第9話  友の葬式にて


 化粧を終えて喪服にあわせた真珠のネックレスをつけながら娘が俺の向かいに座った。孫娘が図書館に出発する直前に新しく淹れなおしたコーヒーを飲みながら言った。

「お父さん、今日は調子いいの?」

「……今日はと聞かれても、比較する昨日がないからな。ずっと昔だった昨日からくらべたら全身悪いところだらけだ」

「そんなことが言えるなら大丈夫ね」

 孫に比べて娘の方はいくらか憎らしいタイプのようだ。

「今日はお葬式があるのよ……」

「それは見ればだいたい予想がつくが。」

「鳩山さんちの奥さん……。わかるでしょ。先日亡くなったのよ。それで今日がお葬式」

「そうか、鳩山のやつ、結婚したのだな」

「もう、何十年も前の話よ。覚えてないでしょうけど結婚式にも参加したって言ってたわ」

「そりゃ、あいつの結婚式なら参加してやらにゃならんだろうな」

「……鳩山さん、落ち込んでるでしょうから慰めてあげなさいよ」

「まあ、断る理由なんてないだろう。今日一日何をして過ごせばいいかもわからなかったのだ」

 内心、自分の友人がいてくれたことがありがたかった。会いたいと思った。

 あいつなら俺の気持ちがいくらかわかってくれるかもしれない。それに妻を亡くして落ち込んでいるというならあいつの気持ちもいくらかわかってやれるかもしれないと思った。俺にとっても妻を亡くしたのはつい、さっきのようなものだ。

 あいつもさぞかし老けたことだろう。

 娘の運転する車の助手席に乗り込み見慣れているようで見慣れない街を走った。

 世界はまるで変っていた。ビルヂングは高くそびえたち、道路も広く整備されている。五〇年の時間が抜け落ちてしまっている俺にとってそれは未来の都市だった。

 それでも俺の知っている未来の都市とは言い難い。今乗っている車だって俺が知っているものからすればずいぶんと高性能になっている。

 が、所詮は道路を走っている。車が空を走る時代にはなっていない。娘の話ではまだ月には人は住んでいないらしい。それどころか俺が事故にあった直後のアポロ17号を最後に計画は終了し、それ以降人類は誰も月に行ってないという。そう思えば五十年なんてあっという間だ。

 眠って、朝、目が覚めたと思っているうちに過ぎ去ってしまうものだ。物事の本質は何も変わらない。人間の本質だってそう変わるものではない。

 いまだに人は人を愛し、老い、死んでゆくだけだった。

 こうしてあと何度か眠り、朝驚き、また眠っている間に俺も死んでいくのだろう。その眠りの最後はもう、次には起きないというだけだ。

 それはとても切ないものに感じたが、妻のいなくなったこの世界に生きていきたいという希望もない。

 車の助手席から運転している娘を眺めた。聞いた話を統合すれば娘はだいたい四十といくらかといった歳だろう。それにしては少し若く見えるのは入念な化粧のせいか。いずれにしても自分よりは明らかに年上に見える。実際の自分はもう、七十を超えているのだが、記憶の限りではいまだに二十六のままだ。なのにその娘が四十を超えているというのはなかなかなじめない現実だ。

「そう言えばまだ、名前を聞いていなかったな……」自分の娘の名前を尋ねるというのもけったいなものだ。

「聞かなくってもわかるでしょ。自分の娘なんだから」

 冷たく言いあしらう娘は俺の現状を理解していない愚か者というわけではないことくらいはいわれなくてもわかっている。そして俺からこの質問をされたのも初めてではなかっただろう。

 たしかに娘の名前がなんなのかくらいは聞く必要なんてなかったな。

先週の話だ。あくまでも記憶の中にある先週の話。小夜が言い出したことだ。

『子供の名前を考えたの。〝咲〟というのはどうかしら』といいだした。それに対して俺は『それなら〝咲良〟がいい』といった。小夜は夏に生まれる子が『サクラなんておかしいわ』

といったのを覚えている。


「冗談だよ。娘の名前なんか聞かなくたってわかるよ。咲良」

 自信を持って言ってやった。娘は「はい」とも「いいえ」とも言わずにまっすぐに前を向いて車を運転していた。心なしか少しだけ笑っているように見えた。


 車が到着した家は市内から遠く離れた田舎でかなり古めかしい。とてもよく知っている家で、いくらかくたびれてはいるが、記憶の中にある家に相違ない。家をぐるりと囲む生垣は手入れも施されず雄々しく緑を放っていて、石を積んで作られた門に鯨幕が張られてあり、玄関に喪服を着た人だかりができている。

