『冬咲く』

 今となっては、もう昔の事になりましょう。

 かつて、『未言みこと』という概念を産み出した人がおりました。

 未言とは、未だ言葉としてなかった物事に宛がわれた言葉のいまだ。

 彼人かのとは、未言に携わる者達を『未言屋』と呼んでおりました。

 そして今。未言屋を継ぐ伝承者がいました。


・・・・・・


 四月の半ばを前にしてやっと、会津の桜は未丹いまにの内に秘められた薄紅をちらほらと開きます。雪積もり木々を封じる冬の厳しいこの地は、桜の開花は遅く、また綻び始めてから満開まで一週間近くもかかることも多いです。

 そんな待ち遠しかった桜の花の目覚めに、そして垣間見えたからこそ尚更楽しみになった満開を想い、紫月ゆづきは蕾を鈴生りにした枝に触れて笑みを浮かべるのです。

 会津の桜が誇る色の濃い鴇色の花弁を人差し指に透かして、ほぅ、と息を溢しました。

 この会津若松城の中庭は、桜が満開になると桜吹雪と花筵で空も地面もこの鴇色があまねいて、その瞬間を思い描くだけで紫月は胸が満たされ、幸福がうたぐむのです。

「今年の桜も、綺麗に冬咲ふゆさいたわねぇ」

 紫月は今は去った冬の冷たさと静けさを想い、それを耐え抜いて花を紡いだ桜へ、心からの称賛を捧げたいと想ったのです。

「え?」

 それで自然と口を付いて出た未言を、聞いてしまった少女がいました。

 まだ幼く、くりくりとした目が印象的な少女は、恐らくはまだ小学校低学年なのでしょう。

 それでその栗皮色の瞳をまるまるとさせて、得体の知れない言葉を放った紫月に不審の視線を寄越すのです。

 紫月は、声に釣られて視線を降ろし、見つけてしまった少女の眼差しを受けて、親を呼ばれたらどうしようかと内心で冷や汗を掻いていました。

 ここで先に言い訳をしても怪しさは払拭出来ないと経験則から知る紫月は、ぎこちない笑顔を少女に向けて、興味を持たずに立ち去ってほしいと願うことしか出来ません。

 なのに少女は、足の下の砂利を鳴らして、紫月に近づいて来てしまったのです。

「お姉さん、いまは、春だよ?」

 少女は中々にしっかりとした話し方で、紫月の未言を訂正にかかりました。

 どうやらこの少女は理知的で、会話を通して自分の理解出来ない紫月という違和感を解消しようとしてくれたようです。

 紫月は親や警察を呼ばれなかったことに安堵しつつ、紫月が間違った言葉を使っているという少女の勘違いをそのままにしてやり過ごすか、更なる違和感を抱かれるのを覚悟で真実を告げるか、頭を悩ませます。

「そうね、もう春だね」

 とりあえずは、当たりさわりなく、少女の言葉を肯定します。

 頭ごなしに話をとおそうとしては、どんなに正しいことでも受け入れようとしない人の方が、そうでない人より遥かに多いのが現実です。

 紫月は常日頃から、みんなもっと自分の考えに固執するなんていう下らないエゴをなくせばいいのにと考えていたりしもしますが、このような幼い少女に突っかかるほど大人げなくはありません。

「でも、お姉さんいま、冬がさいたって言ったよね?」

 少女の言葉を聞いて、紫月は耳のいい子だなと感心しました。

 感覚の鋭い人は、未言を見つけ、未言を創作するのに優れています。それに聞きなれない言葉を自分の思い込みで聞いたことのある言葉に変換せずにそのまま聞き取る素直さも、紫月は好ましく思いました。

「ええ、冬が咲いたのですよ」

 だから紫月は、少女の指摘を肯定し、未言の問答の始まりとしてしまいました。

 紫月の返事に、少女は訳がわからないと言った様子で眉をひそめています。

「春にさいたのまちがいじゃなくて?」

 少女が『冬』と『春』を取り換えただけではなくて、紫月の言葉に引き摺られずに助詞も意味が通るようにきちんと言い直していて、紫月は文章力も優れているとさらに少女への評価を繰り上げました。

