04.持ちつ持たれつパウンドケーキ(2)

 退勤した胡桃は、電車に乗って一目散に帰路についた。とにかく一刻も早く、お菓子が作りたい。幸いにも今日は金曜日だし、多少寝るのが遅くなっても平気だ。自宅マンションに帰り着いて、昼間食べ損ねたお弁当を食べたあと、さっそくパウンドケーキ作りに取り掛かった。

 パウンドケーキの材料は全部、常備しているものでできる。レシピも記憶しているので、ひたすら無心になりたいときにぴったりのレシピだ。

 バターと砂糖と卵、生クリームと薄力粉。アーモンドプードルとベーキングパウダー。基本のバニラの他に、チョコレートとキャラメルを用意する。チョコレートのパウンドケーキの中には、チョコチップを入れることにしよう。

 ボウルにバターを入れて、ハンドミキサーで白っぽくなるまで混ぜる。ここでバターをふわふわにしておくと、食感が変わるのだ。砂糖を入れて混ぜて、卵を少しずつ入れて混ぜる。ここで分離しないよう、充分に注意が必要。あらかじめ振るっておいた粉類を、再びふるいにかけて入れる。ゴムベラでさっくりと混ぜて、パウンドケーキの型に生地を流し込む。180℃のオーブンで35分焼く。あまり焼き過ぎないのも、しっとり仕上げるためのポイントだ。

 オーブンの中で焼き上がっていく生地をじっと眺めるのが、お菓子作りにおける幸せな時間のひとつだ。無茶な仕事を押し付けてくる同僚、ネチネチと嫌味な課長、ちっとも打ち解けてくれない冷たい先輩。一方的に別れを告げてきた、身勝手な元カレ。余計なことなんて全部忘れて、今は漂ってくる甘い香りに身を委ねたい。

 きれいに焼き上がったパウンドケーキに、水と砂糖とラム酒で作ったシロップをべたべたに、これでもかというぐらいに塗る。冷める前にラップにぴったりと包む。粗熱が取れてから、いそいそと冷蔵庫にしまいこんだ。食べごろは翌日だ。


(明日、食べるの楽しみだなあ)


 考えるだけで、ウキウキと心が浮き立つ。明日は土曜日。いつもより少し寝坊をして、朝食代わりに食べることにしよう。

 その夜の胡桃は、パウンドケーキのことを想いながら幸せな気持ちで眠りについた。



 

 翌朝。9時過ぎに目を覚ました胡桃は、顔を洗うのもそこそこに冷蔵庫へと向かった。中からラップに包んだパウンドケーキを取り出すと、シロップが固まって白い衣ができている。包丁を出して、慎重にパウンドケーキをカットする。現れたのは気泡がほとんどなく、キメの細かい見事な断面だ。

 端っこの部分を手で掴んで、そのままぱくりと口に運ぶ。空腹のせいもあるのだろうが、驚くほどに美味だった。


(パンパカパーン! おめでとうございます! 大成功、星みっつです!)


 そんな効果音とナレーションを脳内でセルフで流して、胡桃はその場で小躍りする。

 焼き上がったパウンドケーキは、バニラ・チョコレート・キャラメルの三種類。どれも一切れずつ食べたが、素晴らしい出来だった。食べられるだけ食べたら、残りは冷凍してしまおうと思ったのだが、こんなに美味しいものを一人で消化してしまうのは惜しい。できることなら、誰かに食べてもらいたい。よしんば、褒めてもらいたい。

 そのとき胡桃の頭に浮かんだのは、おかしな隣人の顔だった。胡桃の作ったアプリコットタルトを、美味かった、と言ってくれた甘党男。

 胡桃は少し悩んだあと、三種類のパウンドケーキを切り分けて、巨大なタッパーに詰められるだけ詰め込んだ。


 ごく軽くメイクをしたあと、ラフなパーカーとワイドパンツに着替えると、タッパーを持って外に出る。今日は迷わず、隣の部屋のインターホンを押した。

 ピンポーン、と一度鳴らしても反応はない。どうしようかと思ったが、諦め悪くもう一度だけ鳴らしてみる。今度は、すぐに扉が開いた。


「しつこいな。締切までには仕上げるって言ってるだろ」


 顔を出した男は、至極不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。萎縮した胡桃は反射的に「す、すみません!」と謝ってしまう。

