5-4 一波纔かに動いて、万波随う(3)

「参勤交代の時に見た月と、今晩の月はよく似てる」

 晋祐は、黒猪口を片手に空を仰ぎ見る。

 新屋敷にある有馬邸の縁側に、利良と晋祐の姿はあった。

 晋祐が懐かしむのは、共に酒を酌み交わし、記憶を掘り起こした忘れえぬ吉野での晩のこと。もう随分と昔のことだ。焼酎に入り込む月光を見ていた利良も、晋祐の言葉に深く頷いた。

本当まこて。月日が経つのは、はえもんじゃいさいなぁ」

 黎明に思いを馳せることなど、つい忘却してしまうくらいに。帰藩した利良と晋祐は目が回るほど忙しさに東奔西走していた。

 江戸にて様々な語学を習得した晋祐は、勘定吟味役に出世すると共に、兼務して造士館で教鞭をとるようになる。

 中でもフランス語は卓越しており、フランス人の講師をも唸るほどだった。そんなにもフランス語が得意になった晋祐だが、実は得意の裏に、人には大っぴらに言えぬ秘密がある。

 それは、薩摩言葉だ。

 晋祐のみが思っていることだが、フランス語と薩摩言葉の発音が似ている。薩摩言葉を聞き、高精度に理解できる癖に、なかなか話せない晋祐は決意を強くした。

 ならばフランス語は! フランス語だけは、必ず習得せねば! 

 そう強く胸に誓いをたててから、晋祐が上達するのは早かった。

 一朝一夕があっという間に過ぎてしまったと思うほど、フランス語には力を入れて学ぶ。後に欧州へ留学する利良に、フランス語の手解きをしたのは言うまでもない。

 一方、利良も念願の要職に就き、日々を忙しく過ごしていた。

 帰藩してすぐ、利良は遊学において習得した太鼓術を披露する。

 藩主・島津忠徳と国父である久光の御前。

 訓練された兵卒を太鼓の音で様々に変化し、編成していく様は壮大であり。また、太鼓を操る利良の姿は、長身も相まって流麗極まりなかった。瞬きを忘れてしまうほどに、その場にいた皆を魅了する。

 その中で、一番利良に魅了されたのが、西郷隆盛だった。

 慶応三年(一八六七年)。

 遊学で太鼓術並びに西洋兵学を学んだ利良は、藩の御兵具一番小隊長に任命される。

 念願の要職を得、さらには遊学の最中に学んだ北辰一刀流を造士館等で教示するほどにもなった。利良の生活は、金銭的にも精神的にも充実するようになっていく。

 西郷隆盛に人柄と才能を見込まれ、大久保利通の腹心として頭角を現した利良は、翌年(一八六八年)には大隊長に就任した。

 利良も晋祐もこのころになると、公私共に多忙を極めるようになる。

 しかし、合間を見つけては、週に二、三度。利良が拵えた酒のつまみで、晋祐の持参した焼酎を酌み交わしていた。

「利良殿も、大隊長かぁ。あっという間に出世したなぁ」

 板に盛られた蒲鉾を口に含みながら、晋祐は感慨深げに言った。

「今日は、そのこっで話があいもんそ」

 凪ぐ風のように。利良は相変わらず、穏やかな表情と落ち着いた聲をしている。晋祐は、月から視線を逸らすと利良を見た。

「まさか……」

「……戦に行くこっに、なりした」


 前年の慶応三年(一八六七年)

