わなかったらって思うとそれ以上勧められないのよね。

 ウォルがいてくれてよかったぁ。」

そういうステアさんは嬉しそうだ。

「他の龍の皆さんにはあげないんですか?」

ふと思ってそう聞いてみると、予想外の答えが返ってきた。

「なんか、私個人的にあげるのはあんまり良くないかなぁと思って…。一応こういう立場だし?贔屓というかなんというか…。

 あとは、結構甘いの嫌いな龍多いのよ。美味しいのに…。」

上に立つものの宿命というところか。

なんでも五龍がいるときは『仙天楼の五龍』から、という扱いになるらしく大丈夫らしい。

そして驚くべきは龍は甘いものが嫌いなことが多いという事実。竜人族は好き嫌いせずになんでも食べる。食べようと思えば生肉、生魚などもいける。

龍って結構好き嫌い激しいのかな…。ウォルがそう思うのも無理はなかった。

「え、それって…。私は大丈夫なんですか?ステアさんに個人的にもらってる気がするんですが。」

「それはいいのよ、さっきルイン様が私がウォルの面倒見るようにって言ってたし。

 五龍公認だから!ね?」

そのあとも食べ物の話や趣味の話など二人はおやつを食べながら盛り上がった。

曰く、『暇すぎるからお菓子作りに走った』らしい。

父親から聞かされた龍の伝説は数千年以上前の物語だ。ステアはその龍を統べる『仙天楼の五龍』なのだから、確実にそれ以上の時間を生きているのだろう。

数千年間の暇な時間…。逆にそれだけの時間をかけてお菓子作りがよく飽きなかったことを称賛するべきなんだろうか。ウォルにはそのあり得ないほどの長時間が想像できなかった。

ずっとお菓子を作っていたならこの美味しさは納得だ。ちょうどいい塩梅の甘さ、大きさ、口溶け。ウォルは他のお菓子を食べたことがなかったが、これは世界一美味しいのだろうと思った。

二人だけではなかなか減らないお菓子の量に、途中からステアさんは外にいた黒衣集の人たちも中に呼びつけてお菓子を振る舞っていた。なんでも柑橘オレンジの砂糖漬けは大瓶五つ分もあるらしい。

さっきの話からすると呼びつけて振る舞うのは『アウト』なんじゃないかとも思ったが、気にしない。

その様子を聞いて前を飛ぶホールンさんも食べたいと言い出し、少しだけ飛空車を停めてお茶会が開かれたのも割愛だ。


少し日が落ち始めた頃、前方にうっすらと大地の影が見え始めた。

少しづつ近づくにつれて街の明かりもちらほらとだが瞬いているのが分かる。

大陸の上に飛空車が入ると、ステアが外の黒衣集に集まるよう号令をかける。

同行する黒衣集が全員飛空車に入ったのを確認し、ステアは指令を出した。

「黒衣集はこの国に散らばる竜人族の救出。

 “原初”によると奴隷となっている者もいるようです。武力行使は許可されています。必ず漏れがないように保護しなさい。エンデアでは既に保護体制を敷いています。保護した者は各個に“ゲート”で護送すること。

 私とウォルはウォルの母親の元へ行きます。こちらも保護ができ次第、私の力で一気にエンデアまで跳びます。我々がエンデアの宮殿に存在を移したところで優先度第一位の命は解除されます。

 “世界龍”によると、何やら不穏な空気がこちらの大陸にあるようです。些細なことでも異変を発見した場合は私と本国に報告しなさい。」

黒衣集はそれぞれに頷いて同意を示す。

ステアさんはウォルを引き寄せる。

「作戦開始。」

その合図と共に“幻想龍”が手を振る。その瞬間飛空車がその場から消えた。

そのまま落下する一同。思わずステアさんにしがみつき目を瞑ったウォルだったが、一呼吸ののちに目を開くと既に二人は街の近くの浜に面した小高い丘に立っていた。空を見上げると小さく散っていく黒衣集が見える。

ウォルは今立っている場所がお気に入りの景色の場所だということに気づいた。

「“黄昏の幻想の灯イルドライト・トワイライト”。」

真横に立つ“幻想龍”から莫大な神力が溢れ出す。瞬く間に辺り一帯地平線までも覆ったその力は幻想の力を示す。

日が落ちて暗くなった周囲が突如としてオレンジ色に明るくなる。

「何があるかわからない。明るくしていきましょう。」

二人はウォルの先導で母親のいる家に向かって歩き出した。

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