伍「三女神の元ブラデヱト」

❖十時ごろ / 三ノ宮駅❖



「皆無、神戸全体のヱ―テル反応を探査せよ」


「分かった。けど手配が必要やから、午後からにしよか」


「うむ」


 三ノ宮駅正面の馬車道をのんびりと歩きながら、璃々栖リリスと皆無が悪魔的な会話をしている。

文殊慧眼もんじゅけいがん】で眼前の人物の霊的能力を探るだけでも相当のヱ―テルを消耗するというのに、それを神戸全体に対してやれ、と命じる姫君と、平然と承知する単騎少佐殿。


(手配って何のことだろう?)


 分からないが、必要なら教えてれることであろう。


「これからどうするのですか?」


 先行する二人に尋ねてみれば、果たして甲種悪魔デビルと使い魔が同時に振り返って、


「「日課の訓練――」」「――じゃ」「――や」





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖十数分後 / 神戸鎮台ちんだい 射撃場❖



「【御身の手のうちに・御国と・力と・栄えあり・永遠に・尽きることなく――AMEN】」


 標準的な実包聖別詠唱とともに、千代子は村田銃の引き金を絞る。


 タァーンッ!


 腹に響く銃声とともに、光り輝く天使弾ヱンジェルバレットが射出され、百メートル先の鉄板を穿うがつ。


「次っ!」


「うぅ……【御身の手のうちに・御国と・力と・栄えあり・永遠に・尽きることなく――AMEN】ッ!」


「次っ!」


 千代子の隣では、皆無が自身の魔術の訓練を行いながら千代子に射撃を命じている。

 皆無は炎と水と岩の塊を風の魔術でもってクルクルと舞わせている。

 四属性を同時に行使するとは、いっそ恐ろしいほどの器用さである。


 日課の訓練のかたわら、皆無が千代子を見て呉れることになったのだが、これが古代希臘ギリシャ斯巴爾達スパルタ人も真っ青なほどの厳しさなのだ。


 各人の体質や素質にもよるが、有り体に言って、ヱ―テル総量というものは使えば使うほど伸びる。

 だから、皆無が千代子に命じた訓練方法は単純明快。

『ヱ―テルが底をつくまで撃ち続けろ』というものだった。


「――永遠に・尽きることなく……A、嗚呼ああ……」


 強烈な眠気と頭痛により、千代子はその場に倒れ伏す。


「つ、尽きました……」


「え、嘘やろ? チョコ子少尉、貴官のヱ―テル総量は?」


 ――ヱ―テル総量。

 霊的術式の燃料となる『ヱ―テル』は、休息や祈り、瞑想などで回復させ、溜め込むことができる。

 その最大貯蓄可能量を『ヱ―テル総量』と言う。


 一般人でいち単位、

 霊視が可能な霊能力者で十単位、

 港での退魔検疫業務に当たる下士官で数十から百、

 退魔兵器――村田銃や結界用の十字独鈷杵とっこしょ――を駆使して丙・丁種悪霊デーモンを祓うことのできる尉官・准士官で数百。

 千単位もあれば、まさしく一騎当千のヱリート扱いである。

 さて、家でも士官学校でも天才と誉れ高かった千代子のヱ―テル総量はと言うと、


「――三千単位であります!!」


 千代子は胸を張る。

 幼少期からこっち、同世代で自分よりヱ―テル総量の多い人間など見たことがない。

 昨晩から揺らぎっぱなしな自信ではあるが、千代子にとってはこれが矜持きょうじなのだ。

 だと言うのに、


「ぶふっ、ひっっっっっっっくぅ!?」


 目をいて爆笑する最年少少佐殿。


「ひ、非道ひどい!」


「いやいやいや、さっきお前の上官――田中大尉からお前の履歴書見してもろたんやけど、退魔兵科西洋分科の主席なんやろ? 士官学校も堕ちたもんやなァ……」


「しょ、少佐殿が凄過ぎるんですよ!」


「しゃ~ない。じゃァ璃々栖リリスに補充してもらい」


「……え?」


 村田銃を杖にして何とか立ち上がる。


「ヱ―テルの補充って、ま、ま、まさか――…」


「ふむ」


 射撃場の隅っこで壁にもたれかかっていた姫君が妖艶に微笑み、ぺろりと唇を舐めた。


「チョコ子や、口をお開け」


「え? え? え? ちょっと――」


 璃々栖リリスがずんずんと近づいてくる。

 千代子は思わず後退あとずさる。


「ほぅれ、くせよ」


「そ、そんな、女同士でだなんて――むぐっ!?」


 問答無用で口付けされた。

 どろりと熱くて甘いものが流れ込んできて、途端、猛烈な吐き気が襲い掛かってくる。

 体内ヱ―テル量の急上昇による『ヱ―テル酔い』である。


「お、おぇっ」


「吐くな吐くな、もったいない」


 姫君が再度口付けしてきて、唾を入れられ無理やり嚥下させられた。


 ……そこから先の記憶はない。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖数十分後 / 神戸鎮台ちんだい 医務室❖



