序章

 ここはりゆうしよう国、けいこうがい鹿ろつ村。

 田んぼと畑の間をうように通る道を、のんびりと牛を引くおきなが、歌を口ずさんで歩いていく。


 ももようようたる

 しやくしやくたりはな

 とつ

 しつよろしからん


 歌は春風に乗って田園風景にひびく。翁の後ろから、小さなこどもたちが走って追いしていった。

 雲雀ひばりがさえずり、あちこちに桃やはやきの山桜が咲く。

 その花のかおりが春風に乗って、大農家・家のえんがわや大しきにも入ってきた。


 そのこうふう満ちる大座敷で──おろおろと頭を下げる大男がいた。


「こんなむすめですが、よめむかえてくださるお宅はありませんか。もしくは嫁しゆうちゆうのお宅をしようかいいただけないでしょうか……」

 集まった二十人ほどの──みなとしごろ息子むすこのいる──男たちは、敬愛する村ゆいいつじゆくの教師、はくえんらいと、その後方に座っている少女にちらと目をやる。

「そりゃあ遠雷教師せんせいたのみなら聞いてやりてえんだけどよ。花音かのんを嫁に、って言われると、ちょっとなあ……」

 その少女──花音は、決まりの悪そうな顔でうつむいた。

 両側でそうりんっただけのしつこくかみ、対照的に白い顔の中で、桜色のくちびるが不満そうにとがっている。つんとつまんだような鼻や大きなすい色のひとみ、少々せすぎ感のあるきやしやな体形は、全体的に子ねこを思わせた。

(そりゃそうよ。あたしをお嫁にもらいたい家なんて、自分で言うのもなんだけど無いと思うわ)

 ここ鹿河村では、田畑を耕して生計を立てている者がほとんどだ。

 ゆえに、一家の嫁は農作業をばりばりこなし、その合間にすいせんたくを効率よく片付け、童が生まれれば背負って田んぼに出る。

 それができる体力、体格にすぐれた娘が嫁として人気がある。しかし残念ながら、花音はどの条件も優れていない。

 故に、村のおさなじみが次々ととついでいく中、一人えんだんがまとまらなかった。

 そのことは年頃の乙女おとめとしてほんの少々傷ついたが、それだけだ。むしろ好都合、幸運だ、くらいに思っていた。

 ところが、父・遠雷はちがった。

「なぜだっ。花音の縁談がまとまらないなんて……少し変わったところがあって本ばかり読んでいるが、母さんゆずりのこの愛らしさだというのに!」

 かくて遠雷は親バカ丸出しで花音のこんかつを強行した。村の相談役である李家の姥姥おばあに泣き付き、年頃の息子のいる家にしようしゆうをかけたのである。

 花音にとっては完全にありがためいわく、子の心親知らず、だ。

(あたしはけつこんなんてまだしたくないんだから!)

 十六といえば農村では結婚てきれい、童がいてもおかしくない年頃であることは花音もわかっている。わかっているのだが。

(結婚なんかしたら、本が読めなくなる!)

 嫁いでいった幼馴染たちを見るにつけ思う。

 もちろん、彼女たちが宝物をあつかうように生まれたばかりの我が子を見せてくれたり、夫といちゃいちゃしているのを見れば、心がざわつくこともある。ああ幸せってこういうことよね、と思う。しかし。

(あたしはまだまだ、本を読んで暮らしたい)

 花音の心にあるのは、それのみ。

(母さんは、いつも本を持っていたもの)

 亡くなった花音の母は、いつもほがらかでよく本を読み聞かせてくれた。同じ本でも語り口調を変えたりそつきようの話を交ぜたりして、楽しませてくれた。

 花音のおぼろげなおくでは、母はいつも本を持っていて、だけど村人や父とも円満だった。母は「嫁業」をこなしつつ本を読む時間も確保していたのだろう。

 花音も、いつかはそんな嫁になりたいと思っている。

 でも今は「本を読みたい!」という気持ちが強すぎて、理想の嫁になれる自信がない。

 頭にあるのは「結婚相手に出会いたい」ではなく「新しい本に出会いたい」なのだ。

 私塾を営むだけあって、花音の家はびんぼうながら本だけはたくさんあった。母亡きあと、本を読むことは悲しみにしずんだ花音の心の支えとなり、やがて生活そのものとなった。花音は家の本を何度も読み返し、村の集会所にある本も、李家の蔵書も、すべて読みつくしてしまった。

