第1話

まだ夜も開けきらない午前4時。


ベッドの中で重たい瞼が開いた。

チクタクと秒針の時を刻む音だけが響く部屋で独りため息を落とす。


ショートスリーパー。

そう言えば少しは聞こえがいいが、実際はただの不眠症といったところだろう。

もちろん寝なければ不調をきたすし、注意力散漫どころの騒ぎではない。


まだ眠り始めてから2時間程度。

この調子だと今日もこのまま朝を迎える事になる。

だるい体を起こし、真横にある窓の外を覗く。

暗闇が支配するこの時間帯に私はとてつもない孤独感に襲われる。

寝ても覚めても、ひとりであることに変わりはないのに。

まるでこの世界に私だけしか居ないような静けさがどうしようもなく寂しくてそれは耐え難いものなのだった。

冬真っ只中の今、空が明るさを取り戻すまであと2時間くらいだろうか。



ベット脇のチェストに置かれた小さなランプを灯す。

明るくなった私の視界には横に飾られたフォトフレームが浮かぶ。

満面の笑みを貼り付けてこちらを見ているのは母親の腕に抱かれた、今よりも随分と幼い私だ。

あまりの懐かしさと、そして寂しさと。

過去を振り返るには十分すぎるそれ。浸ってしまうくらいなら捨てればいい。

そう思いながらもフォトフレームに入れて飾ってしまうのだから、寂しさを割り切るにはまだ時間がかかるだろう。


穏やかそうな母に、厳格だけど優しさを持った父に、屈託ない笑顔の兄2人。


まるで幸せの象徴かのような家族写真。

理想的で、未来が明るいものとして疑わないような強さがあった頃。

もう戻る事の出来ない過去。


ひた隠しにしてきた感情が心の奥底で沸々と湧き上がる。


しんと静まり返ったこの家は、私にはあまりにも広すぎた。


確かに在ったはずの存在は何処で欠けてしまったのだろう。


玄関にあったはずの私の物よりもずっと大きな靴も、帰宅したら笑顔をくれたはずの温もりも、誕生日で取り合ったチョコレートケーキも、騒がしくて、だけど嫌いじゃなかったような日常も全てが嘘のようで。


そんなに華やかなものではなかったはずの過去だって、失った今はそれに縋るしかないのだ。

あの時の私だって、死にたいと思っていたし、生きることに楽しさも希望も感じていなかった。未来のことなんて考えたくもなかった。

それでも、私にはもう思い出しか残っていないのだから自分勝手に浸ってしまっても仕方ないのだ。


居た堪れない気持ちに蓋をするようにフォトフレームをそっと倒した。


ゆっくりで、だけど確実に歪み始めた視界。


涙が乾く頃に夜は明けるだろうか。






暫くして、けたたましく鳴り響く全くもって意味の無いそれ。

だって私の脳はもう何時間も前に起きているのだから。


6時45分を告げる目覚ましを止める。


自室をでてネームプレートを揺らしながらドアを少々乱暴に閉めた。

平仮名で「つばさ」と書かれたネームプレートは小学生の頃からそのままだ。

「永嶋翼」という名前は両親がくれた最初のプレゼント。画数こそ多いけれど悪くないと思う。

別に某有名女優と同じ名前だから、なんて理由ではなくただ何となくリズム感やバランスが気に入っている。


のろのろと洗面所へ向かう。

寝不足には少々刺激の強いミントの歯磨き粉をつけた歯ブラシを躊躇いなく口に突っ込む。


起きているのだか、寝ているのだか。

ただタスクをこなすだけの、言ってしまえば簡単な日常である。


歯磨いたらそのままヘアバンドを付けて洗顔する。

冬の冷たい水が頬のニキビに染みるが、こうすればぼんやりとした脳が覚醒して良いだろう。


鏡に写った自分。

顔から伝った水滴がぽたりと落ちる。

父親譲りの奥二重と、母親譲りの小さな口に、面長気味で少し丸い鼻。


恵まれた容姿では無いことくらい自分が一番分かっているが、稀に鏡を見て安心する。

ああ、私にもちゃんと両親の血が流れているんだ。


私もひとりじゃなかったんだ。

もちろん、親なくして子供が生まれることなど今の技術では不可能なのだから当たり前のことだ。

ただ繋がりを感じるようで、どこか懐かしくて。

自分の顔を見てこんな事を思うだなんて、笑われてしまうだろうか。



寂しさを塗りつぶすための強がりはいつだって私を傷つけたけれど辞める事は出来なかった。

弱い自分を認めるのは思いのほか難しいし、醜いプライドがいつだって邪魔をした。


今朝も気分は最悪だ。

軽くスキンケアをして、気を取り直す。

流れ作業でヘアアイロンのスイッチを入れ、その間に制服へと着替える。


スカートを2回折って、ネクタイは緩めに。

それでも校則の範囲内で留める。

学校指定の靴下は短めで履くのが今どきで「かわいい」らしい。


ナチュラルめなアイシャドウを施し、寝不足によりすっかり飼い慣らしてしまったクマをコンシーラーで誤魔化す。

まあこんな物はただの気休めに過ぎないのだけれど。

涙袋を書き終えたらビューラーでほんの少しまつ毛を上げて、パウダーをはたく。

粘膜カラーのリップで唇に生気を与えてメイクは完成だ。

学校生活に上手く順応するために購入した雑誌モデルのそれらを見様見真似で始めたメイクだが、何となく様になってきたのではないだろうか。

着飾る鎧は誰のためだろう、そう考え始めたらもちろんキリがない。

辞めよう。無駄な思考は疲れるだけだ。


温まりすぎたヘアアイロンで親譲りの頑固な癖毛をストレートにする。

高校2年生の冬である今となってはもう慣れた作業。

とは言っても面倒なことに変わりはないからここ何年かボブを保っている。

いつかは伸ばす気になるだろうか。

そういえば小さい頃は長かったっけ。


この一連のルーティンは私が普通である為にかかせない事。普通に紛れるためにはそれなりの努力が必要なのだ。

人と違う自覚がある分、大多数と同じになるべく矯正しなければならない事は沢山ある。



私は私を守る為に、私を殺すしかないのだから。




「今日の星座占い」


なんてポップな字体が映っていたテレビを容赦なく消して、カバンを持つ。

ぷつんと音の消えた部屋はやっぱり寂しかった。



ひとりの家で「いってきます」など言う気になる人間など果たして居るだろうか。

余計に寂しくなるような気がして、もうずっと前から無言で家を出るようにしている。

寂しさを自覚しては死にたくなって悪循環すぎる日々に、溜めに溜めた苦悩を折りたたんでは心の奥底にしまう。

辛いのは私だけじゃない。おまじないのように心で呟いて笑って生きていくしか道はないのだから。

ただ無言でローファーを履き鍵を閉めた。


さあ今日も1日が始まる。

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