 この頃から倒幕の動きが一気に加速する。

 それは日本の端に位置する薩摩藩、晋祐や利良のところまで、機運が高まっていた。

 薩摩藩の主導のもとに成立した四侯会議の崩壊後、第十五代将軍・徳川慶喜との政局に、頓挫したした形となったのだ。結果、薩摩藩は完全に倒幕に舵を切ることとなる。

 倒幕に向け、朝廷への工作を働きかけた同年十月十三、十四日。朝廷から討幕の密勅が薩摩藩と長州藩に下された。

 しかし、徳川慶喜も上手く時期を見据えて立ち回る。

 十四日、徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上。翌十五日に朝廷は勅許した。

 これを『大政奉還』という。

 大政奉還がなされて、幕府は政権を朝廷に返上したため、必然的に。既に出されていた討幕に係る密勅を延期せざるを得なくなってしまったのだ。

 更に追い討ちをかけるように。同年十月二十五日。慶喜は征夷大将軍職の辞任も朝廷に申し出る。

 あまりにも慶喜の動きが早かったせいか。

 朝廷は大政奉還の勅許にあわせて、国是決定のための諸侯会議召集を、急遽行わなければならなかった。決定までの暫時に生じうるであろう、政務の不安を払拭するため。条件付ながら緊急的な政務の執行及び将軍職の延長までもを委任する。

 これにより、実質的に大政奉還は形ばかりのものとなり、慶喜による政権掌握が続く結果となってしまったのだ。

「討幕じゃ!」

 西郷隆盛は、腹の底から声を振り絞った。慶喜の計略に業を煮やした西郷は、幕府を挑発する作戦に出る。浪士を用い、江戸の撹乱作戦を開始した。

 毎晩の如く、鉄砲を携行した浪人等が徒党を組んで江戸の商家に押し入る。大店が次々と襲われ、家人や近隣の住民を悉く惨殺。そして、必ず、三田の薩摩藩邸に逃げ込んでいくのだ。

 これを「薩摩御用盗」と言う。

 夜の江戸から人が消えてしまうほど、住民はこの薩摩御用盗を恐れた。これに乗じて、浪人等の活動は益々激化。江戸だけでなく周辺地域まで及ぶ。

 これには静観していた慶喜も流石に腹を立てた。結果としては、揺さぶりをかけた西郷の思惑どおりとなったのだが、幕府はこれまでの屈辱をはらさんばかりに、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を襲撃。

 慶長四年(一八六八年)。

 軍艦襲撃が引鉄となり、京都の南に位置する鳥羽及び伏見において、薩摩藩・長州藩によって構成された新政府軍と旧幕府軍が激しくぶつかりあった。

 これが戊辰戦争の前哨戦となる鳥羽・伏見の戦いである。


「恐らくやっどん、この度ん戦はなごなりそうじゃ」

「……そうか」

 あくまでも冷静に語る利良に、晋祐はかける言葉を見失っていた。いつもなら「大丈夫!」と、至極簡単に言えていたはずである。

 しかし今は、その言葉を発するのを、晋祐ははばかった。

 苦楽を共にし、互いの体温を近くに感じられる距離にいるからこそ、言える言葉。今回はどういう訳か、妙な胸騒ぎも加勢している。晋祐は黒猪口を握ったまま、押し黙った。

晋祐殿しんすけどんおいの願いば聞いてくいやい」

「願い?」

 利良が自分の願いを吐露とろするのは、本当にめずらしい。相当な覚悟を持って戦に挑むことが、つぶさに感じとれる。晋祐は、利良の顔を覗き込んだ。

「キヨを……嫁に、貰ってはくいやはんどかい」「は???」

「キヨを、晋祐殿の嫁に……」 

「え?? えーッ!?」

 確かに。利良の妹・キヨは、未だ嫁いでいない。

 それは高齢になった祖父母の面倒と川路家の一切を引き受けるために、敢えて嫁がないのだと。晋祐は以前、利良から僅かに聞きかじっていた。

 晋祐自身、未だ独り身。

 キヨの笑顔を咄嗟に思い出し、願ったり叶ったりであると心の隅が妙に騒ぎ出す。

(いやいや、俺! 浮かれ過ぎだって!)

