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◇◇◇  


 凪の海に、点鐘が鳴る。

 陽は完全に落ち、水平線に僅かな朱を残す。


「まだ少しだけ、話に続きがある」


 嘆息の後、カイルは魔女から離れた。


「到着まで、少しだけ猶予が?」

「そうだね。うん、少しだけ。話し終われそうだ」


◇◇◇


 足を踏み外したような感触を覚え、カイルは見張り塔にいた。

 鳥の声、髪を揺らす程度の風。

 同僚と興じていたゲームの、手にしたカードは、1か、7を出すか考える局面。

 彼の手から、乾いた音を立ててカードが盤面に落ちた。

 その顔は恐怖に引き攣り、血の気は失せていた。額には玉の汗。それはカイルも同じだった。


「火だるまの鼠が、体中を食いちぎる、走り回っている、耳元の鳴き声が眼玉から漏れるんだ」


 彼は正気を失い、カイルを狂人の目で見ていた。

 いたたまれなく、目を逸らした遠い地平の先に赤いドレスローブの頭の先が見えた。

 だんだん、だんだんと、砦に近づいてくる。

 カイルは確信をもって鉄管に口を当てた。


「眠りの魔術師が来た」


 ああ、声が震えていた。夢から覚めた? 

 同じ時間を繰り返していると理解していた。

 鉄管から聞こえぬはずの、他の誰かの息を飲む音が聞こえた気がした。

 しばらく返事はなかった。


「門を開くことを許可する」


 ディラン伯の威厳のこもった声がどこか遠くの音に感じたことだろう。

 了解の返事はなかったが門は重い軋みとともに開かれた。


「来られるものはホールに参るよう。事の顛末を見届けよ」

 

 ディラン伯が呼びかけた。


「どうする?」


 呼びかけてみたが、同僚は血が出るほどに腹をかきむしっていた。

引き抜いた髪の毛が盤上のカードに乗っている。


「俺は行くぞ」


 返事は期待せず、カイルはすっくと立ち上がった。



 

 どう歩いてホールに向かったのかは思い出せない。

 狂人、惚け人、生きているかわからない者を、何人も跨いだ道のりだった。

 門は全開にされていて、大ホールにはディラン伯と、平服のロジエ嬢。重装歩兵が左右を固め側近が伯の象徴印の旗手をしていた。


「見張り塔のカイルです。参じました」


 一兵卒が場違いだが、ディラン伯は一瞥すると傍らに控えるよう促した。

 幾らか時間が過ぎたが、カイル以外でホールに現れる者は、とうとういなかった。

 馬が門に着く。眠りの魔術師は軽やかに下乗した。


「どこにつないでおけばよろしいでしょう? 不作法者で申し訳ありません」


 目深く被ったフードを外すと、万物を魅了する美貌が穏やかに微笑んでいた。


「よきに」


 ディラン伯が命ずると、兵が手綱を預かった。


「よろしくおねがいしますね」


 そう会釈をされただけで魂を抜かれたように、兵は立ち尽くしていた。

 眠りの魔術師は重装歩兵の間を平然と歩く。

 時間がそこだけ止まってしまったように、誰も微動だに出来ない様子だ。

 ああ、違うか。

 目を付けられればさっきの悪夢の続きを見せられてしまうという恐怖。それが彼らに瞬きも許さない。そもそも、今は現実なのか。あんな美しい女性が現実にいるのだろうか。


「お目通りいただき、感謝致します、ディラン伯」


 あまりに白々しい、慇懃無礼にも感じる言。

 十歩ほどの間合いで、眠りの魔術師はこうべを垂れ、跪いた。


「よきに」


 伯は無表情に応じた。


「あらためて、下知致します。私の悪名により、諸侯が領土において守護すべき役を降り、回廊地帯の隊商の行き来が滞り、民は貧窮に苦しんでおります。どうか伯のお力添えをお願いしたく、参上致しました」


 たどたどしく、まるで町娘が嘆願しているような様だった。

 だが、それが余計に悍ましく、カイルの喉のあたりまで嗚咽が上がってくる。


「う、ぐ……」


 ロジエ嬢は特に、あのような姿に変えられたのだから。

 彼女は重装歩兵の外套の影にしゃがみこんだ。支えるべきその兵は、ひい、と小さく声を上げるだけで淑女を支えるそぶりはなかった。なにか、目立つそぶりをして、自分に注意を引きたくない。その場にいた全員がそう思っていた。


「失礼を」


 カイルは駆け寄り、自分の肩をロジエ嬢に差し出した。


「足が、腕が、か、体の支え方を、思い出せなくて、私」

「無礼をお許しください」


 腰に手を回し、支える。


「今の貴女は重い鎧を着ていない。大丈夫です、大丈夫なのです」

「う、うう……」


 肩が震えていた。

 この様を、あれはどんな表情で見ている?

 あるいは、歯牙にもかけていないのか?

