『びぃあわ』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 その店内は、懐かしい昭和に見られた駄菓子屋とか金物屋とかを彷彿とさせる内装をしておりました。

 冷房はまともにはなく、開け放たれた窓と扇風機だけが八月頭の午後の暑さを和らげようとして敗北しており、まるで蒸し風呂のような店内でした。辛うじて、雪国らしい伸びた庇が作る影によって、日光が凌げているのが、この店内を人の生存出来る環境に留めています。

 その店の奥、光が一番届きにくいレジの内側に、唯一の店員が、氷を混ぜて桶に張った水に素足を浸していました。

 二藍の朝顔が、白地に大きく咲いた浴衣を梔子色の帯で締めている彼女は、紫月ゆづきと申しまして、今日も開店休業なこの店は、『未言屋 ゆかり』という屋号を下げております。

 紫月は、お客さんが昨日も一昨日も、一歩たりとも踏み入れてきてくれないのに焦る様子もなく、うとうとと薄く瞼を閉じかけて、ぼんやりと起きていました。

 これでも彼女は昨日まで、名ばかりの店番をしながらも、通信販売で依頼された商品を出荷したり、未言屋の人々からの入荷や製作の進捗をまとめて打ち合わせをしたり、いろんな不労所得の毎年付き纏う手続きを片付けたりと、それなりに忙しくしていたので、もうしばらくはのんびりゆったり何日も過ごしたいなとか思っているのです。

 そうでなくとも、あまり好きではない事務仕事が続いて精神的に疲労して、もう昨日の夜からずっと眠くて、寝て覚めてからも続けて眠くて、頑張って午後まで目を開けていたのですけど、もう眠くて瞼と意識が落ちそうに夢波ゆめなんでいるのです。

 紫月は、レジの乗った台の引き出しを開けて、硝子玉を一つ、摘まみ上げました。

 それは丸くて、なんの変哲も色もない硝子玉で、その中には気泡が入っていました。

「びぃあわ」

 ぼんやりと、紫月の声が未言をなぞります。

「硝子玉の中に浮かぶ気泡。見た目は儚いけれど、けして消えることはないので、恋心に例えることもある」

 紫月は、未言を正しく諳んじます。それは、未言屋店主よりもさらに、紫月の方が優れていることなのです。

 紫月は、未言屋宗主。未言屋店主が生み出したままの未言を、その原典のままに記憶して、未言達が本来どのような由来を持って生まれ、どんな在り方を内包しているのか、それを補完して、時には必要とする人にそれを伝えるのが役割なのです。

「わたしの心にも、びぃあわは、ある」

 ぽつりと、びぃあわをうたぐませるように、紫月が呟きます。

 その瞳は、びぃあわの中にある『ほんとう』を覗いているようです。

「びぃあわは、硝子玉が生まれた瞬間から、死ぬその時まで抱え込んだ、きず。びぃあわは、硝子玉の脆さになって、砕けやすくしている。あとから取り除くことはできない」

 よく、硝子玉を指してビー玉とは言いますが、紫月は幼い頃、このビーとは、ビィドロのビーと思っていました。それを、未言屋店主に違うと指摘された日のことはよく覚えています。

 わたしも高校生まで、ずっと勘違いをしていたんだけど、と前置きをしてから、未言屋店主は、ビー玉とは、硝子玉の内、規格にそぐわずに弾かれたものをBの玉として呼んだのが始まりで、規格に適いきちんと製品となったものはA玉と呼ばれていたのだと、教えてくれました。

 どうして、エー玉という言葉は消えて、ビー玉という言葉が残ったのか、未言屋店主はそれを、子供がよく遊ぶのが規格外で不良品のビー玉で、やがて大人に必要な瓶の蓋としてのエー玉は王冠などに取って変わられて、子供に玩具として連れて行ってもらえたビー玉だけがその在り方と共に言葉として残ったんじゃないのかと推測していました。

 不良品であるが故に、もっとも創造性溢れる存在である子供の遊び道具として、長く愛されるようになったビー玉とは、それはそれは不思議な存在だと思いますし、そしてその在り方を繋いだ子供の持つ無限の可能性はさらに不思議で妙なるものと思います。

 欠陥であることが、価値へと変換されているのです。

 実は、これは仏法の内、変毒為薬というものなのです。そして変毒為薬とは、成仏の言い換えなのです。

 その意味では、紫月を変毒為薬させたのは未言屋店主であり、それは未言屋店主が紫月を成仏させたということで、仏の記別を与えてくれた未言屋店主も、ある意味では仏なのでしょう。

「わたしは、わたしというものを持たなかった」

 紫月には、自分の個性がありませんでした。それは、彼女の母も、そして母の親である未言屋店主も早くから気付いていました。

 紫月の内面は、どうしたことか、未言屋店主の鏡映しだったのです。

 紫月は、未言屋店主と同じ思想を持つが故に、幼い頃から未言を深く愛しました。

 紫月は、未言屋店主と同じ思考を持つが故に、幼い頃から未言を正しく理解しました。

 紫月は、未言屋店主と同じ嗜好を持つが故に、幼い頃から未言を表現してきました。

 それは、未言屋店主のそのままに。紫月には、紫月だけの個性なんてありませんでした。全てが未言屋店主と全く同じでした。

 未言屋店主と違うことをしようと思えば、出来るのです。自分の素直の気持ち、やりやすい行動を、敢えて外せばいいのですから、もしかすると、他の家族よりも簡単に、未言屋店主と違う生き方が出来たのです。