 この村にはもう、花音の読める本は無い。

 そして気が付けば花音は大きくなり、農村の働き手、結婚適齢期に差しかかっていた。

 したがって、嫁にいかずにもっともっと本を読むためには、本を扱う仕事にく必要があった。

 そのことを言おうと、先刻から機会をうかがっているのだが、なかなか言い出す機会がめぐってこない。

 難色を示してだまりこんでしまった村人たちに、遠雷があわてて付け加えた。

「こ、こう見えて花音は炊事洗濯一通り、ちゃんとできるんですよ」

 しかし、りんりん家のおやじが気の毒そうにつぶやいた。

「できるはできるんだろうけどなあ……花音ちゃん、本読みながら家事やるから、しょっちゅうかまどからげたにおいがしているよな。せんたくものも本を読んでて干すのを忘れて、なまがわしゆうがするって遠雷教師がいつもぼやいているしな……」

 周囲の村人たちもしきりにうなずく。

 花音が常に本を片手に家事をして失敗していることは、もはや村中に知れわたっている。墓穴をった遠雷は再び冷やあせを流して黙りこんだ。

 そんな一同を見渡し、李家の姥姥が花音に顔を向ける。

「花音よ、おぬしはどう思うておる。嫁にいく気があるようには見えんがのう」

 しわくちゃでいつも笑い顔の姥姥は見た目によらずするどい。さすがは村の相談役、ツッコミどころを心得ている。

 しかしおかげで花音の待っていた絶好の機会が巡ってきた。

「実はあたし、こうぐうによかんになりたいんです! だから試挙を受けたいんです!」

 いつぱくせいじやくの後。

 座敷にだいばくしようが起こった。

「無理無理無理、なに言ってんだ花音。いっくら本読むのが好きだからって、こんな田舎いなかから試挙に通るわけないだろうが」

「夢みてえなこと言ってねえで親孝行しろって。姥姥に嫁入りしゆぎようをつけてもらって、早いところ嫁にいって、遠雷教師を安心させてやれ」

 試挙は国の官人・女官となる人材を選ぶちよう難関国家試験。

 国中からゆうしゆうな人材が試挙を目指し、きゆうだいするのはほんのひとにぎりだ。官人も皇宮女官もなりたくてなれるものではない。村人たちが失笑するのも無理はない。

「ああ、またその話が……試挙はダメだと言っているのに」

 頭をかかえる遠雷に、姥姥はたずねた。

「遠雷さんや、皇宮勤めはダメなんかのう」

「皇宮に入ったらよけいにこんのがすじゃないですか! 年季があるんですよ? それに試挙の勉強をするヒマがあったら嫁入り修業をするべきでしょう!」

 おだやかな父にめずらしく、この話題になるとがんに譲らない。

 しかし、花音はすかさず反論した。ここでん張らなくては、じようだんきで結婚させられてしまう。

「ほ、ほら、父さん、私塾の小屋が修理してもあまりする、建てなおしたいって言ってたでしょ。あたしが皇宮女官になれば高いお給金がもらえるよ。じゃんじゃん仕送りするから!」

「そういうのを『取らぬたぬきの皮算用』というんだ! 試挙はそんなに甘くない。そんなことよりも今! 今、嫁に行く方が大事だ!」

「でも今! 今、必死に勉強して試挙を受けて皇宮女官になれば、年季が明けて帰ってきてもまだぎりぎりお嫁にいけるねんれいだよ!」

「試挙に及第できなかったらどうするんだ? 知識ばかりあっても田畑を耕して日々のかてを得られなければ村のお荷物になるんだぞ? 天国の母さんだってそんなことは望んでいないはずだ!」

「でもっ、あたし皇宮女官だったら人様の役に……少しは……立てると思うの! お嫁にいっても少しも役に立てる気がしないよ! ていうかお嫁にもらってくれる人いないし!」

「だからこうして嫁入り相談に来たんじゃないか!」

 どうどうめぐりである。

 姥姥は目の前で火花を散らす父娘おやこを見上げた。

「遠雷さんや、後宮で勤めあげれば嫁のもらい手には不自由せぬよ」

「え!? 本当ですか!?」

「例えばしようしよく女官なんぞ、料理やれい作法をしっかりたたき込まれてくるから、帰郷すれば引く手あまたじゃ」

「引く手あまた!?」

 試挙のことになると頑固に譲らないあの父がどうようしている。

(もう一押し!)