「うっ――…」


 目を覚ませば、医務室だった。


「ったく情けない」


 相変わらず魔術で器用なお手玉を続けながら、ベッド脇に座る皆無かいながため息をついた。


「たったの三千単位で気絶するやなんて」


「え、三千んんん!? 私、ヱ―テル総量が三千だって言ったじゃないですか!」


「せやから、空っぽから満杯になったわけやろ? ちょうどやんか」


「端数! 無茶言わないでくださいよォ……」


 嘆く千代子。


「皆無、そなたの王は甘いものが食べたいぞ」


 皆無の隣に座り、我関せずな璃々栖リリス


「はいはい」


 そして、お手玉を消して虚空から林檎を引っ張り出し、風の魔術で皮を剥いて八頭分せしめる皆無。

 皆無が【念動力テレキネシス】で林檎を一切れずつ姫君の口元に運びながら、悪魔的な笑みを浮かべる。


「こりゃァ、鍛え甲斐がありそうやなァ」


「ひぃッ……と、時に少佐殿はどのくらいあるのですか?」


「僕か? 僕は――むぎゅ」


 開きかけた皆無の口を、璃々栖リリスが塞いだ。

 腕がないから、足――編み上げブーツの靴底で、だ。


「ぺっぺっ……もう、何やの璃々栖リリス


「チョコ子や、そなたの術式でこやつのヱ―テル総量を測ってみよ。訓練の一環じゃァ」


「! 承知いたしました」


 千代子はベッドから降り、皆無の前で直立し、


「失礼いたします、少佐殿。――【オン・アラハシャノウ――文殊慧眼もんじゅけいがん】!」


 千代子の脳裏に、小さな球体のようなイメージが浮かび上がる。

 その球体が徐々に大きくなっていく。


「少佐殿のヱ―テル総量は――一、十、百、千」


 その球体が加速度的に大きくなっていき、千代子の脳を圧迫する。


「万、十万、百万、え、え、え!?」


 百万単位など、聞いたことがない。

 いや、第七旅団所属悪魔祓師ヱクソシストの頂点たる『十二聖人』が確か、そのくらいだというウワサ話は聞いたことがある。

 が、『十二聖人』は生きた英雄、神話生物、現人神のような存在なのだ。


 球体は、まだまだ大きくなる。


「一千万単位!? いえ、まだ――あぐッ」


 そのとき、猛烈な頭痛が千代子を襲った。

 限界に達した術式が弾け、球体のイメージが掻き消える。

 頭を抱えてうつむくと、鼻血がぽたぽたと落ちてきた。


「あぁあぁ、済まなんだのぅ」


 璃々栖リリスが労わる様に言ってくる。


「無理をさせてしもぅた。すぐに癒してやろうぞ」


「言うて実際に癒すんは僕なんやけど」


 皆無が千代子の頭をぜる。

 途端、頭痛と鼻血が収まった――驚くほど精緻な、無詠唱の治癒魔術だ。


「申し訳ございません」


「よいよい。これから上手くなってゆけばよいのじゃ」


 何とも優しい悪魔デビルの姫君。


「それで結局、皆無少佐殿のヱ―テル総量は如何ほどなのですか?」


「――二千五百万単位」


「にっ!?!?!? ――ば、バケモノ!」


「おま、上官相手にバケモノて。言うて僕の体内に流れるヱ―テルは、ほとんど全部璃々栖リリスのんやから。璃々栖・・・に逢う・・・前は・・、一万ちょいしかなかった」


「いやいやいやいや一万ちょいって!」