 娘に弔問の受付を任せ玄関を通らずに脇の猫走りから裏口に向かって歩いた。かつてはいつもそこから裏の離れにある友人の鳩山大輔の部屋に入り浸っていた。

 そこに大輔はいなかった。代わりに大輔によく似た青年(おそらく孫だろう)とその友人らしき青年がいた。二人は葬儀についての段取りを話し合っているようだった。

「あ、笹葉さんのおじいちゃん?」

 正直。おじいちゃんと呼ばれることに慣れてはいない。

「祖父なら母屋の方です」鳩山の孫らしき青年が言って「あ、わかりませんよね」と急いで駆け寄ろうとした。おそらく俺の置かれている病気?のことも知っているらしい。

 すかさず手を伸ばし掌をさらした。

「いい、昔の記憶はある……。ずっと昔のだがな」

 自虐的にも感じるその言葉を言い放ち、母屋の裏口から入って水屋を通りぬけて裏手にある縁側に向かった。

 誰もいない、家の住人しか入り込まない裏手の縁側に男は座っていた。

 しわだらけで腰の曲がった男。妻を失ったばかりで憔悴しきったその男が誰だか迷うことはなかった。しわこそ増えても変わらないものだ。

 俺は黙ってそいつの横に行って縁台に腰かけた。


「来たのか……」

「ああ」

「シズちゃん。先に逝ったよ」

「シズちゃん……」呟くように言って、鳩山大輔の方を見た。手には小さな遺影を握りしめている。

 ――ああ、そうか。シズちゃんというのは静香のことか、俺達三人は昔からいつも一緒だったからな。大輔は静香と結婚したのか。

「なあ、トキくん。これからワシら、どうやって生きていけばいいのかな」

「……早く立ち直れよ」

「お前は立ち直れたのか?」

「立ち直るも何も……。小夜が死んだことだって今朝まで忘れてたんだ。俺からしてみれば今日、小夜を失ったようなものだ。お前は明日になれば少し過去になるだろう。明後日になればもっと過去になる。そうやっていくうちに少しずつ忘れていく。

 ……俺なんて、いつまでたっても毎朝小夜を失い続けるんだ、明日も、あさっても」

「でも、一番楽しかった日々も昨日のことのように感じるだろう。シズちゃんは永い間、癌と闘ってた。毎日が辛そうで……。それでも何もしてやれなかった。楽しかった記憶なんてずっと昔のことだ。最近ではもう、ボケが近づいてきたのかあまり思い出せなくなってきやがった」

