『月の透く』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 まだ太陽が起き切る前の、旭が光だけを先に届けて大地を炙る熱が遅れている、夜の涼しさを残す爽やかなその時間に、空を見上げる女子中学生が一人いました。

 その子は、山の稜線に光を引く朝日からは背を向けています。彼女が求める天体は、地球が公転するのに中心となる恒星ではないのです。

 その子の視線の先にあるのは、白く、淡く、今にも消えそうに儚く空に浮かぶ天体なのです。

 人が待ちわびて横になった頃にやっとやって来て、それでこの明け方にまだ山蔭に帰り切れないで姿を残し、太陽を目前に帰宅よりも前に姿をかき消されてしまいつつある、身の欠けた月を、彼女は瞬きもしないで見上げているのです。

 彼女は、雲にも見間違えてしまいそうな、空の中に溶けて消えてしまいそうな、それなのにその顔に海の形を浮かべて見せてくれる月が、夜に輝く頃合いよりもなお、好きなのです。

 例えば、夕方にまだ空が青を微かに残す時間に、同じように夜よりも先走って姿を見せる月もまた、同じように白く、淡く、今にも消えそうに儚く、それでいて見続けていると次第に輝きを増していって存在を誇るのもまた、好きなのです。

 彼女はその月が何よりも美しいと感じるからこそ、クラスの友人ともその麗しさを語りたいと話題に出したこともありました。

 しかし、誰も彼もが、彼女の話を聞いても首を傾げ、曖昧に笑って、見たことがない、今度機会があったら見てみるね、なんて言葉ばかりを返すのです。

 彼女が、満月、新月、上弦下弦、十六夜、寝待月、有明の月と色んな呼び名があるのだから、今見ている消え去りそうに存在の希薄な月にも美しい名前があっていいのだと熱っぽく語っても、月は月でしょ、としか返されないのです。

 分かり合えないことは悲しく、興味を抱かれないことは寂しく、彼女を僅かに打ちのめしました。

 静かに恋人の家から帰る女性のように切ないあの月をかなしむ彼女は、この世から消え去る薄幸の貴人を思わせるあの月を愛おしむ彼女は、人と語り合いあの月をでたいと思うのです。

 そしてそれが実現出来ない現実に、どうしようもなく苦しみ悩むのです。

 心ここにあらずして、月にまで浮かべてしまっていた彼女の耳に、カメラのシャッター音が耳の奥で弾けました。

 その音に耳控みみひかえられて、彼女が振り返ると、一人の女性が空に向かってスマートフォンを構えていました。

 その人は、透明感のある檸檬色のブラウスに、桔梗が裾に刺繍された袴を合わせてブーツを覗かせるという、コスプレみたいな恰好をしていて、彼女は目を丸くします。

「むぅ。やっぱり写真に撮ると目撫まなぜしいのよね。人の目はどんだけ高性能なのよ」

 大正浪漫な服装をした女性は、スマートフォンの画面に不満を漏らしてから、すっと空に、彼女が見ていたのと同じ角度で、視線を投げました。

「今日のつきく姿は、本当に優雅なのに、写真技術が足りなくてみんなに自慢できぬ。悔しい」

 月の透く。

 その人が口にした言葉に、彼女の心がとくんと跳ねました。

 今、間違いなく、彼女が好きで堪らない月の有様ありさまを、目の前の人は褒め称え、人に見せびらかせそうとしていたのです。

「あのっ」

 彼女は考えるよりも先に、その人に声をかけていました。

 睫毛の長い目が、彼女に向けられて、こてん、と首を傾げられました。

「あの、あの……」

 声は口から出て来るのですけれど、どんな言葉であれば見知らぬその人に不審がられずに胸に沸いた感激を伝えられるのかと、彼女は二の句が継げないまま、けれどその人を引き留める為に発声ばかりを続けます。

「どうしました? 困りごとですか? もしかして迷子?」

 彼女の前に立つ人は、懸命な彼女を見て、思いを導こうと言葉を差し出してくれました。

 けれど、彼女は困っている訳でも迷っている訳でもありません。

 むしろ、見つけたのです。

「いえ、そうじゃなくて、話、話したくて」

「お話? ちなみに、わたしは月の透くのを綺麗に撮れそうなとこに足綾あしあやと歩いて来たので、割と迷子です。わたしはどこ?」

「え」

 逆に、ほんのりと困った表情に浮かべた女性に、彼女は言葉を失いました。

 けれどその中に、また、月の透く、という言葉が混ぜられていて、それもまた気になって仕方なく、二つの戸惑いで尚更、思考が縺れます。

「でも、今はもうすぐ消えそうな月の透く姿を見ていたいね」

 くすりと笑うように声を転がして、その人はまた淡い月を見上げます。

 彼女もつられて、その人の横に並んで、大好きな月の姿の、目を離した隙にまた薄くなった気配を視界に納めました。

「あの、月の透くって」

 やっと、彼女は一番訊きたいことまで言葉を辿り着かせられました。

 しんみりと、静かな時間が吹き抜けます。

「月が、透けると書いて、月の透く、です。未言の一つですよ」

「みこと?」

 月の透く、未言。どちらも彼女は聞いたことのない言葉でした。

「未言とは、未だ言にあらず。この世界に確かに存在しているのに未だに言葉を与えられなかった物事、それに言葉を与えたものです」

 あるのに、言葉にされていなかった。

 それは間違いなく、彼女が、今見ている限られた時間だけに見られる月の様子に対して、抱いたもどかしさです。

 誰に言っても、共感されなくて、確かにあるのに、まるでないかのように扱われた歯痒さです。

 それを、言葉にすることが出来ただなんて、言葉にした人がいただなんて、彼女は胸の内がざわざわと粟立ちました。

「月の透くとは、太陽がある時間に月が透けるように薄い様子を言います。まさに今見ている、あの素敵な月のことです」

 隣に立つ人の声に耳を撫でられて、彼女は甘く息を吐きました。

「そうですよね、素敵ですよね。こんなに綺麗なのに、みんな、みんな見てくれなくて」

 悔しかったのです。悲しかったのです。苦しかったのです。

 それでも彼女は、誰も目に止めなくても、月の透くのをかなしんでいたのです。

 でも、月の透くという未言を知って、自分と同じものを愛でる人が存在するのを知って、重たくなっていた彼女の心は、確かに掬われて軽くなったのです。

 彼女は、こくりと唾を飲んで、言葉があるというのがこんなにも素晴らしいことなのかと胸をいっぱいにしました。


未言源宗 『月の透く』 完

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