「僕が譲渡されている二千五百万ですら、璃々栖リリスにとっては大した量やない。本物のバケモノってのは璃々栖リリスのことを言うんやで」


「をいをいそなた、主相手にバケモノとは何事じゃ。斯様かように美しいバケモノがおるか? んんん?」


「はいはい。璃々栖リリスは世界一可愛くて美人で賢いバケモノやで」


「んっふっふっ、よく分かっておるではないか! ……ん? 皆無、今何かおかしく――もがっ、喋っておるときに口に突っ込むとは無礼もがもが」


「――――……」


 皆無に林檎を喰わせてもらい、小動物のようにむしゃむしゃやっている璃々栖リリスのことが、千代子は怖くてたまらない。

 璃々栖リリスのヱ―テル総量を聞く気には、到底なれなかった。


「てなわけで、僕ら凡夫ぼんぷ凡人は必死に鍛錬するほかないってわけや。ほな射撃場戻ろか」


「ひえっ……」





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖昼 / MEP屋敷 食堂❖



「さて、出るぞ」


 千代子が吐き気を圧して昼食を腹に詰め込んでいると、璃々栖リリスがそう言った。

 急いで飲み込み、姫に付き添ってMEP屋敷の外に出る。


「皆無」


「うん」


 皆無が顎を上げると、門を出入りしている第七旅団員たちが見ている前で、二人が熱烈な口付けをする。


(うわぁ……)


 改めて見てみると、絶世の美女が、年端もいかぬ、まるで少女のように可愛らしい少年に顎を上げさせ口付けするという構図は、何とも耽美で背徳的である。

 が、千代子はその光景を楽しむことができない。

 他ならぬその少年というのが、自分の許嫁だからである。


(何とかして皆無くんと二人きりになって、私が皆無くんの許嫁だってことを伝えるのよ、千代子!)


 決意を新たにする千代子であるが、これがなかなか難しい。

 何しろ皆無が、璃々栖リリスから片時も離れないのだ。


「ぷはっ、もういい! これ以上は吐く!」


「根性なしじゃなァ。そなたもチョコ子のことは言えぬぞ?」


五月蠅うっさいねん。――んむむむっ」


 皆無が何やら難しい顔をしてヱ―テルを練り上げる気配。


「むんッ!」


 何とも可愛らしい掛け声とともに、少佐の体から二本の捻じれ角と、蝙蝠コウモリのような翼が生えてきた。


「これ、昨日も見た――」


「部分的な悪魔化デビラヰズじゃァ。こうなることで、我が使い魔は普段の六六六倍強くなる」


「そんなに!?」


 普段の状態でも、第七旅団の奥義たる【神使火撃ミカヱル・ショット】を連発する皆無。

 一体でも現れれば神戸の滅亡を覚悟せねばならない乙種悪魔デビルと、互角以上に渡り合う皆無であるのに、だ。


 そんな天才悪魔祓師ヱクソシストにして半悪魔デビルの皆無が、軽い感じで飛び上がった――かと思えば、遠く高く空の上まで舞い上がり、その翼で以て滞空する。


「す、すご……」


 皆無が両手を天に向け、


「【赤き蛇・神の悪意沙磨爾サマヱルが植えし葡萄の蔦・アダムの林檎】――」


 何とも悪魔的な呪文を詠唱する。


「――【万物解析アナラヰズ】ッ!」


 次の瞬間、巨大な――それこそ神戸中を覆うほどに巨大な魔法陣が空に描き出され、真っ赤に輝く!