 この子は、感性も言語回路も、年頃に似合わず高い逸材なのです。

「冬咲くというのは、未言といいます。未言とは、いまことばにあらず、分かりやすく言うと、今まで誰も言葉に出来なかった言葉なんですよ」

「ことばにできないことば?」

 少女は紫月の説く未言の在り方を鸚鵡返しして、頭の上に疑問符を浮かべています。

 紫月はそんな少女の様子に満足そうにほくそ笑みながら何度も頷いてみせます。

「例えば桜香る風のように、鯨の形をした雲のように、不自然で意味不明なことを言ってくるおばさんのように、この世の中には、確かに現実にあるのに言葉になってないものが実はたくさんあるんですよー」

 紫月は持ち前のいい加減さを発揮して、段々と素の砕けた物言いになりつつありました。

 そしてその人懐っこい言葉遣いは、気を許してしまった相手にはとても好意的に受け入れられることが多いのです。

「まぁ、そうかも?」

 この少女も、紫月の押しの強い意志に、思わず頷きを返してしまったのです。

「そう、そして、冬咲くも未言の一つ。関東とか、ここよりも南の桜って、白いって知ってる?」

 紫月の問いかけに、少女はふるふると首を横に振りました。

 雪国、北国の桜は紅が強くなり曙のように淡い優しさに、恋を自覚しない乙女のように仄かに色づきます。

 それに対して冬が寒くならない地域では、桜は真白に近く、日の光を浴びると雪のように映えるのです。

「桜のピンクはね、寒い時に作られるのよ。そして春先の夜の寒さと昼の暖かさの差が大きいほど、たっくさん作られて、北国の桜はより一層色濃くなるわ。わたしは会津の鴇色の桜が大好きなの」

 科学的事実を説明しながらも、紫月は最後に自分の好みを付け加えるのです。だって紫月にとっては、人の想いこそが大切で、事実なんていうものは、想いを描くための素材に過ぎないのですから。

 そして少女は、紫月の話す難しい話に全く付いていけずに、ただただ首を傾げていました。

「桜が色づくには、冬の寒さと厳しさと凄まじさこそ必要ということよ。だから今咲いているのは、ただ春になったというのではなくて、懸命に咲こうとして努力した冬こそが咲いているのよ」

 熱っぽく、わくわくという擬音語をまき散らして語る紫月に、少女は意味不明もここに極まれりと言ったぽかんとした表情で、呆気に取られていました。

 明らかに子供が理解出来るような話の内容ではなく、それどころか大人でさえ理解出来るものは少ないだろうという内容を一方的に話して、紫月はそれでも気に留めた気配も見せません。

「ま、いずれ分かる時も来ると信じているわ。言葉はその時に意味が分からなくても、必要な時に芽吹くものだから。あ、その芽吹いた言葉は、芽言めことっていうの。これも未言よ」

 これまでの『冬咲く』も理解してもらえてないのに、さらに『芽言』という新しい未言までぶっこんでくるのですから、紫月は本当に容赦のない思考回路をしていると言えるでしょう。それもこれも、必要な言葉は必ず理解出来る時が来るという、人間への強い確信があるからなのですが、その場で理解不能な言葉をぶつけられた相手にとっては堪ったものではありません。

 しかし、この少女は、紫月の見立て通り、中々に優れた知性を備えていたのです。

「つまり、花がさいて美しい春よりも、その花をさかせるためにひっしになった冬のほうがすごいって話?」

 少女が何とか辿り着いた結論を聴いて、紫月は目を輝かせ、満面の笑みを咲かせました。

「そう! その通りだよ!」

「う、うん……」

 紫月に勢いよく手を奪われ、ぎゅっと握りしめられた少女は、今度こそ本当に親を呼ぼうかと思案するほどに引いてしまいました。

 けれど、まぁ、そこまで邪険にすることもないかと、ぎりぎりで思いとどまってくれたのです。

「未言? っていうのは、すてきな言葉たちなのかも、しれないね」

 そんな風に素直な少女の感性に受け入れられて。

 それこそ感極まった紫月は、その小さくて暖かい体をぎゅっと抱き締めて、迸る喜びを直に伝えてしまったのです。

 当然、少女は無言のまま、この変人に関わってしまったことを、そしてそれ以上にこの変人にこれからも関わりたいかもと思ってしまっていることを、強く強く後悔していたのでした。


未言源宗 『冬咲く』 完

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