 薩摩隼人たる者。己の浮き足立つ心境を読まれてはならぬ。ざわざわする気持ちを振り払わんと、晋祐は首を大きく横に振った。

「……キヨは厭で、ごわんか?」

 いきなりの晋祐の行動に、利良は目を丸くして呟く。

 いくら己を律するとはいえ、首を横に振ったら否定ともとれる。晋祐は顔を真っ赤にして、更に首を横に振った。

「利良殿、違う!! 違うんだ!!」

「え? ちご? え?」

「身に余る……話だ」

 顔から火が出そうなほど。恥ずかしさが、桜島の噴煙のようにじわじわ溢れてくる。しかし、ここで誤解されたら一生後悔する。

(真っ正直に答えねば……!)

 晋祐は黒猪口が割れんばかりに、グッと拳を握りしめた。

「俺は弱いし、容姿も頭もそれなりだし。これ以上の出世なんか見込めない。こんな情けない俺で……いいんだろうか?」

「キヨも、今の晋祐殿と同じこっを言うちょった」

「え?」

 恥ずかしさが一気に引く。動揺してじんわりと生ぬるい湿気が残った目で、晋祐は利良を見た。

「〝立派な晋祐様しんすけさぁに嫁ぐなんて……。そげんなったら本当ほんのこて良かどん。あたいには、身に余るお話じゃいもす〟って」

「……」

 実際、利良に言われなくとも。

 大分年は離れているが、嫁にするならキヨのような可愛らしい女性がいい。そう長いこと思っていたのは、まぎれもない事実である。

 目尻の垂れた大きな目と屈託のない笑顔は、瞼の裏に現れる度に、晋祐の鼓動を早くさせていた。

 利良は、晋祐の顔を覗き込む。未だ赤みの引かぬ顔を悟られまいと、月明かりから逃れるように晋祐は顔を逸らした。

「いけんじゃろかい?(※ どうだろうか?) 晋祐殿が良ければ……キヨをもろてくいやはんどかい」

「凄い。思ってもみなかった新世界が開いた……」

「え?」

 恥ずかしさと決意が入り乱れる。複雑な表情をした晋祐は、月を見上げて呟いた。ふぅと長く息を吐く。そして月を睨むと、静かに口を開いた。

「キヨさんと、添い遂げたい。是非とも嫁に来て欲しい」

 穏やかであるのに、強くはっきりとした口調。一瞬、目を丸くした利良だったが、すぐさま表情を和らげ晋祐の肩を抱いた。

「……あいがとさげもす(※ ありがとうございます)。晋祐殿」

「いや、礼を言うのは当方だ。利良殿、末永くよろしくお願いする」

「あはは!」

「え?」

何事ないごてか分からんどん、俺が晋祐殿に もろわるっようで、げんねかぁ(※ 恥ずかしい)!」

 突然の結婚話に、精一杯で気持ちに余裕がない。

 そんな自分を笑うのか? 

 晋祐は、怪訝な顔で利良を見た。

 顔を赤らめ笑う利良。

 目尻にほんの僅かに涙を溜めている。嬉しいのか、悲しいのか。自分以上に余裕がない利良を見て、晋祐は思わず吹き出した。

「キヨを、よろしゅお頼んもうす」

「あぁ!」

「ところで、晋祐殿」

「何だ? 利良殿」

「俺と晋祐殿は、義兄弟に成いもすなぁ」

「? あぁ、そうだな」

「俺が兄上あんにょになるって、わかっちょいごわんか?」

「え!? あ? あーっ!?」

 興奮して働かなかった晋祐の頭が、急激に冷静になる。キヨは利良の妹。となると、利良の義弟になるはずだ。

 晋介は横でニヤニヤ笑う利良に、ギョッとして体を反らせた。

兄上あんにょち、呼んでも良かよ?」

「あ……あ、兄上」

「あはは! 冗談じゃっち! 晋祐殿はやっぱり素直じゃあさいなぁ!」

「こらっ! 歳上の弟を揶揄からかうな!」

「あはは! すいもはん! 勘弁しっくいやい!」

「あはは!」

 丸い月が次第に西に傾く。

 二人の笑い声と陽気な会話は、暗闇と冷たくなった空気に溶け込んでいった。

 この時間が、穏やかな一波のように永遠に続けばと。二人は時間を忘れて、いつまでも語り合っていた。

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