「な、何てこと……」


 驚き過ぎて、それ以上言葉にならない千代子。


「急にコレをやると、すわ悪魔デビルからの攻撃か、と民草が驚いてしまうからのぅ」


 隣に立つ璃々栖リリスが言う。

 それはそうだろう、と千代子は思う。

 なるほど、皆無の言っていた『手配』とは、コレをやるのを各所へ事前連絡することのようである。


 道行く人たちが一瞬ざわついたものの、すぐに落ち着いた。

 神戸においては、こんな常識外れな光景ですら日常のものであるらしい。


 一分ほどして魔法陣が消失し、皆無が降りてきた。


「すまん璃々栖リリス。それらしいのは見つからんかった」


「よいよい、気にするでない。毘比白ベヒヰモスの配下ともなれば、存在隠蔽魔術の一つや二つは使うであろう。次の手を取るぞ」


「うん」


「まァにはこの通り手がないから、そなたとチョコ子にやってもらうんじゃが」


「上手いこと言うたつもりかよ。悪いけどその前に――壱文字いちもんじ少尉」


「へ?」


 急に本名で呼ばれ、呆けてしまう千代子。


「密輸されたと思しき、悪霊デーモン憑きの物品を十三点発見した。今から潜伏場所を言うから、書き取りの上、各部署へ伝令せよ。大至急や」


「――は、ははッ!!」


 勢いよく敬礼し、懐から手帳と鉛筆を取り出す。

 思えばこれが、皆無少佐からようやく与えられた、軍人らしい仕事であった。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖小一時間後 / MEP屋敷 皆無の部屋❖



【韋駄天の下駄】を脚にまといて道を駆け、空を駆けること小一時間。

 MEP屋敷の皆無の部屋に戻ってみれば、璃々栖リリス姫が何やらおめかしをしていた。


 凛々しくも勇ましい袴姿ではなく、何とも可愛らしい花柄の着物と赤い帯の姿である。

 悪魔的な角を隠すためであろうか、頭巾のようなものを被っている。

 着付けは、皆無がやったということだろうか。


(器用なものねぇ。まァ毎日々々姫様を着付けていれば、慣れるのかしら)


「遅いぞチョコ子。そなたもく着替えよ」


「お出かけになられるのですか?」


「うむ。名づけて『おとり大作戦』じゃァ! 麗しき三人の乙女――ウルド、スクルド、ヴェルダンディがひと気のない場所を練り歩き、人さらいどもを釣り上げるのじゃ」


 人攫いではなく犬攫いでは? と思った千代子であるが、姫のやることにいなやはない。


「え?」


 皆無少佐が首を傾げる。

 可愛い、と千代子は思う。


「一人足らんのやけど」


「なァにを言っておるのじゃ、皆無。そなたも着替えるのじゃ」


「はァ?」


「予とお揃いがよいのォ。ペアー・ルックと言うやつじゃァ」


「ま、まさか――」


「じゅるり」


 思わず舌なめずりする千代子。

 美少年の女装など最高ではないか!


「さァ覚悟せよ皆無チャン! ほれチョコ子、皆無を取り押さえよ!」


「皆無チャン! 御免ッ!」


 女二人して飛びかかり、嫌がる皆無チャンを女装せしめた。





   ❖   ❖   ❖   ❖





「うっうっうっ……何で僕がこんな目に」


 振袖に編み上げのブーツ。

 カツラにリボン。

 口紅まで塗られてしまい、すっかり涙目の皆無チャンである。


「ほれ、メソメソしておらんで、行くぞ」


「ちょっ、本当ホンマに行くん!? せめて帽子被らせて! 後生やから!」


「駄目じゃ」


「な、何てこと――…」


 左手を撫ぜる皆無チャンが、姫君に尻を蹴られながら部屋を出る。

 三人連れ立ってMEP屋敷内を練り歩くと、


「ひゅ~ひゅ~っ! 璃々栖リリス姫! 今日も一段とお美しい!」

「おっ、新人の子かい? 見違えるねェ!」


 廊下で三人の男性団員とすれ違い、歓声を聞く。

 千代子は鼻高々だ。


「もう一人の子も可愛い……ん? ま、まさか、皆無少佐殿ォッ!?」

「えええええッ!?」

「に、似合い過ぎ! 女にしか見えませんぜ、少佐殿!」


 男たちに大笑いされ、真っ赤になってうつむく皆無。

 あまりにも可愛らしいその様子に、内心身もだえする千代子である。


 今度は検疫専門の女性下士官とすれ違い、


「えッ!? 皆無少佐殿!? か、か、可愛い……娘にしたい! 育てたい!」


「う、五月蠅うっさいねん!」


 半泣きの少佐殿であった。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖数十分後 / 神戸元町❖



『元ブラ』と言えば、神戸元町をブラブラすることである。

 今や日本における西洋文化の最先端を担うこの街は、日本で最もハヰカラな街なのだ。


「ん~ッ! 美味しそうな匂い! 神戸にも支店ができてたなんて、知りませんでした!」


 そんな神戸元町で今、人気のメシ屋と言えば、


「吉野家!」


 牛メシの店、吉野家である。

 明治三十二一八九九年に東京は日本橋で創業した吉野家は、魚河岸で働く腹を空かせた職人たちにいたく気に入られ、大いに流行った。

 千代子は東京本店で牛メシのとりこになって以来、通い詰めるような有り様であった。


 淑女が一人で牛メシ屋とははしたない?