「それでもないよりはマシさ。俺は楽しかった記憶だけでなく、つらかった時の記憶も全部思い出したい……」

「仕方ないじゃないか。でも、憶えていることはずっと憶えていてやれ」

「……あたりまえだ」

 それからしばらく黙りこんだ。座敷の方が騒がしくなってきた。間もなく葬儀が始まりそうな様子だ。

「いいのか大輔。喪主がいつまでもこんなとこにいて」

「ああ、孫がいる。それとその友達だ。あの二人がほとんど仕切ってくれている。ワシはただ、ここで感傷に浸っていればいい。全くよくできた孫だよ」

「そうだな。俺もさっき会った。というより過去に何度もあっているようだったが」

「あいつらを見てると昔のワシらを思い出すなあ」

「ああ、俺達と静香はいつも三人一緒だったな。まさかお前と結婚するとはなあ」

「……なあ、トキくん。いいことを教えてやろうか。といってもこれを教えてやるのもこれで何度目かは知らんが……」

「もったいぶらずに言え」

「シズちゃんなあ。ずっとお前のこと好きだったんだぞ」

「え………」

「知らなかったんだろ。それに気づかずにお前は新たに登場した小夜さんに夢中だった」

「……」

「気にするな。おかげでワシたちは幸せになれたんじゃ。むしろお前の鈍感さには感謝しとるわい」

「まったくだな」

 大輔は煙草を取り出し火をつけた。

「お前も吸うか」大輔は煙草の箱を俺の方に差しだした。

「もうやめた。小夜が妊娠した時からだ」

「知ってるよ。何十年も前から。ワシはシズちゃんが妊娠してもやめなかった。それをシズちゃんはずっと根に持ち続けたよ。こんなことならさっさとやめておけばよかった」

 そう言いながらも大輔は肺の中をニコチンで満たし、深呼吸するようにゆっくりと煙を吐き出して言った。

「全部いい思い出だ。忘れたくはないな」

「……それでも俺は忘れていく。明日、目が覚めれば小夜も静香もいなくなった世界で目を覚ます」

「それはワシにしても同じだ。記憶が残るだけ。

 なあ、こうやってワシらは残りの人生を生きていくのだな。ひとり、またひとり別れを繰り返しながら……。最後には全部と別れをしながらワシが消えていくんだ」

「でも、記憶は残る。俺は今日のお前を覚えていてはやれないが、昔のお前のことは忘れない。昔の静のことも、小夜のことも。

 それにお前の孫たちだってお前が死んだ後もお前のことを覚えていてくれるだろうよ」

「そうか……。そうだな。憶えていればいいんだな。シズちゃんが死んでも、ワシが生きている限りシズちゃんのことを憶えていてやればいい。そうやってワシは残りの人生を生きていけばいいんだな」

「そうだよ。羨ましいよ」

「そろそろ式が始まりそうだな」

「ああ、行くか」


 葬式の間、大輔は泣かなかった。あふれる涙を止められず鼻をすする人たちのいる中、思い出を一番多く持っているだろう大輔は泣かなかった。時折目を閉じて昔を思い出していたようだったが……

 そして、それと同時に最愛の妻を亡くしておきながらその思い出がほとんどない自分が悲しくなった。悲しくなったと同時に自分は妻の葬式の日に何を考えていたのだろうかと考えた。

 当然その日の記憶はない。そして葬式の日も妻の亡骸を横におきながら、共に過ごした記憶のほとんどを覚えていない俺が、どれほどに追悼してやれたかが不安になった。おそらく記憶の継続が出来なくなった俺を毎日世話するのは並大抵のことではなかっただろう。そんな日々のストレスが彼女の寿命を縮めてしまったのかもしれないというのに……

 目頭が熱くなった。

 それでも涙は流れなかった。

年を取れば涙腺がゆるむというが、さらに年を取れば涙さえ枯れてしまうのだと知った。年老いた体は涙をつくる機能さえ失わせてしまうのだ。

 血液と涙は同じ成分だと聞いたことがあるが、熱い血潮にたぎることが出来なくなった老人は、やはり涙を流すこともできなくなるのだと思えば自分もいよいよ人間としての終わりが近づきつつあるのだと感じずにはいられない。まさに血も涙もない人間になったようだった。

葬式が終わり、娘の咲良が後片付けを手伝っていた。大輔の娘はシングルマザーで若いうちに病気で亡くなったそうだ。大輔と静香は孫を引き取ってずっと三人で暮らしていたそうだ。咲良は大輔の娘とも仲が良かったらしく、その縁もあってここにはよく様子を見に来ていたらしい。勝手のわかる家なので実にきびきびと働いていた。孫とその友人も若いのに実によく働いていた。おかげ俺は今しばらく大輔と二人で静香の昔話をしていた。まあ、これが俺のできうる中で一番の役割なのかもしれない。この会話がどうか旧知の友人たちの慰安と追悼になってくれれば幸いだ。

若くて働きぶりのいい大輔の孫には帰りしなに孫の更紗をもらってくれないかと冗談で言ってみた。

「いえ、そんなあったこともないのに……」

 と言いながら照れていた。しかし、あったこともないという言葉に少し安堵もした。

 自分で言っておきながらかわいい孫娘が誰かにとられると考えるのは少し腹が立つ。

「その孫娘のかたって美人なんですか?」

 大輔の孫の友達らしき奴が言う。

「当たり前だ。俺の嫁にそっくりでそりゃあとびきりの美人だ」

「あ、じゃあ僕が……」

 などと調子のいいことを言ってくる。

「お前には絶対にやらん!」

 唐突にそういった。なぜかは知らんがこの調子のいい男だけは好きにはなれなかった。


 夕方前にあらかたの片づけを終えた咲良と俺は大輔の家を後にした。気の利いた言葉の一つでも掛けてやればよかったのだろうが、あいにくロクな言葉も浮かばない俺は言葉少なく立ち去った。

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