4-4 行雲流水(3)

 昼前に降り出した雨は、次第に強さを増していった。

 鹿児島湾を覆う厚い雲は、砲弾の音や銃の音を広く遠くまで響かせている。

 慌ただしく動いていたせいか、戦をしているという実感のなかった晋祐だったが。腹の底に響く砲撃の音を間近で聞くと、そわそわとした気持ちが大きくなる。晋祐は、微妙な息苦しさを覚えた。

 千眼寺へと移動し、晋祐等が帳簿を保管し終わったのが、ちょうど昼前。間一髪で雨に降られずにすんだ。

 息つく暇もなく。鶴丸城へと蜻蛉返りする晋祐は、目深に被った菅笠を打つ雨の音を聞きながら黙々と歩いていた。

(利良殿は、無事だろうか?)

 「大丈夫っじゃっどー!」という聲と共に、利良の破顔一笑が目蓋の裏に浮かび上がる。

 「あぁ、大丈夫だろう」と独言ひとりごちた晋祐は、菅笠の下で上がる口角をひた隠した。

「あい(※ あれ)は、何事ないごっけ?」

 前を歩く同僚が、突然歩みを止める。菅笠を左手で軽く上げると、北の空の方を見上げた。

 急なことで、同僚の背中にぶつかりそうになった晋祐は、慌てて体を反らして回避する。そして、同僚の視線の先に目を凝らした。

 真っ赤に染まる、空。

 夕暮れ時でもないのに、吉野山の麓が赤々と光を放ち、空へと煙が何本と上がる。

「火事ごわんどか?」

「おそらく、じゃろなぁ」

稲荷様いなりさぁの方じゃろかい」

祇園之洲ぎおんのす新波止しんはとん砲台にもちけし、そのあたいじゃいもんそ」

 瞬間、晋祐の胸がずしんと鉛のように重たくなった。

 得体の知れない厭な予感が、無尽蔵に増えていく。居ても立っても居られず、晋祐は雨の中を走り出した。

「すまん! 俺は先に、城に戻る!」

「え? ちょっ……有馬殿!!」

 一目散に御楼門へ向かい、群がる藩士等の間をぬって帳簿台へ突き進む。

 並んだ守衛兵の割振名簿をかき集めた。瞬きも忘れてしまったかのように。晋祐は脇目も触れず、手当たり次第に簿冊を次々と捲る。その時、晋祐の手がピタッと止まった。

「……比志島・与力、川路利良以下五名。小坂通り方面」

(胸に沈む違和感は、これか!!)

 頭にのぼった血が、足元に落ちるように--。

 晋祐の血の気が引いた。

「おい! 小坂通りに配置の守衛兵との連絡はどうなってる!!」

 帳簿台にいた若き藩士の胸ぐらを掴まんばかりに、晋祐は身を乗り出して問いただす。

「……小坂ん方は、かれこれ二時ふたとっ(※約四時間)ばっかい連絡が無か」

 晋祐の迫力に気圧されながらも、若い藩士ははっきりと答えた。

「二時!?」

「小坂通りは、二箇所ん主要砲台にちけで、流れ弾が飛んできっごわす! 正直、詳細は当方でも分かいもはん!」

「クソッ!」

 滅多に負の感情を見せることない晋祐から、強い怒気を含む悪態が出た。

 頭の中に最悪の事態が、ぐるぐると巡る。

 晋祐は若い藩士に踵を返すと、壁にかけられた薩摩筒(※  鉄砲)をひったくるように手にした。

(利良殿! 無事で……無事でいてくれっ!)

未だ藩士でごった返す御楼門を、一気に駆け抜ける。晋祐は空が赤く染まる小坂通りの方角を睨むと、一目散に走り出した。


 小坂通り着いた晋祐は、愕然とした。

 雨が強く打ちつけているにも拘らず、あちこちで火の手があがり、炎は衰える様子すら見せない。

 急ぎ晋祐は、周囲を見渡した。ざっと見たところ、火の手の及んでいない所に、体の大きな影は見当たらない。

(ならば、やはり……!)

