『綺雨』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 最期を迎えようとする秋の錦として、木々が紅葉をはらり、はらりと降らしていくのが、山の内側の景色です。

 綺雨あやさめは降る度に、かさり、かさりと先に落ちて地を覆う落ち葉を鳴らし、何処か遠くでは葉踏はふ鹿しかが足音を鳴らして誰かを呼んでいます。

 少しだけ木が居場所を開けて、ぽっかりと空いた間隙も山の内にはいくつかあるものです。

 その一つに、紫月ゆづきは黒光りするブーツで落ち葉を踏んでは、ふかい香りを立ておりました。

 その足が緩慢に持ち上がる度に牡丹色の袴の裾が跳ねて踊り、袴の結びは生成りで厚手の綿シャツを押さえていています。

 その襟にはふっくらとした刺繍で三つ編みとも蔦とも付かない意匠を魅せているので、紫月はその柄が隠れないように肩から少し落として紅の地に鹿子を浮かべるショールを羽織っています。

 紫月は五歩も進むと、くるりと踵を返して、また元の位置に戻り、また振り返っては歩み、ぶらぶらと行ったり来たりを繰り返します。

 雪が全てを綺麗に収めてしまう前に、秋の香りと音を今年の最後と楽しんでいるのでもあり、また退屈を凌いでいるのでもありました。

 何が退屈かと言えば、紫月は今、この場から、正確にはとある人の視界から離れてはいけないのです。

 綺雨が降る景色に佇む紫月の姿を、スケッチブックに描く中老の男性もまた、この秋の去りかけた山の内にいたのです。

 その老人は絵筆に水で溶いた絵具を乗せて、厚い紙に丁寧に染み込ませています。

「とっても今更なんですけど、綺雨の降る中に立つ女性を描くって、普通に洋装の方がよかったんじゃないです?」

 絵のモデルの癖に、ふらふらと揺らぎながら、紫月は絵描きの老人に向き合いました。

 老人は筆の先に向けていた視線をちらりと上げて、鋭く細めます。

「こっちを向かれると、立ち姿が変わるから困るな」

「あ、はい。ごめんなさい」

 ぴしゃりと冷たい水みたいな叱責を受けて、紫月はすごすごと老人と直角に体と顔の向きを直しました。

 体勢がどうのこうのと言うなら、そもそも動くなという話だと思いますが、そも枝から離れて落ちる黄葉もみじの綺雨を描く老人はさして気にしてないようです。ポーズが一緒なら、どこにいても手元の紙の好きな位置に描けるからです。

