『掠れ紅葉』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 りんがちょっとコンビニに行こうと家の門を潜ると、家の塀を飛び越えて伸びるもみじの葉を見上げる女性を見掛けました。

 ふぅん、と霖は少しばかり関心します。

 その女性が見上げるその椛の葉は、他の木が新緑に初夏の日射しを透かしているというのに、紅くくすんでいて、赤味の強い茶色にも灰勝ちな紫にも見えます。紫蘇の葉の色が近いと言えば近いでしょうか。

 そんなお世辞にも美しいとは言い切れない年寄りくさい色合いの葉をじっと見上げて穏やかに浸っているのです。

 見ればその女性は鉄線の柄が入った浴衣を檸檬色の帯で締めていて、いかにも和風の趣を好む風体をしています。

 そんな人であれば春紅葉が新芽褪にいめあせていって朱色に緑を混ざってしまって、人によっては子供の落書きのように汚らしいと思うような、惨めな色にも心を寄せることもあるかと、霖は素知らぬ顔をして家を後にしました。

 けれど、コンビニスイーツが入った袋を手に提げて帰って来た時にもまだその女性が、出て行く時と同じ体勢で赫を錆びさせた紅葉を見上げているのに目を見開きました。

 こんなにも長い時間、他人様の家の前に立って動かないとか、完全に不審者です。

 霖は家の者として文句を言うべきなのかとシャギーに跳ねたショートの髪を掻くと、メッシュで入ったピンクゴールドのラインが風みたいにうねります。

 でもこんなのが声を掛けたら逆に警察呼ばれそうだなと、メタリックブルーにシャンパンゴールドのラインが入ったネイルを見詰めます。

 いっそ無視して家に入ってから警察に電話するか、と仕方なしに家へと足を進めながら考えているくらいです。

「ほんとに、かす紅葉もみぢはみっともなくて、すてき」

「は?」

 けれど霖は、ちょうど近くまで来た時に女性が熱っぽい溜め息と一緒に漏らした言葉に、思わず声を返してしまったのです。

 だって、みっともないのに、すてきだとか、霖からしたらどっちなんだよとツッコミが胸を突いたのですから。

 そして耳敏いのか、その女性は頬に手を当ててぼんやりとしていた瞳を、耳控みみひかえられるままに青空を飾る掠れ紅葉の緑に錆びて灰混じりに濁った丹色の方から、霖の方へと降ろしてきたのです。

 女性は霖の鮮やかな色合いのせいか、眩しそうに目を細めて。

 霖はマズったとばかりに頬を歪めて。

 二人してしばらく、だんまりとお互いを見詰めるともなく眺めて動かなくなってしまいました。

「あー。えーと」

 先に意味のない未声みこえを上げたのは女性の方でした。

 そしてにへらと頼りない笑みを浮かべて顔を緩めて言うのです。

「妖しい者じゃないんです」

「いや、その一言からして怪しいわ」

 二人の主張はファーストコンタクトから反発してしまいました。

 片や今時に浴衣を着こなして他人様の家から飛び出た庭木をじっと見詰めて何時までも動かないでいて。

 片や気合の入ったメッシュのショートに尖ったネイル、そして黒いノンスリーブにダメージジーンズとヤンチャな格好をしていて。

 喧嘩になったら勝つ方は目に見えているような状況で、女性の方が冷や汗を掻いて焦り、落ち着きなく自分の体を手で擦ったりあちこちに視線を泳がせたりしています。

「そこまでビビんなよ。怪しいけど、家の春紅葉見てただけなんだろ」

 霖がそう助け舟を出すと、浴衣の女性は嬉しそうにぴょんと跳ねました。

「そうなのです! いいですよね、初夏に葉緑素が増えてみっともなく錆びるように濁った掠れ紅葉の色がすっごく愛らしくて!」

 我が意を得たりと口調は早く語気は強くなった女性に、あ、こいつオタクだ、と親友を思い返しながら霖は胸の内で独り言ちました。

 霖が白けた顔を見せたので、女性もハッと我に返り頬を薄紅色に染めて意味もなく小刻みに手を振って空気を散らそうっとします。

「なんなん、アンタ?」

 このままじゃ話が進まなないと感じて、霖はやりたくもなかったのですが事情聴取を始めました。

 素性を訊ねられた女性は、打って変わって凛と澄ました表情になり、自分の胸に手を当てて堂々をした立ち振る舞いを見せました。

「わたしは未言屋宗主、紫月ゆづきと申します」

「みことやそうしゅ?」

 浴衣の女性が紫月と名乗る前に被せた大仰な言葉が漢字変換出来なくて、霖は不審そうに眉を顰めました。

 そんな態度を取られるのには慣れているのか、紫月は穏やかに笑みを浮かべて頷きます。

「未言とは、未だことばにあらざる。これまで言葉にされてこなかった物事を言葉として生み出したものです。まぁ、今までとは言いますけど、未言を最初に生み出した者が亡くなってもう十年を過ぎましたからそれなりに時を経た未言もありますが。掠れ紅葉も五十年程前に生まれた未言です」

「情報が多い」

 これだからオタクは厄介なんだと霖は水を打つように言葉を返します。そもそも何も知らない相手に向けて自分の知識を全開で語ってきて置いてけぼりにするのだから、堪ったものではありません。

 そんな膨大な量の情報を一息に押し付けれられたら脳が疲れて嫌になるというものです。

「ええっと、つまり、未言っていうのは造語なのですよ」

「あー、なんかそこらへんはもういいや。聞いてもわからん」

「そんなぁ」

 霖が犬を追い払うように手を振って拒絶すると、紫月は大人の癖に情けなく眉を下げてしょんぼりとします。

 遠目から見た時は厳かというか不思議な雰囲気を纏ってなんとなく触れ難かったのに、こうして話していると同じ人物なのかと疑いたくなるくらいに子供っぽくて、霖は相手しているだけで疲れてきて後悔し始めています。