 晋祐は、拳を握り炎を睨んだ。その横で、若い女性が涙を流しながら、火の手の奥を覗いている。

「どうした? 誰か探しているのか?」

家子うちげぇんこが、おらんごちなって……」

 晋祐の胸中に、再び厭な予感が走った。

「お役人様が、探しっくいやって……」

「それは、背の高い役人ではなかったか!?」

「はい」

 女性の返事一つ。

 たった一つの短い言葉が、晋祐の心臓を張り裂けんばかり鼓動させる。

 利良に違いない……!

 晋祐の漠然とした不安が、必然としたものに変わった。

「それから直ぐでごわんした。砲弾が落ちっせぇ、火事にないもして……まだ、出てきっくいやはん」

 そこまで言うと、女性は地面に座り込み人目も憚らず泣き出した。

(利良殿ッ!)

 晋祐は短く息を吸うと、消火活動中の男から水の入った桶を奪う。そして、頭から思いっきり良く水をかぶった。

 気持ちを整えるように、一つ二つ大きく深く呼吸をして叫ぶ。

「チェストーーッ!!」

 気合いを全身に行き渡らせ、晋祐は燃え盛る小坂通りを走り抜けた。


「利良殿ーッ!! 返事をしろーッ!!」

 頭から被った水があっという間に、乾いていく。

 炎が揺れる度、喉や皮膚に容赦なく熱が触れた。激しくなった雨を物ともせず、大きな業火は不気味な音をたてて一帯を包む。晋祐は堪らず、袖で顔を覆った。

(これが、英吉利イギリスの砲弾の威力か!?)

 晋祐の本能が、次の一歩を出す脚をすくませる。

(……いかん! 下がるな……進めッ!)

 重たい脚を無理矢理動かし、あとは奮い立たせた気持ちの勢いで一歩、また一歩と前に進む。袖の間から前を覗くと、少し先に井戸があるのが見えた。

 延焼するものがないのか。そこだけ景色が切り取られたように。粒の大きな雨が降っているのが確認できる。まだ、火はおよんでいない。今一度、水をかぶろうと、晋祐は急いで井戸のある方へと体を小さくして移動した。

「ッ!?」

 井戸の屋根に体を滑り込ませ、晋祐はハッと息を短く吸う。汗を拭いながら桶に手をかけたその時、井戸の横に散乱する瓦礫の間に黒い塊が見えた。石垣にもたれるような塊。それが人であると晋祐が認識するまで、さほど時間もかからなかった。

 息がとまる。

 炎で熱った体が一瞬で冷え込むほど、心臓をも凍てつかせるような恐怖が晋祐を支配した。

 勘定方とて、人が目の前で命を落とすことに無縁であるわけでもない。ただ何故か。そういった現場に居合わせる度、左腕の疼きが止まらなくなるのだ。痺れるような鈍い痛さが脂汗を滲ませ、呼吸を浅くさせる。

 雨に濡れた左腕をさすりながら晋祐は、ゆっくりと塊に近づいた。

「……利……良、殿」

 無意識に口から出た言葉。発した本人である晋祐自身が、その言葉を一番信じられずにいた。

 利良愛用の泥染の袴は、焦げやすすが付着し黒く変色している。

 強い雨に打たれているにも拘らず、利良は反応さえ示さない。袋小路の奥に斜めに造られた石垣に体を預け、雨に打たれた四肢はだらりとして、ピクリとも動かず。眠るように閉じた目は、晋祐の声に開く気配すらなかった。

 破裂しそうなほど早い鼓動。気は急いているのに、晋祐の足は異様に重かった。

 無理に動かすともつれてしまう足を懸命に動かし、転がるように利良に近づく。動かない利良の胸に己の耳を添えた。

 氷のように冷え切った体。あまりの冷たさに晋祐は思わず耳を胸から離した。厭な予感と宿る不安が、さらに増幅する。

(余計な事を考えるな!)