「洋服姿が描きたくなれば、それはまた誰かしらに頼むとも。今回は、大正女学生のような装いの未言屋宗主様を絵にしたいと思っているのだ」

「そもそも、わたしみたいに落ち着きのない生き物は絵のモデルに向かないと思うんですけれどぉ」

「向き不向きではない。絵になるか、するか、したいと思うかだ」

 にべもなく、鋼鉄のような持論を掲げて紫月の意見を打ち据える老人に、苦笑いしか浮かびません。

古澤ふるさわさんなら色のない空気でも絵にしてみせそうですねぇ」

 そんな自分でおもいた言葉に、紫月はふと想念を源宗げんそうにまで遡らせました。

「ああ、でも、確かに綺雨は色彩のある音なので、そんな古澤さんが絵に描くのは道理かもですね」

 ふんふん、と一人で納得して紫月はまた数歩前に出てはくるりと回って、元の位置に戻ります。今度はそこからさらに一歩先へ出て、逆方向に歩を進めます。

「色彩は分かるが、音とは?」

 紫月の肩から零れる髪の先を細筆でなぞりながら、絵描きの古澤おうは紫月の独り言を手繰りました。

 紫月はちらりと、古澤翁に流し目を送ります。

「だって、雨ですから」

 まずは、端的に核心を突いて。

 未言屋店主もそうしたように、紫月も物事の核を捉えてから実在を把握する認識をします。

 聞いた相手は、その一言がどのように説明に、もしくは本質になるのかわからなくても、その思考の遅れはそれこそ置き去りにして、ちょんと根源に点を打つのです。

「人は、雨を視るのを先にしません。雨が降ったと思うのは、まず音を聞くからです。地面に、屋根に、木の葉に、雨奏あめかなでる音を聞いてから、人は空を間抜けに見上げて降雨を確認して、慌てて傘を差すのです。もしくは屋内なら、窓まで足を延ばして雨点あめともる地面の影に雨が降るのを知るのです。雨が降るとは、人にとって音を聞くということなのです」

 かさり、かさりと、紫月を避けるように色づいた木の葉が雨と降ります。

 老人は紙の上の女性の唇に、薄く鴇色をしました。

「綺雨も、雨ですから、未言屋店主は音を本質とするものと認識してました。秋に色づいた木の葉が、木という雲を離れ、風に乗り、または重力に引かれて、降り、大きな雫として土に落ち、それかアスファルトを叩き、もしくは先に降り注いだ落ち葉に重なり、音を立てる」

 くしゃり、かしゃりと、紫月はブーツで地面に敷かれた紅葉の敷物を踏み鳴らします。

 綺雨の音を真似て、そしてその音を大袈裟に誇張して。その度に形を失って散り散りに粉砕されて、その抗議を朽ち深く乾いた自らの香りを立てて蹂躙者へと上げるのです。

 それは湿気った土の匂いと混じって、まさに秋の極みとも思える芳醇な香りで、ただただ紫月を楽しませます。

「また雨はもちろん、透明です。光を奪い暗く灰色に世界を光景ひかりかぐことはあろうとも、それ自体は見えるようで見えない無彩色です。だから綺雨とは、その色彩だけで雨のいづれとも分かたれて存在を示すことができるのです」

 物を分類するとは、他と違う点を上げるということであり、同時にそれ以外の部分は似通っているということです。

 綺雨と呼ばれる秋に降る紅葉は、音でもって人に気づかれるという点で雨としてくくられて、色鮮やかであるという点で他の雨とは違うことを指摘されるのです。

「なので、綺雨は、他の雨とは言葉の手触りが違うのですよ。ふふ。視覚なのに手触りなんて、おかしな話ですけど」

 手触りは触覚であるのに、視覚を指摘している自分が可笑しいと、それはもう嬉しそうにやわく紫月は笑います。普通の人間からしたら、なにが可笑しいのか、ちっとも分からないかもしれませんけれど、彼女にとっては言葉の綾というのは、楽しくて愛しくて仕方ないのです。

 綺雨は音から色を思い浮かべて、言葉として立体感を浮き彫りにするのです。その立体感を、手触りと表現しているのです。説明されないと、いえ、説明されても分かりにくいのが、未言屋店主や未言屋宗主の思考なのです。

「その手触りというのも、古澤さんに縁がありますね。というか、今日は水彩なんですね?」

 古澤翁は、一先ず紫月に応えず、絵筆を置きました。

「紫月さんは描き終えたから、もう大丈夫だよ」

 古澤翁に、絵のフレームから外れていいと言われて、紫月は嬉々として無意味な往復歩行を止めて、老人の絵に駆け寄りました。

 水彩の透ける色合いで、紫月が画面の真ん中から少し右に外れた立ち位置にあり、空が割り込んだ木々を背景に綺雨が降り注いで、或いは空へと浮き上がっていくように、描かれています。