「あれだろ。要は家の椛の葉が今しか見れない趣深い色してるからついずっと見てたってことだろ。はいはい、オタクオタク」

「雑! その通りですけど、扱いが雑!」

「疲れんだよ、あんたの相手」

 小動物みたいに喧しい紫月に、霖は長い溜め息を吐いてもう放っておいて帰るかと家の門に体を向けました。

 けれど霖ははたと思い直して、これだけは訊いておくかと、踵を返します。

「あ、でも、あんたさっきみっともなくて、すてきって言ったよな。なんでだ?」

 霖に何故と訊ねられて、紫月はこてんと首を傾げました。

 いい大人の癖にその仕草が可愛らしくて似合っていて、なんとなく霖はイラっとしますが、答えを待ちます。

「え、だって、みっともなくて、素敵じゃないですか。かわいいし。ほらほら」

 しかし、見てごらんとばかりに掠れ紅葉を指差して、なんの説明もしてこない紫月に、霖は額に青筋を浮かべました。

 霖が怒ってるのを目にして、紫月は、ひっ、と身を竦めます。

「あんなぁ、普通みっともないってのは、ダメとか、そんなんじゃいけないとか、そういう意味だろうが。あんたの思考回路どうなってんだ」

 霖は、つい語気を強めて常識を紫月に投げつけました。

 そして紫月はきょとんと目を丸くした後に、柔らかく微笑みます。

「みっともなくて、惨めで、どうしようもなくても、だからこそ素敵だと思ったり可愛いと思ったり、わたしは好きだと思うのは、誰に咎められる筋合いもないですよ」

 ただ紫月は堂々と、自分は好きなのだと宣言しました。

 霖は、ごくりと唾を飲みこみました。

 ただ立って、それで微笑んでいる、そんな紫月はちっとも恐いものであるはずがないのに。

 それなのにとても美しく、そして気高くとても大きな存在に感じられたのです。

「みっともないから直せとか、惨めなのは可哀想とか、まぁ、そういう人は多いですけれど、だからなんですか。そんなものは認められないとか言って、この掠れ紅葉が一年三百六十五日二十四時間六十分六十秒ずっと常に鮮やかに緋色に燃えたままにするとか、その人に出来ようはずもないのに。ならばそこにあるものをそのまま愛しいと思い、心満たされる歓びに感謝する方が遥かに素晴らしいじゃないですか」

 紫月の瞳は綺麗に澄んでいて一切の迷いがなくて、霖はただただその美しさに目を奪われました。

 どうしてそう思えるのか、そんな強さをどうやって手に入れたのかと、霖は羨ましく思います。

 そして自分はどうして、親友にそのままでいいと言えなかったのかと、羨望は呆気なく嫉妬に反転して。

 自分が守ろうともせずに、より良くなれと、そうすれば強くなれる、誰にも文句が言えなくなると告げた時の、あの寂しそうに、縋るように、そして縋れずに離れて行った瞳を、この人なら見ずに済んだのかもしれないと。

 そのままでいいと、みっともなくても素敵なままでいてほしいと言えなかった自分の不甲斐なさに。

 霖はギリリと歯を食いしばりました。

「あんたにいろはのなにがわかるの!」

 そして霖の感情は何の謂れもなく、紫月へとぶつけられました。

 一言だけ、胸にあるだけの息と想いを叫びにして放ち、霖は息切れして肩を震わせます。

 そして七つ程の息を吸い込んでからやっと、しまった、と気付きました。

 八つ当たりをした霖は、恐る恐る紫月の顔を見上げます。

 そこにあるのは、憤懣か、失望か、嫌悪か、視線を上げるのにも胸が押し潰されそうでしたが。

「ノムラモミジですよね、これ? いやまぁ、イロハモミジの一品種ですけど」

 紫月はきょとんと、霖を見返していて。

 なんだこいつと霖の頭の中が真っ白になりました。

 どう見てもいきなりキレた霖を前にして平然と椛の品種を確かめるとか、本当にどんな思考回路しているのか霖には全く分かりませんでした。

「んー、でも、わかるとかわからないとか、それで評価できるできないと選別するのはよくないですね。だってなにも知らなくても、この葉を見るだけで人は、汚らしいと目を背けることも、素敵だと愛でることもできるのですから。理解するのは大事ですが、それはありのまま見て受け止めることを補助するものでしかありません。眼鏡みたいなものですよ」

 やばい、やっぱり何を言っているのか分からないと、霖は呆然となります。

 でも分からないけれど、なんだか大事な、霖が心のどこかで求めていることを言っているような、教えてくれているような気がしました。

 でもそれを認めるのはどうしてか悔しくて。

「あ」

 霖は紫月の前から逃げ出して、家の門へと駆けこんで柱の影に身を隠しました。

 後に残された紫月は門の中を覗くような真似もせず、ただ言葉だけを顔を赤くしていた少女に向けて投げかけました。

「またこの掠れ紅葉を観に来てもいいですか?」

 それはきっと、また話をしませんかという伺いだと霖も気付いて。

「そんなの、ウチにどーこー言う権利ないから! 家の親に通報されても知らないからね」

 前半分は文句付けるように大きな声で、後半は届くかどうか分からないような小さな声で返して、霖は家の庭を駆け抜けて玄関へと逃げ帰ったのでした。


未言源宗 『掠れ紅葉』 完

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