第42話 失われるもの

      ◆


 カイリとホタルの手合わせの翌日、俺はケイロウに呼ばれた。

 部屋に入ると、ケイロウは座について火鉢に手を当てていた。この日はよく晴れて、日差しがあってもここのところでは寒さがより一段と厳しかった。

「ホタルの件だが」

 ケイロウの声は落ち着いていた。

「剣術指南役としてそばにおけ、と家臣たちの意見は一致した」

「そのようになさるのですか」

「私はやや疑問があるが、言葉にはできぬ。正しいような気もするが、間違っているような気もする。その剣の腕は疑うものはない。ただ人間としては、何かが違う。これは私のわがままだと思うか」

 俺は軽く頭を下げる。

「私も同じものを感じておりました」

「では、ホタルをどうすれば良いと思う?」

「妙案はございません。申し訳ありません」

 謝る必要はない、とケイロウが笑う。笑わずにはいられない、という笑い方だ。

「あの女はアマギの娘でもある。そういう点では城内の道場に通うものとも共通の意識を持てるだろう。ハバタ家は結束するかもしれんな」

「では、そのようになされば良いかと」

「お前に不安を口にして、馬鹿らしくなった。そうしよう」

 お耳に入れたいことが。

 俺は思い切って口にした。ケイロウが胡乱げな様子で「なんだ」と促してくる。

「ホタル殿が以前、私に、ケイロウ様を切るように、と口にしたことがあります」

「私を切る?」

 ケイロウの声の疑念に、はい、と応じると、短い唸り声が聞こえた。

「私を切ってどうなるのか、ホタルはお前に説明したか」

「いえ、何も。ただ、切れるか、と」

 なるほど、なるほど、と繰り返すケイロウの声は笑いまじりに変わった。

「案外、カイリもホタルに焚き付けられたのかもしれないな。それで剣術指南役に固執したか。そうなると手合わせは形だけで、二人の間で何かしらの打ち合わせでもあったか。それでカイリはホタルに騙された。いや、考えすぎかな」

 笑っている男の前で、俺は頭を下げていた。

「しかしオリバ、仮にホタルを剣術指南役にして、では、ホタル自身が私を切ることなど、ありえるか? 剣術指南役となってしまえば、もはや身動きもとれまいよ。それでは懐に飛び込んだはいいが、逆効果だ」

「そうでしょうか」

「もはや、ハバタ家に取り込まれたも同義であろう」

 まだケイロウは笑っている。俺が口にしていることを冗談として扱っているのは、やや危険にも思えた。だが伝えた俺自身も、どこまで本気にしていいのかは、判然としない。

 ケイロウが言う通り、ホタルの行動はやりすぎだろう。カイリを焚きつけてケイロウを襲わせる方が、ホタル自身が行動するよりも障害が少なく、自然にも思える。

 ホタル自身が行動するとしても、カイリと手合わせをするのは合理的ではない。殺してしまったことが印象操作なのかもしれないが、無駄ではある。

 いや、違うのではないか。

 カイリはホタルの思惑を知っており、それを防ぐためにホタルと立ち合った? しかしそれなら、最初に告発をし、手合わせの意味を変えておく必要がある。剣術指南役の座にまつわる仇討ちではない、という意味合いにだ。

 もっとも、カイリが何を言ったところで、ケイロウも家臣たちもホタルの思惑などどうでもよく、ケイロウへの害意があると言われても笑い飛ばしたかもしれない。

 一人の娘の戯言に真面目になるものなどいないのだ。

 俺でさえ、こうなるまでケイロウ自身に告げることができなかった。

 そしてケイロウは、実際に笑い飛ばしている。

 俺が考えすぎているのか。悪い方向に、考えすぎだろうか。

「ともかくだ、オリバ」

 笑いを収め、ケイロウが身を乗り出す。

「ホタルを剣術指南役とすることにしよう」

 はい、と俺は頭を下げた。

「時に、タンゲから話は聞いたが、なんでも約束とやらがあったということだが、それは本当のことかな」

 俺はわずかに顔を上げ、ケイロウを見ながら「事実でございます」と伝えた。

 舌打ちの後、甘い、甘い、とケイロウは呟く。

「約束など、命を賭けた場で守れるなどと思うのは、まったく甘い。何を考えておるのやら」

「タンゲ様は、まっすぐなお方です」

「そのまっすぐさが、時には弱みともなろう。違うか?」

 違わない。

 人の上に立つものは、正論だけ、信頼だけではいけないのだ。人をまとめるには、時には策を弄し、時には他人を疑うことで、正しい道、あるいは最も犠牲の少ない道を見出すことが必要になる。