(知ったこっちゃァないのよね。私はそこらの男どもなんかよりよっぽど腕っぷしの強い、戦う女なんだから!)


 お昼の時間から外れているためか、並ぶこともなくテーブル席を占領せしめることができた。


「ご注文はお決まりでしょうかー?」


 十秒と待たずにお冷とおしぼりが出される。


「牛メシ二人前と生卵二つ。チョコ子少尉は?」


「あ、私も牛メシと生卵でお願いします」


かしこまりましたー」


「生卵? 生卵なんぞどうするのじゃ?」


 首を傾げる姫君に対し、


「掛けんねん」「掛けるんですよ」


 皆無と二人して説明する。


「「牛メシに」」


「……………………は?」


 呆然自失。

 悪魔か何かでも見るような目で璃々栖リリスが千代子と皆無を見て、


「はァ~~~~ッ!? 卵を!? 生で!? 食す!?」


「え、日本じゃ普通ですよ姫様。ね、少佐殿?」


「うん。ごうに入っては郷に従えやで、璃々栖リリス。絶対美味いから喰うてみぃ」


「い、いやいやいやいや意味が分からぬ! そなたら悪魔か!?」


悪魔デビルはお前やん」


 ものの一分で三人前の牛メシが出てきた。

 アツアツの白米に、出汁によく絡んだ牛肉と玉ねぎ。

 千代子と皆無は流れるような所作で卵を割り、牛メシの上に掛ける。


「ほ、本当に掛けおった……本当に掛けおったぞ!?」


 よほど信じられないのか、同じことを二度言う璃々栖リリス


「ほら、璃々栖リリスのもやったるから」


 皆無が璃々栖リリス姫の分の卵を割ってよくかき混ぜる。

 初心者にそのまま掛けるのは敷居が高かろうという彼なりの配慮なのであろうが、璃々栖リリスからすれば生卵の時点で論外であるらしく、


「無理じゃ無理じゃ無理じゃ! あーーーーッ!!」


 容赦なく卵を掛けられ、悲鳴を上げた。


 店内にちらほらいる客が何事かとこちらの席を見やるが、金髪女の璃々栖リリス姫が日本語で『生卵ォ!』と絶叫しているさまを見て、皆一様に納得した顔で自身の丼に戻っていく。