 前回と同じく、ボサボサ頭に黒のスウェット姿の佐久間は、胡桃を見て、驚いたように目を丸くした。


「なんだ、きみか。一体どうしたんだ」

「い、いきなりすみません。あの、パウンドケーキ作ったんですけど、よかったら食べ」

「入れ」


 食べませんか、と言い終わる前に部屋の中に招き入れられた。胡桃はぺこりと頭を下げて「お邪魔します」とサンダルを脱ぐ。

 およそ一日ぶりにやって来た隣人の部屋は、当然のことながら前回とほとんど変わりなかった。リビングの隅、巨大な本棚の前に毛布が丸まっている。明らかに寝起きという風情だし、今までそこで寝ていたのだろうか。


「ごめんなさい。起こしちゃいました?」

「いや。むしろ、起こしてくれて助かった。完全に寝過ごしていたからな」


 キッチンに立った佐久間は、欠伸混じりにそう答える。胡桃が手渡したタッパーを開けると、中身をしげしげと確認した。


「三種類あるな」

「バニラとチョコとキャラメルです」

「なるほど。アッサムのミルクティーにしよう。きみも飲むだろう」

「は、はい。いただきます」

「皿の上にケーキを乗せてくれ」

 

 差し出されたのは、シンプルだが高級感のある白のケーキ皿だった。胡桃はタッパーからパウンドケーキを出すと、皿の上にひとつずつ乗せた。銀色のフォークも添えて、テーブルの上に置く。

 紅茶のポットとともにダイニングチェアに腰を下ろした佐久間は、嬉しそうに口元を綻ばせた。

 

「昨日の夜から、いい匂いがするなと思っていたんだ」

「えっ、そうだったんですか?」

「別に、昨日に限ったことじゃないがな。深夜に美味そうな焼き菓子の匂いだけを嗅がされるのは、とんでもないテロだ」


 佐久間の言葉に、胡桃は頬を染めて目を伏せた。ストレス解消と称して深夜にお菓子作りに興じることはあったが、まさか隣の部屋にまで匂いが届いていたとは。あらためて(このひと、わたしの隣で生活してるんだなあ)と思うと、なんだか落ち着かない気持ちになる。


「今日は目が覚めたら、駅前にある〝ブランシェ〟に焼き菓子を買いに行こうと思っていたぐらいだ」

「ああ、あそこ美味しいですよね」

「どうしても食べたかったから、きみが持って来てくれてよかった。ありがとう」


 真面目くさった顔でお礼を言われて、胡桃は「いやあ、えへへ」と照れたように頭を掻く。


「このパウンドケーキ、ものすごく美味しく出来たから、絶対誰かに食べてほしくて! 特に今回は、近年稀に見る会心の出来栄えと言われた前回を大幅に上回る出来で……」

「ボジョレーヌーボーのキャッチコピーか?」


 熱をこめて語る胡桃に、佐久間は呆れたように肩をすくめる。「いただきます」と手を合わせて、パウンドケーキを口に運んだ。その様子を、胡桃は固唾を飲んで見守る。一口食べた瞬間に、眠そうだった瞳を大きく見開いた。


「! 美味い」


 やっぱり、彼の反応はわかりやすい。露骨に表情を輝かせた佐久間は、あっというまにバニラのパウンドケーキを平らげてしまった。


「生地がふわふわなのに驚くほどにしっとりしていて、口当たりがなめらかだ。バニラの甘さも絶妙だな。たしかにこれは、50年に一度の出来栄えと言っても過言ではない」

「そ、そこまでは言ってません!」

「チョコレートとキャラメルもいただこう」


 やはり、佐久間の食べっぷりは見ていて非常に気持ち良い。存分に褒めてほしい、という当初の目的も達成された。

 アッサムのミルクティーとともに、胡桃もパウンドケーキを食べる。彼が淹れてくれる紅茶は、お菓子によく合っていて美味しい。


「……それにしても、これは完全に独学なのか? 専門学校に通ったことは?」


 キャラメルのパウンドケーキにフォークを刺しながら、佐久間は唸る。胡桃は「いいえ」と首を横に振ると、彼は怪訝そうに眉間に皺を寄せた。


「そんな馬鹿な。どう考えてもおかしい。それなら、誰に教えてもらったんだ」

「私のお菓子作りの先生は父です。実家がお菓子屋さんだったから、小さい頃から教えてもらってて」


 胡桃の実家は、ごく小さな町のお菓子屋さんだった。胡桃は幼い頃から厨房に立つ父を見ており、父は胡桃にお菓子作りのノウハウを叩き込んでくれた。気難しい父とは今ではまともに会話も交わさないが、あの頃の胡桃は父とお菓子を作る時間が好きだった。