 正しいとは、より多くが幸福であること、より少数が不幸であること、である。必ず幸福になれないものが生まれるが、それを受け入れるのが人をの上に立つことだった。

 ケイロウの次に、その立場に立つのはタンゲだろう。

 ケイロウがタンゲのことを気にかけているのは、痛いほどわかる。しかし正しい導き方というものは、存在しない。剣術でさえ、弟子を導く最適の道筋などないのだ。

 領主となるものは、器量が問われる。血筋が問われることもあるが、器量で劣るものは、いずれ追い落とされる。

 それはもしかしたら、剣士が剣に敗れるのと似ているかもしれない。

 弱いものは、敗れるのが必定なのだ。敗れるとは、全てを失うことである。

「話を戻そう。ホタルのことだが」

 俺はすっと上目遣いにケイロウを見る。しかしケイロウは火鉢に視線をやってる。

「剣術指南役として置くと私は言ったが、オリバ、お前だったらこの先、どうする」

「私でしたら」

 考えたことがないわけではない。

 ホタルの危険性は、よく知っている。

「適当な身分のものと夫婦にさせ、遠ざけます」

「それは剣術指南役となってしまえば、通用しないだろう」

「いかにも。しかし他に手はありません。剣術指南役となれば、相応の身分と夫婦にさせることが必要ですが、その上でホタル殿を娶ったものの発言力にも注意が必要でしょう」

「ありそうな発想だ。実はな、私はホタルを剣術指南役にせず、家庭をもたせ、どこぞに遠ざける腹づもりであった。しかし家臣たちは惜しいという。一度、養女に迎え、政略に用いよというものさえもいる。まぁ、あの娘はそれほど、扱いづらいということだ」

「お察しします」

 ま、良い。ケイロウはあっさりと言葉を返す。

「こうして剣術指南役の役目を、他人に押し付けた気分はどうだ、オリバ」

「正直、安堵しております」

「ホタルがお前を切りたいと言い出せば、私としては止める術がないが?」

 思わず顔を上げてしまった。嬉しそうにケイロウが笑っている。

「冗談だ。お前を城に止める理由は、消えつつある。ホタルが剣術指南役を受けるといえば、お前は自由だ、オリバ。どこへなりと去るが良い。しかしもうしばらくは、ここにいてもらうぞ」

 は、と頭を下げると、「話は終わりだ」と声が飛んでくる。

 深く頭を下げ、立ち上がり、部屋を出た。ずっと視線を感じていたが、言葉はなかった。

 廊下に出て、そっと障子を閉める。

 いつの間にか冬が深くなっている。雪こそ降らないが、冷え込みは厳しい。もういつ聞いたかも思い出せない、土地のものの雪が降るという予想を思い出した。まだ雪が降っていない上に、これだけ冷えていれば、さぞ良い寒天が作れるだろう。

 廊下を進みながら、俺はタンゲのことを考えていた。

 ケイロウは気にもしていないようだが、タンゲにはタンゲの思いがあり、矜持がある。

 タンゲが俺に見せた激しい怒りを、ケイロウは知っているのだろうか。知っていて、タンゲをあのように見ているのだろうか。

 あの青年の剥き出しの感情は、放っておいていいものか。

 一時的な激情で、時間とともにやがては薄れ、忘れ去られるのか。

 俺自身のことを考えると、それは難しいように思えた。俺の中には、どれだけ時が過ぎても、何があろうと、決して消えない怒りや憎しみはある。褪せることもなく、怒りは怒りとして、憎しみは憎しみとして、俺の内にあり続ける。

 タンゲが救われることを願うしかないが、いかにも虚しい願いだった。

 俺は部屋に入り、城のものが用意した火鉢のそばに腰を下ろした。

 この翌日、ホタルが剣術指南役の役目を受けた、と聞いた。

 そして夕方、宴があるから座に加わるように、と知らせが来た。固辞しようとしたが、俺を見送るための宴でもある、と言われてはどうしようもなかった。

 刻限になるまで、俺は庭に立って日が暮れていく冬の空を見ていた。

 失われた剣のことが、思い出された。

 この世では、無数の剣が生まれ、無数の剣が消えていく。

 惜しんでも意味はない。

 惜しむべきでもない。

 全ての剣が、いずれは失われるのだ。

 一つの例外もなく。



(続く)

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