 花音はここぞとばかりに言い放った。

「あたし、次の試挙を受けて尚食女官になります!」

 花音のあまりの勢いとしんけんさに、大しきは静まり返る。遠雷への同情とづかいから、もうだれも笑わなかった。

 しん、とした座敷に姥姥のはくしゆひびいた。

「うむ! よう言うた! 人生、思い切りが大事じゃて──ただし」

 姥姥はになく厳しい顔つきで花音を見上げた。皺くちゃの顔の中で、小さな目がきらん、と鋭く光る。

「機会は一度きり。落第したら、わしが用意したえんだんをすぐに受けること。よいな?」

 ぐ、と花音は言葉にまる。

 周囲の村人たちもごくりと息をむ。

 公衆の面前で最終通告とは、まさに背水のじん。さすがやり手。しかしもう後には引けない。花音は内心おじづきつつも力強く頷いた。

「わ、わかりました」

「花音は腹をくくったぞ。遠雷さんは、どうじゃ」

 なんとも言えない展開に複雑な思いをいだきつつ「引く手あまた」という言葉のゆうわくあらがえず、遠雷は大きくためいきをついて頷いた。

「──機会は一度きり、なら」



 こうして花音は試挙にのぞみ、なんと、見事及第したのだった。



 そして、いよいよ花音がけいりゆうせんに出発する日がやってきた。

「いやあ、遠雷教師せんせいよかったな。まさか花音が尚食女官になるとはなあ」

 農作業の合間に、林家のふうが見送りに来てくれた。

「花音ちゃん、料理も礼儀もきっちり仕込んでもらっておいで。本読みながらなべを焦がしたりするんじゃないよ」

「ははは、さすがにそれはないと思いますよ、おかみさん」

「それもそうだねえ。こりゃ良いよめり修業だ。よかったねえ、遠雷教師」

「はい。年季が明ければ、引く手あまたです!」

 父はうれしそうに「引く手あまた」を強調している。

 そんな父の背中に、花音は心の中で一生けんめい頭を下げていた。


(父さん、ごめんなさい! 一生に一度のむすめうそを、どうか許してね)


 ふところにしまった皇宮からの辞令にそっと手を当てる。

 そこには「白花音をに任命する」とあった。

 遠雷には「白花音をに任命する」と記された、花音自作の辞令を渡してあった。

 女官を後宮六局へり分ける希望調査書に、花音は「しよう局司書女官」と書いたのだ。そして、その希望はかなえられた。

 あのしたたかな李家の姥姥おばあもまさか夢にも思うまい。遠雷にこんかつの助力をするつもりが、花音の夢の実現に大きく助力することになったとは。

(ありがとう姥姥。おかげであたし、理想郷に旅立つことができます!)

 未来のだん様ではなく、新しい本たちに出会える場所。

 今の花音にそれ以上の理想郷はない。李家の姥姥には一生足を向けてられない。

(──だって、こんな機会、一生に一度きりだもの)

 みかどの住まうほうじゆ皇宮には、龍昇国の周辺諸国からちようこう品が多く届くという。その中には当然、多くの書物、ちんぽん貴本があるにちがいない。加えて、宝珠皇宮には市井しせい書堂ほんやとは比べものにならないほど多くの蔵書があると聞く。