 晋祐はかぶりを振って、再び耳を冷たい体に当てた。

 目を瞑り、集中する。利良の心臓の音を拾いわねばならぬのに、自分の耳を脈打つ音と雨音が邪魔をした。晋祐はより強く耳を向けに押し付ける。

--ドクン、ドクン。

 小さく、捉えた。心臓の音。

 瞬間、晋祐の胸に宿る切羽詰まって不安が、雪の如く解けていく。

「利良殿!!」

 晋祐の手は筋肉質な利良の肩を掴むと、爪が食い込むまで強く力をこめた。

「利良殿!! 目を覚ませ!!」

 肩を揺らしても、声をかけても。力の抜けた利良の頭が揺れるだけで、目を覚さない。

 晋祐は激しくなる雨音に負けるよう、より声を張り上げた。

「利良殿!! 夢はまだ半ばだろッ!! 早く目を覚ませ!!」

 その時、利良の指が僅かに動いた。同時に眉間に力が入る。

「……う……うぅ」

「利良殿!! 利良殿!!」

 呻き声を上げ、利良は薄らと目を開けた。

 しかし、未だ意識がはっきりしないのか、直ぐに開けた目を閉じてしまう。晋祐は、血が滲まんばかりに利良の肩を掴んだ。

「利良殿ッ!! 目を覚ませッ!! 早くッ!!」

 バチン、と。利良の両頬を平手で弾く。

 瞬間、焦点が合わず光の無い利良の視線と。必死に見開いた晋祐の視線が交わった。みるみる、利良の目から濁りが消え、いつもの輝きが宿りはじめる。

「……晋祐……殿どん

「利良殿!! よかった……よかった!!」

 晋祐は堪らず、利良を抱きしめた。

 目を覚まさなかったら。

 聲に応えてくれなかったら。

 利良は自分を救ってくれたのに、自分は利良を救えないのか。

 厭な予感しか想像できず、晋祐を抑えていた緊張が解けた。

「心配……したぞ!! よかった……本当に、よかった!!」

 雨に濡れる晋祐の頬を、涙がつたう。

 声を押し殺し泣く晋祐の肩に、利良はそっと自らの額をのせた。はぁと長く息を吐くと、小さく呟く。

あったけもんじゃ……」

 利良は、目を瞑り安心しきった表情を浮かべた。

「晋祐殿は、あったけなぁ……。安心すっ」

「利良殿が冷たすぎるんだ! 早く帰るぞ!」

「……いや、まだ帰れん」

「え?」 

 利良を見つけて、すぐさま連れ帰る予定であった晋祐は、思わず変な声を上げた。

 流していた涙が引っ込んでしまうほどの、利良の意外な答え。体を離して利良の顔を覗き込むんだ晋祐は、思わずハッと息をのんだ。

 利良のいつもの穏やかな表情。そして、意志をはっきりと含んだ目が晋祐を真っ直ぐに見つめる。

男子おとこんこを、見っけなならん」

「……利良殿」

「約束を……しぃもした。必ず、連れっ帰って」

 小坂通りに入る前、燃え盛る炎を目の前に泣く女性を思い出した。

 --しかし、どうやって?

 井戸の周りのごく限られた場所は、辛うじて火の手を逃れているが、見渡せば火の海。この状況下で、稚児が無事でいる可能性は皆無といえる。

 晋祐は狼狽した。自分の命を優先すべきであるはずなのに、利良はそれを良しとしない。おそらく、無理矢理連れ帰ろうとしても、決して首を縦に振ることはないだろう。

「連れっ帰れっか……。分かいもはんどん。命っに替えてでん見つけんなら……」

「利良殿……」

「晋祐殿。ここはあんなかで、先に行っくいやい」

「……何を、言いだすんだ!」

「これ以上、晋祐殿においの情けんなか姿は、見せたくなかで」

 そう言うと利良は照れたように笑う。

 --そうじゃない、そうじゃないだろ! 

 晋祐はもう一度、利良の両頬を手のひらでバチンと叩いた。二回目は覚醒していたため、利良は突然の痛さと晋祐の行動に目を丸くする。

「大丈夫だ!!」

「え?」

「俺も一緒に探す!! 一緒だから大丈夫だ!!」

「あ……あいがとさげもす」

 大丈夫という根拠は、晋祐も正直ない。

 しかし、他人のために耐えがたきことを為す利良の負担を少しでも軽くしたい。その一心から出た言葉だった。啖呵を切った手前、バツが悪くなった晋祐は、ふいに地面に視線を落とした。

「……貝殻?」

 ぬかるんで気が付かなかったが、地面に一つ二つ。白い巻貝が、石垣の奥へ向かって落ちている。晋祐は貝殻を一つ手に取った。晋祐の手のひらでコロコロと動く貝殻を見て、利良は驚いたような声を上げる。