 もちろん、そんな自分の在り方をわざとずらした生き方なんて、息が詰まって死にたくなるようなものでしたから、紫月はそんなことをしたいとは思いませんでしたし、紫月の家族もそんなことはしなくてもいいと言ってくれました。

 つまり、紫月は未言屋店主と同じ人生しか歩めませんでしたし、そういう人生を歩むのを望んでいたのです。

 けれど、未言屋店主と同じでしかない紫月には、自分の中にある全てを未言にしてしまった未言屋店主の後に、新しく未言を産み出す余地も発想も持てませんでした。

 未言屋店主が懸命に創作した短歌や詩や小説にしても、紫月が書くと未言屋店主の模倣品にしかなりませんでした。

 未言屋店主が持っていない才能は、やはり紫月にもありませんでした。

 紫月は、自分がなれる最高の存在が既にこの世にいて、だから自分はその場所に立つことが出来なくて、結局何者にもなれないままに生きていたのです。

 そんな微睡みのような、望みのなく、けれど生きるのには不自由しない暮らしは、残念なことに紫月には心地好過ぎて、自分自身が他の誰にも取って変われない唯一無二の存在へとなろうという気持ちをずっと思えもしないままにしていたのです。

 そしてそれを何よりも悲しんだのは、未言屋店主です。

 紫月が自分と同じ精神で、自身の鏡映しであるのは、別になんとも思っていませんでした。一人くらいは完全な理解者がいるというのは、それはそれで珍しく得難い者になれたと思うだけでした。

 けれど、紫月が紫月として存在出来ず、生きていけないことには酷く哀しんでいたのです。

「未言を人々の幸福の因としていく。未言が日常の小さな幸せのきっかけとなって、未言を知る人は、知らなかった頃よりも、幸せをたくさん見つけられる」

 びぃあわを通して、自分の内面を見つめながら、紫月はその誓いであり願いである言葉を口にします。それは、未言屋店主が生涯を通して自分の中に打ち立て続けた誓願であり、使命であり、生存する価値と定めたものです。

「未言を人々の生きる糧としていく。死のうと思った人が、未言を想い、未言をもっと見たいから、未言が存在するこの世界にまだ生きていこうと選ぶ意味となるように。人を殺すのに労力を費やすくらいなら、未言を楽しみ広めていくことに時間を使いたいと思えるようにしていく」

 悪事を為すよりも、未言に価値を見いだして、未言で幸せになるために悪事なんてしていられない、そんな時間は勿体ない、そんな無駄な時間を過ごすなら、未言を一つでも探したい、未言の作品に一つでも触れたい、そう世界中の人に思わせることが出来たなら、未言は世界平和を実現出来る。

 未言屋店主は、その思想を根本に持つからこそ、未言は世界の役に立ち、世界を平和にしていくものであり、つまりはこの世になくてはならない価値があるのだと、胸を張って言うのです。

 そして紫月もまた、未言をありのままに存続させることに意味があり価値があるのだと、自信を持って断言するのです。

「わたしは未言屋宗主」

 それは、ある日、未言屋店主に部屋に呼ばれて、語られたあらゆめでした。

 未言屋店主は、未言が生まれたその瞬間から、自分の死後も未言が続いていく道を考えていたのです。

 その結論が、未言屋という、未言を使って創作をする集団をまとめ、生活や収入も含めてサポートして、未言を好きでいて未言に価値を与えてくれる人に生きていってもらえるようにすることでした。その盟主には、紫月の母が就き、そして今は紫月の一番上の姉が就いています。

 その一方で、未言屋店主は自分が一般人から見たら、とても不思議な思考と嗜好と思想をしているために、未言について理解しきれずに悩む未言屋が出て来ること初めから予想していました。

 未言屋店主が、自分の築き上げた未言屋という組織を娘に託した後、未言屋店主が一番多くの時間を割いたのは、未言の在り方を多くの人に伝えることでした。

 けれど、生き物には寿命があります。未言屋店主は死にました。

 その死ぬよりもずっと前に、未言屋店主は、未言屋宗主という在り方を紫月に示したのです。

 唯一人だけ、未言屋店主が思い描いたありのままの未言を、全て知っていて自分の中に納めたのは、紫月だけだったのですから、それは紫月がいたからこそ成り立つ存在なのです。

「わたしは、未言の源を託された。未言の未来のために」

 紫月は、びぃあわの浮かぶ硝子玉を手の中に握りしめて、そのまま胸まで持ってきて抱き締めました。

 誰にもなれなかったのは、未言屋店主そのままであったから。

 誰にも出来ない使命を得たのは、未言屋店主そのままであったから。

 仏とは、人々を幸福にするもの、世界を平和にするもの、人々を仏へなるように導くもの。

 紫月は、いつも胸に抱いて離さない想いを、びぃあわと共に探るように抱き締めます。

 彼女は、生きている価値があると自信が持てるのは、とても幸せなことだと想うのでした。

 そしてその想いを授けてくれた未言屋店主と未言そのものに深く感謝し、自分の出来る限りで、未言によって人々を幸福にして、また世界を平和にしていくことで、その恩を返していこうと、今再び決意したのです。


未言源宗 『びぃあわ』 完

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