「きれい……。え、古澤さん、もっと水彩描いたらいいんじゃないですか。売れますよね、普通に」

「店主様と全く同じことを言うんじゃない。さっきも言っただろう。向き不向きじゃない」

 古澤翁のぼやきを聞き止めて、紫月は絵から目を外し、まじまじと皺の刻まれた顔を見つめました。

「今の店主につけた様には、ちゃんと敬意が籠ってましたね?」

 紫月は慇懃無礼のためにつけられた敬称との声質の違いを、きちんと聞き分けていました。

 老人は当たり前だろうと、溜め息だけで心情を示します。

「あのな、店主様のが年上だったんだぞ」

「うっそ。あの魔女、見た目が幼すぎませんか。威厳なさすぎ」

「威厳とか権威とかとは、かけ離れたところにおそろしさがあった方だからなぁ……今井がため口利くたんびに、肝が冷えたもんだ」

 若々しいではなく幼いとか威厳がないとか、当時二十歳そこそこの小娘だった色宮いろみやに気安く話されていたのも、故人である癖に全くかしこまられることがないのも、未言屋店主の生前の振る舞い故です。

 最晩年でも十数も年が下の相手と比べて、見た目が逆転しているとか、むしろ神秘のような気もします。

「ともかく、これはスケッチだ。油絵は外じゃダメだからな」

 そう。この古澤翁は油絵の画家であるのです。

 油絵も、絵具を塗り重ねた盛り上がりが、立体を生み出します。水彩の平面にしか描けない絵とは、それこそ手触りが違うと、目で分かります。

「しかし、落葉の音というと、綺雨よりも、葉踏み鹿や楢騒ならさゐの方が思い浮かぶけどな」

 古澤翁が手早く筆を洗って絵具を落とし、改めてパレットから色を取って絵を進めていきます。

 落葉や落果の音を見えない鹿の足音に例えた葉踏み鹿や、こがらしが落ち葉を舞わせて鳴らす音と情景を表す楢騒は、確かに綺雨と源流を同じくします。

「そこの三人は仲良しですからね。親友ポジです」

「未言巫女の事情は知らん」

 紫月が楽しそうに、未言を擬人化したキャラクター達の設定を披露するも、脱線が掘り下げされては堪らないと古澤翁に遮られました。

 しょんぼりと唇を尖らせて、紫月は話を戻します。

「モチーフ、現象、大元が同じ未言達です。未言屋店主は紅葉に染まる山の景色と雰囲気が好きでしたから、色んな未言がいますね。あやめく、朽ち深しも紅葉や朽ち葉から着想を得ています」

 かさり、かさりと綺雨が紫月の台詞に間の手を入れます。

 いえ、間の手ではなく、伴奏でしょうか。ゆきむ香りが空気に孕む今時分では、秋は急かされるように仕舞いを早回ししているようです。

「綾めくを除けば、どの未言も音を重視してます。葉踏み鹿は落葉の音が踏み締める存在感、命の息づきを、楢騒は西風ならいや凩のざわめきを、朽ち深しは踏まれて身を割られる葉の喘ぎを、綺雨は降り注ぎ背景として鳴る秋のを」

 秋は音が奏でられる季節なのかもしれません。

 嵐が来て轟々と鳴り、凩がひゅーっと吹き去り、虫の音が草叢くさむらから届けられ、鳥達は声を交わして帰り、木々すらも風に揺られて風虫かざむしを孕み、そして木の葉を落として大地をつづみにします。

 その音に寄り添う、そして音から想起される感覚を、秋の未言の多くが携えています。

 その質感が、秋の未言の独特の手触り、立体感を浮かび上がらせているのでしょう。

「でも、それをあえて水彩で平面に描いて、こう、欠けているのに迫るように魅せられるその絵は、ただ下地にするだけなのはもったいないな、って思っちゃうんですよね」

「……真作が出来て用済みになったらくれてやるから、部屋にでも飾るといい」

 物欲しそうに筆を乗せている絵を見つめる視線を背中に受けて、古澤翁はついに紫月に折れました。

 振り返らずに放られた言葉を受け取って、紫月は手を組んで歓び、顔を綻ばせていました。


未言源宗 『綺雨』 完

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