 西洋人が日本人の連れに生卵をぶっ掛けられて絶叫するというのもまた、この街、この店では慣れっこの光景であるらしい。


 神戸と言うのはくも奇妙な街であると、牛メシをかっ込みながら千代子は思った。





   ❖   ❖   ❖   ❖





「少佐殿、お代は――」


 店を出て、懐から財布を出す千代子に対し、


「後で軍に請求するから」


 当然の顔をして皆無少佐が言った。


「えっ、いいんですか?」


「神戸にあだ悪魔デビルを炙り出す為の作戦行動中やで?」


 悪戯っ子のように笑う皆無少佐。

 何とも年相応の笑顔で、千代子はすっかり可愛く感じてしまう。

 しかも今の皆無は絶世の美少女の如き見た目をしている。

 思わずニヤついてしまい、口をもにゅもにゅさせていると、


「…………やらんぞ?」


 無理やり生卵を喰わされ、すっかりご機嫌斜めな姫君がギロリと睨んできた。


「こやつはのモノじゃ」


「あ、うぅ……」


 どう答えたものか、千代子は迷う。


 皆無の、明らかに璃々栖リリスに惚れ込んでいるらしい様子には焦りを感じる。

 本音では、今すぐにでも皆無に、


『私こそが貴方の許嫁なのだ』

『私を見て』


 と言いたい。

 が、璃々栖リリスの目の前でそれをやるのは、この甲種悪魔デビルに対する宣戦布告に等しい。

 昨晩からの彼女の言動や第七旅団に溶け込んでいる様子などから、彼女の人柄――悪魔柄――は理解できた千代子ではあるが、未だ彼女に対する恐怖がある。


「か、皆無少佐殿は誰のモノでもないと思いますが」


 だから千代子は、曖昧なことを言った。


「あぁ、そうか。そう言えばそなた、皆無のファンであったな。じゃがはこやつを使い魔にするにあたり、相応・・対価・・をこやつに支払っておるのじゃ。そなたと違ってな」


「む、むむむ……」


「お~い二人とも」


 女のいくさに皆無が割って入ってきた。


「何を二人でコソコソ喋っとるん?」


「「乙女の秘密――」」「――じゃ」「――ですよ」


「はァ? ぶぷぷ、だァれが乙女やねん――ぎゃっ」


 璃々栖リリスに容赦なく尻を蹴り上げられる皆無。

 上官でなければ、千代子も手が出ていたであろう。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖数十分後 / 神戸花隈町はなくまちょう