独楽こまじゃ」

「独楽?」

おい団栗どんぐりでしか作ったこっがなかどん。貝殻ん独楽はきれいじゃあさいなぁ」

 白く光る巻貝に、削った木の枝がささる小さな独楽。晋祐は、ぽつぽつと落ちる独楽を目で追った。

「なぁ……利良殿」

何事ないごんな」

「これは。探しているその子の独楽なんじゃないだろうか?」

「!?」

 顔を見合わせた二人の視線が、独楽の先にある石垣の隙間に辿り着く。稚児が入れそうなほどの小さな穴。

 二人は、再び顔を見合わせた。

「利良殿!!」

「晋祐殿!! 流石んこっじゃ!!」

 四つん這いに転がりながら、利良と晋祐は小さな穴に近づく。そして、静かに中を覗き込んだ。

「……った」

「あぁ……!! いたぞ!!」

 穴の中で小さな寝息を立てて寝ている稚児の顔が、あまりも穏やかで。二人は同時に安堵のため息を漏らした。

本当ほんのこち……仏様ほとけさぁおいやいもんじゃ」

 砲弾が飛び交う町の中で、稚児が無事でいた奇跡が目の前で起こった。

 拝みはすれど、神仏の力を過信しているわけではない。この時ばかりは、人知の知れない事だ、と。利良は稚児の頬を撫で、涙を一条流した。

 利良が呟いた言葉に、晋祐も大きく頷く。

「俺は利良殿を見つけた時に、そう思ったぞ?」

「え?」

「仏様の手のひらの上で、利良殿が守られているような」

「……」

 利良は大きく瞬きをして、晋祐を見つめる。「おかしな事を言う奴だな」と、言わんばかりな利良の表情に、晋祐は急に恥ずかしくなった。思ったことを口に出しただけであるのに。晋祐の顔がみるみる真っ赤に変化する。

「言いたいことが纏まらんが! 俺も仏様はいるって思ったんだ!」

「仏様は、晋祐殿じゃ」

「は?」

 利良から発せられた意外な答えに、晋祐の声は裏返ったまま口から溢れた。

 穴の中から稚児を起こさぬよう。そっと引っ張り出した利良は、晋祐に向かって穏やかに笑って言った。

「大丈夫っじゃっち言葉も。暖かい手も。全部じゃ。俺は晋祐殿が仏様のごつぁ」

 大きな手で稚児を抱き上げ、利良はゆっくりと立ち上がる。意外な事を言われ、未だ返事に困っていた晋祐に、利良は手を差し出した。

「晋祐殿、戻ろかい」

「あぁ……!!」

 握り返した利良の手は、先程までの冷たさはなく。いつものように大きく暖かな手が、晋祐にこの上なく嬉しく尊いものに感じた。


 

 三日間にも及ぶ薩摩とイギリスの戦争は、四日目の八月十七日には終わりを告げる。

 イギリス自身、戦闘がここまで長引くとは予想していなかったに違いない。

 艦隊の弾薬や石炭燃料が消耗し、これ以上の戦闘は不可能と判断。自走不能の旗艦を曳航えいこうし、鹿児島湾を南下。船影を小さくしていった。

 薩摩側の砲台により、イギリス艦隊は未曾有の大損害を被る。旗艦五隻中、大破が一隻、中破が二隻。六十名以上にのぼる死傷者を出す結果となってしまった。  

 一方、薩摩側の損害は台場の大砲八門、火薬庫など、軍事的な施設以外への被害は甚大であったが、死傷者はイギリス側の三分の一程度。幸いにも、民間人の死傷者はなかった。

 しかし、薩摩藩がここまでイギリスと善戦を繰り広げられたのは、戦闘中の荒天が影響していると言われている。

 もし、天候が左右しなければ--。

 薩摩藩は、三日ももたずしてイギリス艦隊に制圧されていたに違いない。

 薩英戦争をきっかけに、薩摩藩はこれまでの攘夷の方針を大きく転換した。

 諸外国を排除した強固たる攘夷から、富国強兵を進め諸外国と対等に渡り合える攘夷へ。

 そのためには、諸外国から近代兵器の技術や知識を学ぶことから始めなければならない。諸外国との関係を有効に結ばなければならないのだ、と。

 薩英戦争を乗り越え、日本の黎明が近づく。

 時代の主流は、確実に利良と晋祐のいた支流を巻き込み、その流れを大きくしていった。

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