1-3 利良の世界(1)

 川路利良は、薩摩藩与力・川路利愛の長男・正之進として天保五年(一八三四年)五月十一日、薩摩国日置郡鹿児島近在比志島村(現・鹿児島県鹿児島市皆与志町)に生を受けた。

 薩摩藩の家臣は上級藩士や中級藩士などに分かれているが、川路家はさらに身分の低い与力・準士という下級藩士身分。

 かの西郷隆盛や大久保利通よりも低い身分である。

 川路家をはじめ多くの準士は、その生計の大半を武士ではなく農業で維持するのが、ごく当たり前で普通のこととされていた。

 加えて国の半分以上を占める火山灰が堆積したシラス大地は、保水性がない痩せた大地で食物がうまく育たない。剣でも農業でも、準士は生活するのがやっとというほど、逼迫した経済状況にあったのである。

 しかし、薩摩藩に仕える武士の大半を占めているのは、下級藩士。

 農民と同様に、田畑を耕し税を納めながら、武士としての教養を身につける。貧しい身分であればあるほど、やることが半端なく多量であるが故に、なかなかに骨を刻む日々を過ごしていたに違いない。

 父・利愛は、長男である正之進に対し、家計の大半を投資し良い教育を受けさせた。造士館での勉学の他に漢学や示現流じげんりゅう以外の剣術も学ばせる。

 こんな時代にも教育熱心な親が存在するのかと、甚だ鼻白む感が否めないが。これは川路家独特のものではない。

 〝優秀ならば、出世できる!!〟

 この信条の元、貧しくても子息により良い教育を受けさせるのは、当時の薩摩藩士の社会的な見栄も含まれていた筈だ。

 そんな父の期待を一身に受けた正之進であったが、正之進自身、勉学も農業も弱音を吐くことなく続けていた。


 鶏よりも早く起床し、正之進は畑仕事をこなす。

 その後、水で汗を軽く流し、庭に実る四季の果物を捥ぐと日が昇る前に造士館へ向かう。冬は蜜柑、春から秋にかけては枇杷や郁子ムベ、たまに瓜に遭遇した時は〝当たり〟であったが。それらを頬張りながら、正之進は土埃の舞う長い道のりを進む。

 小さな田舎の一角から、徐々に広がる正之進の世界。

 自分の知らない世界が、次々と現れていく。

 若き正之進は、忙しくともその日常が楽しくて仕方がなかったのだ。

兄様あにさぁは、もう行っきゃっとー?」

 夜明けの空が白みだした頃。造士館へいく準備をしていた正之進に幼い妹が声をかける。眠い目を擦り、正之進の肩に添える小さな手は、穏やかな温もりを正之進に伝えた。

「キヨか。もう起きったとか?」

「うん」

「まだ日は昇っちょらんよ?」

「目ェが覚めもしたー」

 柔らかく小さな頬に手を添えて、正之進は半ば閉じている妹の目を覗き込んだ。

「今日は、何を持って帰ってきてくれはっとー?」

 いつも何かしら、土産を持って帰る正之進。

 土産といっても、道中で拾ったまん丸い石や、貰った芋なのだが。家の周りの世界しか知らない幼い妹にとっては光り輝く宝物に見えるようだ。正之進が持って帰る異世界の土産を、キヨはいつも楽しみにしていた。たとえそれが、原価無しの土産であったとしても、だ。

「何かなー? 今日は新太郎殿しんたろうどんげぇ行ってくっで、何も無かかんしれん」

「えー!?」

 眠気と戦いつつも、不平を漏らす幼き妹を抱き上げ、正之進は明るく笑う。

「もうちょっと、待ってくいやい」

 正之進は妹の頭を撫でて続けた。

「もうちょっとせぇば、おいが藩の要職に就きもんで。そん時は、キヨの着物ベベからなんから、ぜーんぶ持って帰ってきもんそ」

兄様あにさぁ約束じゃっどー」

「あぁ、約束じゃ!」

 幼き妹は眠い目をしばたかせて、にっこりと笑う。

「そうじゃ! 今度、新太郎殿を連れてきてもよかどかい?」

「新太郎殿をー?」

「あぁ! キヨは新太郎殿にお茶を淹れてくいやはんどかい」

「わかいもうした! うんまかお茶を淹れもんそ」

 白み出した黎明の空。朝露がハスイモの葉をつるんと滑る。丸い水の塊はうっすらと放つ空の光を反射し、正之進の目に虹色の輝きを映し出した。

「今日も世界は、綺麗じゃなぁ」

 幼い妹を抱き上げながら、正之進は自らの理想とする将来を強く抱く。色素の薄い正之進の虹彩は、無限の可能性を秘めて輝く黎明の空を、力強く見つめていた。

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