 胡桃が懐かしさに目を細めていると、佐久間は「待てよ」と呟く。顎に手を当てて何やら考え込んでいたが、はっとしたように顔を上げて、尋ねてきた。


「きみの苗字は、糀谷、といったな」

「はい」

「実家の店の名前は……もしかして〝ko-jiya〟か?」

「そうです! え、ご存知だったんですか」


 胡桃は目を丸くする。胡桃の実家である〝ko-jiya〟はごく小さな店だったし、都心からもかなり離れている。焼き菓子を中心に細々と営業しており、近所の常連さんがぽつぽつと買いに来る程度の規模だった。知る人ぞ知る、というレベルですらなかったはずだが。

 

「俺が一番好きな焼き菓子店だ。ここからはアクセスが悪いから、最近は行けていないが……」

「そうなんですか。ありがとうございます」

「特に、あそこのはフィナンシェは絶品だった。久しぶりに食べたいな」

「……すみません。実は、店は二年前に閉めちゃったんです。お父さんが腰を痛めちゃって」


 持病の腰痛が悪化した父は、厨房に長時間立っていることが難しくなり、今は隠居している。胡桃の言葉に、佐久間は打ちひしがれたように項垂れた。「そうか……」と呟く声が暗い。


「残念だな……しかし、きみの菓子が〝ko-jiya〟の直伝なら納得だ。あの焼き菓子のDNAが消えていないならよかった」


 佐久間はティーカップを持ち上げ、一人でうんうんと頷いている。


「きみは、店を継がないのか」

「え!? と、とんでもない……わ、わたしの腕前なんて、プロのパティシエには到底及びませんから。ただのOLですし」


 佐久間の問いに、胡桃はぶんぶんと勢いよくかぶりを振る。お菓子作りで生計を立てられるほど、自分に才能があるとは思えない。せいぜい趣味の範疇で、ストレス解消としてお菓子を作るぐらいが自分には合っているのだ。


「そうか? 俺はきみの作るものが好きだが」

 

 佐久間は残念そうに言った。好き、という言葉に、どきりと心臓が跳ねる。こんなにもまっすぐに好意を口にされるのは、ずいぶんと久しぶりのことだ。

 ……たとえその対象が、自分の作ったお菓子だとしても。


(……わたし。このひとにお菓子食べてもらうの、好きだな)


 自分が作ったものに惜しみない賞賛を与えてくれるのは、やはり嬉しいものだ。美味しい美味しいとパウンドケーキを頬張る彼を見ていると、恋人を失った悲しみなんてどうでもよくなってしまう。


(わたしのことを好きだと言ってくれるひとは、もういないけど……わたしの作ったものを、好きだって言ってくれるひとはいる)


 ただそれだけのことで、自分の存在が認められたような気がする。ここに居てもいいんだよ、って、言ってもらえるような。

 胡桃はミルクティーを飲んだあと、カップをソーサーに戻して、「あの」と口を開いた。


「よかったらまた、わたしが作ったお菓子食べてくれませんか」

「え?」

「わたしのストレス解消方法、お菓子作りなんです。でも、一人じゃとても食べ切れないし、差し入れするにも限界があるし……佐久間さんに食べてもらえると、助かるんですが」

「それはいいな。こちらも願ったり叶ったりだ」


 佐久間は満足げに頷くと、ぱくりとパウンドケーキを食べる。うっとりと目を細めて、しみじみと噛み締めるように言った。


「こんな美味い菓子を作れるなら、人間のストレスエネルギーも馬鹿にできないな。愚痴ぐらいは聞いてやるから、せいぜいストレスを溜め込んでくれ」

「……ちょっと! 他に言い方ないんですか!」


 デリカシーの欠片もない男の物言いに、胡桃はむくれる。佐久間は悪びれた様子もなく、「持ちつ持たれつ、ということだろう」と涼しい顔をしている。


 かくして胡桃とおとなりさんとの、決して甘くはない、おかしな関係が始まったのだった。

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