「うわァ~っ! これがキネトスコープですかァ!」


 花隈町はなくまちょうの一角、神港しんこう倶楽部クラブにて。

 室内に展示されている箱型の射影装置を覗き込み、コロコロと動物たちが野を駆けるアニメーションを眺めながら、千代子は歓声を上げる。


活動写真キネマは初めてなん?」


 千代子に続いて射影装置を覗き込みながら、皆無が尋ねてくる。


「東京じゃあもっと大きいんが見れるって聞いたことあるけど。それこそケルベロス閣下がさっき言うてた『ナントカ館』みたいな?」


「ええ、見たことありますよ」


「あるんかい。やったら何に感心したんよ」


「いやァ、こんな小さな箱の中に活動写真キネマが詰まっているって言うのが面白くて」


嗚呼ああ、なるほど」


「ほら、姫様もご覧になってみてくださいよ! 面白いですよ」


はもう見たからよい。悪魔デビル界の映画に比べ、人間界のものはどうも貧乏臭くていかん」


「貧乏臭い……?」


 人間の技術力を露骨に莫迦バカにされ、少々カチンときた千代子。


「悪魔界のはどんなだって言うんです?」


 途端、姫の体からヱ―テル光が溢れ、


「――【射影キネトスコープ】! こんな感じじゃァ」


 千代子の眼前に、真っ赤な地獄の光景が映し出される。

 色とりどりの悪魔デビルたちが、罪人に責め苦を負わせるアニメーション。


「い、色付き!? いやいや、こんなに精巧な活動写真を空中に映し出すなんて……って言うか姫様って放出系の魔術が使えなかったはずじゃ?」


「この程度の規模ならば、のぅ。コレの応用で相手に幻術を見せたり、相手の夢を乗っ取って精神を汚染したり魅了することなどもできるぞ?」


「こわッ! 私には使わないで下さいね!?」


 仰天する千代子と、


「んっふっふっ」


 悪魔的に微笑む姫君。

 その姫君が、ふと思いついたような顔をして、


「そうじゃチョコ子、そなた、ガラスの中で沢山の魚が泳ぐ光景は見たことがあるか?」


「え? ありませんが、何ですかそれは?」


「よォし皆無、今から和楽園わらくえんへ行くぞ!」


「はァ? 誘拐犯釣るんとちゃうんかったんかよ。趣旨が変わってきとるで」


「人生、時には寄り道も必要じゃァ」


悪魔デビルが人生を語るなや」





   ❖   ❖   ❖   ❖





「ほな行くで」


 外に出るなり、皆無がするりと璃々栖リリスを抱き上げた。


「ええと、何処どこまで?」


「和田岬の辺りまで」


「えっ? 結構距離ありますよね?」


 神戸に配属されるにあたり、千代子の頭の中には神戸一円の地図が収められている。

 和田岬といえば、ここから南西に三、四キロくらいであろうか。

 小一時間はかかる。


「せやから電柱の上走るで」


「えええええッ!? 今、ズボンじゃないんですよ!? はだけちゃう!」


「――【隠者は森の中ハーミット・イン・ザ・フォグ】」


 皆無が何事かを唱えた途端、三人の体が霧に包まれた。

 霧はすぐに晴れるが、千代子は急に周囲からの視線を感じなくなった。

 何しろ美女三人組と言うことで、さきほどまでは道行く男どもからの視線を集めていて、千代子は少々舞い上がっていたのだ。

 その視線が、なくなった。

 まるで自分たちがこの場から消え去ってしまったかのように。


「もしかして、認識阻害系の術ですか?」


「せや。ほな行こか」


 言うや否や、無詠唱で二人分の体重を軽くし、電柱の上に飛び上がる皆無。


「待ってください!」


 千代子は慌てて追いすがる。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖十分後 / 和田岬❖



「――閣下おるな」


「そうじゃのぅ」


 和田岬の遊園地こと『和楽園』の入り口近くに飛び降りるや否や、皆無と璃々栖リリスが建屋を見上げてそう言った。


「はぁっ、はぁっ……な、何がいるんです?」


「ほな行こか」


「もぅ……」


 相変わらず己は置いてけぼりである。

 皆無は璃々栖リリス姫には甲斐甲斐しく接するのに、自分に対しては非道ひどく雑なのだ。


 が、考えても見れば己は少佐の臨時の部下に過ぎないわけで、その態度も当然のことであった。

 しかも少佐は三つも年下なのである。

 知らず甘えが出ていたらしい。


(ヨシっ! 心機一転、気を引き締めて――うわぁ~っ!?)


 新たな決心は数秒と持たなかった。

 建物の中、視界いっぱいに広がる水中の光景が目に入ったからである。


「どうじゃチョコ子、これが水族館じゃァ。すごかろう?」


 何故なぜか得意げな姫君。


「すごいです!」


 千代子は任務も忘れて、大小さまざまな魚が泳ぐ水槽に魅入ってしまう。

 そんな己を璃々栖リリス姫と皆無が微笑まし気な目で見ていることに気付き、赤くなる。





「コラーーーーッ‼」





 不意に、上階の方から怒声が上がった。

 すわ騒動か、軍人が黙っちゃいないぞ、と階段の方を見やれば、誰あろうケルベロス女史が困り果てた顔で降りてくるところだった。


「このっ、待て喰い逃げ女!」


 店員らしき男性が女史を羽交い絞めにしようとしているが、


「――って、何て力だコイツ!?」


 何しろ悪魔デビルの筋力である。

 一般男性などではとても敵うものではあるまい。

 こうまでされてもやり返さないあたり、穏健派というのは事実らしいと千代子は感心するが、


(いや、今、喰い逃げって)


 どうも、騒動の原因は女史の方にあるらしい。


「どうされました?」


 皆無少佐が女史に駆け寄り、店員を女史から引き剥がす。

 店員に向かって見事な敬礼を一つ。


「自分は陸軍第零師団・第七旅団所属少佐の阿ノ玖多羅あのくたら皆無かいなであります。何か誤解があるようです。代金は私が支払いますので、この場は収めて頂けませんか?」


