4-1 有馬手記(4)

「うわっ!?」

 佐伯康弘さえきやすひろは、叫んだ。

 叫ぶだけならまだ良かった。

 いい年をして、腰が抜けそうになるほど驚いてしまったのは、胸中にしまう事にする。

 帰宅して、真っ暗なリビングに浮かび上がる青白い顔に、康弘は一瞬〝出た〟と思ったのだ。

 一歩下がってよく見ると、久しぶりに帰省した長男の顔。康弘は、ホッと胸を撫で下ろした。そして軽く咳払いすると、リビングの電気を付ける。

「何やってんだよ、英祐えいすけ

「あ、父さん。お帰り」

「お帰りじゃねぇって」

「生姜焼き、冷蔵庫だって」

「あぁ、わかった。……んじゃねぇよ」

「なんだよ」

「暗がりで何やってんだよ、って言ってんだよ」

「うん。日本史の調べもの?」

「日本史って……。もうすぐ社会人が何言ってんだよ」

「予習かな?」

「予習って……」

 康弘は、ため息をつきながらネクタイを緩めた。突如として意味不明な行動をとる英祐は、スマートフォンのライトで何やら古めかしい本を読んでいる。

「何読んでんだよ。目ェ悪くなるぞ」

「大丈夫。ある程度悪いし」

「んな問題じゃねぇだろ」

 ああ言えば、こういう。

 こういうのは、最近妻に似ている気がする。

 三人の子どもたち、全てに言える事だ。出会った頃は田舎から出てきた感満載で、初心うぶで可愛かった。

 しかし、今はどうしたものか。口喧嘩では、どうやったって妻に敵わない。育ってきたバックグラウンドとスキルが違いすぎると思った。

(そういや、お義父さん。無茶苦茶怖かったよなー)

 結婚の許可を貰うために、初めて鹿児島に行き、初めて妻の両親と会った。

 失礼のないようキチンとスーツを着て、いざ挨拶をする段になって。意を決して息を吸った康弘に、義父が言った一言。その一言に康弘は腰が抜けるほど驚愕したのを、未だに覚えている。

「康弘君。汗をかいたとじゃなかね。温泉に行っど」

 温泉……。

 何故、温泉だったのか? 

 にこやかな義母は、温泉セットを半ば強引に康弘に持たせる。無言のまま、鹿児島の見知らぬ土地を、義父と並んで歩いて数分の温泉に到着した。

 鹿児島の銭湯って温泉なんだ、と目を丸くしたのも昨日のことのように思い出す。

 せっかくキチンと着こなしたスーツを脱いで、湯に浸かる。特には話をするわけでもなく、無言のまま二人並んで湯船に浸かる様は、側からみれば滑稽そのものだったに違いない。

 若干、草臥れたスーツに再度袖を通したその時。ずっと黙っていた義父が、おもむろに口を開いた。

清香きよかを頼もんで」

 義父の一言が、ずしりと胸に落ちる。

 温泉に入ったこの数十分で、観察されていたのでは? と疑心暗鬼になりつつも。

 康弘の覚悟を察して、義父なりのリラックス方法で距離を縮めたんだと、後々判明する。そして、ガチガチに固まった康弘の中に巣食う不安を、たった一言で片付けてしまう能力に脱帽した。

「あ……ありがとうございます!」

 深々と頭を下げた康弘はこの瞬間。有馬家には、絶対に敵わないと直感で思った。

 その直感は、今やかなり精度の高い事実として目の前にある。

「警察官、なるんだってな」

「うん」

「有馬の祖父じいちゃんも、喜んでんだろうな」

「そうだね」

「立派な警察官になれよ」

「うん。今、その予習の真っ最中だから」

「は?」

 相変わらず、古書から目を離さず、奇妙な事を言う英祐に、康弘はまた深くため息をついた。

「父さんさぁ〝日本警察の父〟って知ってる?」

「川路利良だろ? 幕末漫画にちょいちょい出てくるじゃないか」

「知識はそこかよ」

「たりめぇだ。リーマンの通勤時間なめんな」

「んじゃ、それとはだいぶ違うかもな」

「は?」

「父さん、ありがとう」

「は???」

 会話中、突如として言われた何の脈絡もない「ありがとう」という言葉。家に帰って、何度驚いたことか。康弘は思わず手にしていた箸を落としてしまった。

「なんだよ……いきなり」

「育てるのって、大変なんだな」

「え……何なんだよ。英祐」

「別に」

「はぁ?」

「言ってみたかっただけ」

「……」

 仕事ばかりだった。

 子育てに参加したのなんて、指で数える程度。節目である入学式や卒業式にも行ったことがない。

 都市銀行に勤め、M&Aに席を置く。

 毎晩深夜まで室内に閉じこもり、膨大な資料に埋もれて過ごしてきた。結果としては当然だが。一家に君臨する妻の影に圧倒され、家では最早、空気のようは存在になってしまった。そう、本人も家族も自覚している。

 そんな自分に、我が子が感動的な言葉を言った。つい動揺し、少々しんみりしてしまったのは否めない。結果、軽くあしらわれたのに、半ば喜んでいる自分を殴りたくなった。

 そう思った康弘は、三度目のため息をついて生姜焼きを口に運んだ。

 今更ながら、義父が言った「清香きよかを頼もんで」という言葉がずしりとクる。

 佐伯康弘、五十三歳。

 人生幾多の後悔を味わってきたが、この日のこの後悔だけは、別格にキツいと感じた。

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