 司書女官になれば、それらを手に取ることができるのだ。


 だから「一生に一度」としんりゆうちかって、花音は父に嘘をついた。


「手紙を書くんだよ。嫁にいきたくなったらすぐにでも帰っておいで」

「もう、父さんったら。行く前から帰ってこいなんて。嫁入りの話はしばらく忘れて、少しゆっくりしてよ」

 花音はあきれて苦笑した。大きな身体からだに似合わず、遠雷は花音のこととなるとおろおろと心配ばかりしている。もう出立だというのに、また荷をいじり始めた。

「父さんったら、荷物は確認したからだいじょうぶだよ。もともと少ない荷物だし」

「ああ、うん、これを持っていったらと思ってな」

「……それって」

 遠雷が荷に押しこんだのは、ここ数日、遠雷がえんがわで熱心にけずっていた竹のすいとうだ。

 手に取ると、花音の名と花音の好きな山桜が小さくってあった。父はおおがらな身体に似合わず器用なたちなのだ。

 遠雷が照れたように笑った。

「男親だと気が付かないことも多いから、林家のおかみさんに聞いたんだ。水筒はひつじゆ品だってな」

「父さん……」

 縁側で竹を削る、昔より心なしか小さくなった背中が思い出される。花音は胸が熱くなった。

 年季三年。思えば、家を空けるのは初めてだ。

 本読み放題の期間と思うと短いが、父とはなれて暮らすと思うと長く感じる。

 花音は大きく温かな父の手を、ぎゅっとにぎりなおした。

「ありがとう、父さん。手紙、書くからね」

 こうして、冷たさ残る初春の風の中、花音は京師・龍泉へ向けて旅立った。


    ● ● ●


 ──同じころ、京師・龍泉、宝珠こうぐう

 北にそびえるしようほうさんのふもと、白くかがやく建物群はけんろうそうれいそのものである。

 その周囲、晶峰山から続く緑の木々は若芽をきだしつつあった。

 立春をだいぶ過ぎたとはいえ夕暮れになると寒がもどるため、皇城のかいろうには、まだ所々にばちが置かれている。

 夕刻、官人たちは帰りぎわ、その火鉢で暖を取る。

 各所に置かれた火鉢の周囲には、ろうにやくせんが集って手をかざしていた。

「……して、事はしんちよくしているのか」

 火鉢に手をかざしたそうねんの人物は、くすぶる炭をぎようしたまま問うた。

 その人物は黒い絹のしんを着ていた。大きなとらしゆうが、今にもゆうやみおどりでてきそうだ。一方、向かい合った男は地味なやなぎ色のほう姿。この回廊のすみの火鉢には、二人以外にひとかげはない。

「は。おそれながら、いまだ実行に至らず。ですがひめぎみ様はすこやかにお過ごしの様子」

かんしやくひどくなっていると聞く。あの件、早くけねばならん」

ぎよにござります」

 答えた男は、浅く頭を下げるが、動きがぎこちない。必死でへいふくしたいしようどうえているかのような動き。表情の無い能面のような顔には、ひだりほほに大きな傷がある。

 対する人物は火鉢の前でゆっくりと手をみ、かたわらにえられた火き棒を持った。

「私のおくちがいだろうか。花祭りまで、あまり日が無かったかと記憶しているが」

 火掻き棒が静かに炭を動かした。しわの刻まれたげんある顔が炭で赤々と照らされる。

「かの書、所在の見当はついております」

 ほお傷の男は食いしばった歯の間から声をしぼり出した。

「赤のおんかたが。ゆえに、下手な手出しができず──」

「言い訳は好かぬ!」

 火掻き棒が火鉢のふちに当たって、大きな音をたてた。

「……急げ。多少あらでもかまわん。なんとしても『はなぞう』を手に入れ、後宮の中で事を成すのだ」

「御意」

 黒いころもの人物は火掻き棒を男にわたし、ゆっくりと回廊の先の闇に消えた。

 頬傷の男はじっとこうべを垂れていたが、やがてないてい──後宮の方角へ決然と立ち去った。


 その様子をすべて、ものかげから見ていた影がある。


 こうたくある白絹の深衣を着流し、あかしや上衣を羽織った姿は、薄闇にかび上がるうるわしい月の神のようだ。

「──はかりごとは火鉢の前で、か。さすがはふるぎつね

 だいぶ前に終業のかねが打ち鳴らされ、夜のとばりが降りかけている空の下、皇城にはほとんど人影もない。さきほどの火鉢も守衛がやってきて炭を回収していく。もう、皇城がねむりに就く時間だ。

 皇城は明日の夜明けまで、ひっそりと闇にしずむ。

 それとは対照的に、宝珠皇宮の北、内廷に当たる場所はだんだんと明るさを増していく。

 一つ、また一つと、色とりどりのつりどうろうに明かりが入り、内廷のけんらんきゆう殿でんを闇に浮かび上がらせていく。

 夜空の下、げんそう的に明かりを増していくその方角を見て、美しいようぼうが不敵にんだ。

「いつの時代にも後宮にはのろいといんぼううずく。だが、呪いも陰謀も、オレが回収する」

 紅い紗がひるがえり、明るさを増していく内廷へと消えた。

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