 カイルは眠りの魔術師のほうを見ることはできなかった。自然と対峙する伯の方に目が向く。ディラン伯の表情に鬼相が宿り、柄の留め金を外す音が静寂のホールにやけに響いた。

 一歩、二歩、眠りの魔術師に剣を打ち下ろす距離までに近づいた。


「この砦より南、回廊地帯の入り口までは便宜を図ることとする。貴公の領内においては諸侯に任を全うするよう伝え、その禄は我が名において支払う。中立地帯のウルナの街に竜の翼の国の大商人の頭目を招聘し助力を求めるがよかろう。取次の証文代わりに我が剣を持ち帰れ」


 剣が抜かれた。伯の目の先には、無防備な眠りの魔術師のうなじがある。


「立て」


 命じられて、眠りの魔術師が顔を上げたようだ。

 所作を視界の端で認知しただけにすぎない。どんな表情をしていたのかはわからない。

 カイルの腕の中の姫は、さらに震えていた。怒りか、恐怖か。


「あちらを見てはなりません」


 目線を遮るも、カイルの腕は振りほどかれた。立つことはできない。


「ああ、実に忌々しい! 忌々しいがお前の勝ちだ眠りの魔術師! 私にはお前を止める術はない。だが心せよ、いかに取り繕おうが、我が子を辱められ、おめおめと思い通りにさせるものか!」


 ディラン伯は己の首に刃を当てると、横に引いた。

 ぱあ、と惨禍が赤く咲き、娘の悲鳴が重なった。

 カイルの腕の中で、何度もお父様、お父様と叫び続けた。

 伯が膝をつく。兵は誰一人動かなかった。


「証の剣、確かに頂戴致しました」


 眠りの魔術師はまるで騎士が爵位を与えられたように、両手で血に染まった剣を受け取った。


「この場に居合わせた皆々様、どうか伯の意志を万人にお伝えください。その上で、伯は地に伏すことなく、眠りの魔術師を見事退けたと」


 魔術師は背を向け、剣をドレスローブの中にしまった。


「あと……死んだ程度では、私の睡魔の世界からは逃れられません」


 かつん、と眠りの魔術師はかかとを鳴らした。散った鮮血が消えて失せた。


「一度死を体験したら、もう死のうとは思わないわ。それほどに死とは冷たく恐ろしい。ご安心を、お嬢様」


 ロジエの反応を待つわけでもなく、踵を返すと、歩み始めた。


「主を守れない兵隊は不要ね」


 手を上げると、鎧甲冑がすべてバラバラになり、がらんどうになって床に転がった。

 まだ悪夢は続いていたのだ。

 カイルとロジエ、そして倒れたディラン伯だけがそこに残され、去り行く足音を聞いていた。


   ◇◇◇


「それで? ディラン伯はどうなったシャミ?」

「俺が見た時には血だまりは消えていたね。それから、俺は逃げ出し、いつのまにか船乗りになっていた」

「うーん……」


 ふう、と大きく魔女は息をついた。


「俺には、未だにこれが夢だったのか、それとも今まさに話している俺はまだ夢の中にいるのか確信が持てないでいる。生きているのか、死んでいるのか、それすらも」

「そこは、シャミーが保証することにしますよ。ここは現実。お兄さんの話を聞いた私がいる限り、それは変わらず、今夜、眠れば夢を見るし、明日の朝には目を覚ます。そしておいしいパンにたくさんはちみつを塗って食べるシャミ!」


 ぐっ、と魔女は力強く拳を作った。


「うん……そうだな。ようやく今夜はゆっくり眠れる気がするよ。話を聞いてくれてありがとう小さな魔女さん、俺も仕事に戻るよ。良い旅を」

「良い夜を、お兄さん」


 港町の灯りが、魔女を迎えていた。


『眠りの魔術師と縁ができてしまったな。ふ、二週間程度の情ではあまりに割が合わんぞ』


 確かに、誰かが魔女に呼び掛けた。


「逆だよ。二週間程度でよくぞ話してくれた、というべきでは?」


 帽子を被り、差し出した手の先に使い魔の鳩が乗った。


 確かに受け取った。

 カイルという騎士の体験した物語を。

 或いは、微睡の世界の続きを。

 手放したかったのか、それとも、その結末を見届けたかったのか。

 ならば変わって、背負うことだろう。彼の願いを叶えるために。


   ◇◇◇


 星の目を解除すると、目前の夜景が消え、すっかり見慣れた執政官の部屋の壁が広がった。

 上位竜語魔法・自分の影法師から生命を作り出す<マーティライズ>。そうして作り出した闇魔女に潜ませた意識を、元の体に戻した。


「しっかし、参ったな」


 百識の魔術師としての自分と、あの子を守りたい自分。

 あの日、フィン殿下との馴れ初めの日。おねえちゃん、おねえちゃんと言ってきたあの子ども。結局、あの子の両親は見つからず、とある夫婦に預けた。その夫婦の顔は思い浮かばない。

 あの出会いからして、既に夢の世界、虚無の世界での出来事だったのではないか。

 虚無。巨大な夢と書いて、巨夢。その化身として、この世界についてきてしまったのか。


「大きくなったわね」


 幽鬼の影に対してそう呟き、我ながら呑気なことだと自嘲した。


「でも、陛下は下された、討伐せよと。私はご判断のままに動くし……それは至上の悦びでもある」


 今の私は制服を着ていた学生じゃない。竜の皇と共に歩む、百識の魔術師。

 殿下の色に合わせた翠玉のドレスローブを纏い。


 再び、影法師――闇魔女の元に意識を飛ばした。

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