 千代子は少し驚く。

 今までは、やや子供っぽい――年相応の――言動しか見せてこなかった皆無少佐であるが、こういうしっかりとした立ち居振る舞いもできるようである。

 が、


「はァ?」


 店員が胡散うさん臭そうな顔をする。


「お嬢ちゃん、おままごとなんてしてないで、お母さんのところに戻りなさい」


(……嗚呼ああ


 当然の反応であった。

 何しろ今の皆無は女装しているのである。


「ぷっ……くくく、あっはっはっはっ」


 姫君は笑うばかりで役に立ちそうになかったので、千代子が対応することにした。





   ❖   ❖   ❖   ❖





 和楽園の屋上には椅子とテーブルが設けられていて、団子屋が団子やカステヱラ、果ては氷菓アヰスクリンなどを売っている。

 そして、パラソルの下、椅子にお行儀良く座って団子を貪っているのは、女史の使い魔たる独逸犬ドーベルマンだった。

 主人の危機など素知らぬふうである。


「失礼ながら閣下、何故なぜ、お金も持たずに飲食をなさったのですか?」


 皆無が言うと、独逸犬ドーベルマンがワンと鳴いた。

 続いて女史が、


「いやはや助かった」


 ワワワンワン。


「人間どもめ、ポンドもドルもフランもマルクも通用せぬと言うのだ」


「「「あぁ~……」」」


 一同、納得する。

 港のそば、外国人居留地のあたりならばかく、和田岬くんだりまで来ているのだから、もありなんと言う話であった。


「皆無」


「はいはい」


 主に命じられ、皆無が虚空から財布を引っ張り出す。

 札束を取り出し、女史に渡した。

 さすがは単騎少佐、高給取りである。


 一騎当千。

 頭に『単騎』と名の付く佐官や将官たちは、他の師団とは桁の異なる給金を受け取っている。

 とはいえ彼らは毎晩々々死線を潜り抜けねばならないのだから、その金額でもなお職務内容に見合っているか疑問であるが。


 く言う千代子も高給取りだが、短い訓練期間を終え、着任したその日に早速死にかけたのだ。

 皆無に助けてもらわなければ、死んでいた。


 ワンワン。


「まだ少しいている」


「ならばとっておきをれてやろう。皆無」


「はいはいはいはい」


 皆無少佐が虚空から丼を二つ、スプーンを二つ取り出し、テーブルの上に置く。


「――【収納空間アヰテムボックス】」


 姫が唱えると、丼の中に、結局姫が食べ切れなかった牛メシの残りが出てきた。


「皆無」


「はいはいはいはいはいはいはいはい――【加温ホット】」


 皆無少佐が手をかざすと、果たして牛メシがホカホカと湯気を立ち昇らせ始めた。


 ワンワン。


「こ、このドロリとしたものは……?」


 怯える女史。


「聞いて驚け、生卵じゃァ」


 ニンマリと微笑む姫君。

 己が喰えなかったものを他人に喰わせるなどとは、流石は悪魔なりしか、と千代子は引きつり笑いをする。


「ひっ」


 女史の顔が引きつる。


 ワン、と犬が一鳴きし、


「あ、


 女史が己の分を犬に差し出した。

 果たして犬は、二皿とも美味しそうに平らげてしまった。


 食後は使い魔のブラッシングである。

 気持ち良さそうにブラッシングされている独逸犬ドーベルマン

 山盛りの毛が出てくるが、不思議なことに毛はいつの間にか消えてしまう。


(まァ、女史の魔術なんでしょうね)


 己も早く【虚空庫】を自由自在に扱えるようになりたいものだ、と千代子は思う。


(それにしても、女史の手つきの優しいこと!)


 女史が使い魔の世話をする様子は、驚くほどかいがいしい。


「随分と可愛がっておいでなんですね」


 千代子が言うと、女史は不思議そうに首を傾げた。 





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖小一時間後 / 神戸元町❖



 人間が運営する施設で食事をしていると、

 麗しき璃々栖リリス姫が二人の娘を侍らせながら現れ、

 果たしてそのうち一人は先ほど見た男児の使い魔であり、

 男に女の姿をさせるなどとはさすがは色欲の魔王が血を引く娘、

 実に悪魔的な所業なりしかと感心しきり、

 この国の通貨を融通してもらっただけでなく、

 牛肉ラヰスの生卵掛けなる悪魔的な料理を馳走になった。


 姫とは別れ、使い魔とともに散策を再開すると、

 使い魔が三歩後ろを歩くさまは何とも嬉しそうであり、

 それもそのはず、

 ほんの数週間ほど前までは粗末な・・・首輪を・・・はめられ・・・・

 牢獄・・まがい・・・汚い・・小屋に・・・押し・・込め・・られて・・・いた・・身の上・・・であったのである。


 ふと気付けばその使い魔がついてきておらず、

 振り返ってみてみれば宝石店のショーケースに張りついており、

 どうした、と尋ねると、いえ、と言うが、

 視線はショーケースに飾られた真珠のネックレスに釘付けとなっており、

 この国のことわざに『豚に真珠』なる言葉あり、

 使い魔風情に真珠など贅沢なるやと思いはするも、

 丁度姫より小遣いを賜りし身の上、

 可愛い使い魔のために一肌脱ぐかと店に入る。





 ……………………ふと、違和感を覚えり。





「――【隠者は森の中ハーミット・イン・ザ・フォグ】」


 何者かの手で以て店内に満たされた霧によりて吾輩は吾輩以外の気配をしっし、

 速やかに店内を見回すが、我が愛すべき使い魔の姿がない。


 あやつは吾輩の命令なしに姿を消すようなことはしないし、

 今のは明らかに敵対者からの攻撃であり、

 あやつの姿が見えぬと言うことはつまり――――……


 一大事である。





   ❖   ❖   ❖   ❖





❖補足❖


 一八九九年、東京における吉野家創業は史実。

 一九〇三年の神戸に支店があるのはフィクションです。

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