第47話 哀れな魔王の屈折した感情


 ――人間世界のおとぎ話には、魔界についてこう書かれていた。


 魔界の大地は、草木がほとんど生えない荒野で覆われている。

 魔界の水は、たとえ見た目がどんなに透き通っていても毒がある。

 魔界の空気は、肌に触れるだけで生物をおかしくさせる。

 魔界の空は、常に曇天か、常に夜である。

 魔界の住人は、血に飢えた戦闘生物か、低俗な詐欺師の集まりである。


 おとぎ話にある通りの、淀んだ荒野の一角。そこに、人間世界へと繋がる黒いもや――接穴がある。


 今、その接穴から傷だらけの魔族がひとり、這い出てきた。

 元は重厚だったマントは布きれ同然に破れ、雷撃により焼かれた全身からは肉を焦がす臭いと蒸気が立ち上っている。片足片腕をやられ、まともに歩くこともできない。

 そして、もともと整っていた容貌は、今は屈辱と怒りで激しく歪んでいた。


『哀れな魔王』である。


 傷ついた魔王の元へ、周囲から魔族が集まってきた。あらかじめ接穴の側に控えていた者たちだ。種族も見た目も性別も様々な十人ほどの集団は、皆、哀れな魔王の配下である。


 ここはかつて、最強の魔王と称されたリェダーニル・サナト・レンダニアが治めていた地。彼が姿を消した後、哀れな魔王がこの地の新たなる支配者になっていた。


「お戻りですか。我が主」


 配下の魔族のひとりが言った。

 哀れな魔王の有様を見ても、顔色ひとつ変えない。

 他の魔族たちは皆敬礼をしていたが、その表情の多くは戸惑いで彩られていた。


 哀れといえども、魔王は魔王である。一介の魔族ごときが敵う相手ではない。この場にいる誰よりも上位の存在だ。

 その魔王が、短時間でこれほどまでに打ちのめされて帰還するとは。

 しかも、王に付き従ったはずの精鋭魔族は姿すら現さない。主の惨状を見れば、彼らがどうなったかは配下の魔族にも想像できた。それがまた、容易には納得しがたい事実となっていた。


 接穴が、岩に付着した水雫のように消えていく。

 帰還できたのは、魔王ただひとりだった。


 哀れな魔王は、うつむいたまま黙っている。配下たちは彼の言葉を固唾を呑んで待つ。

 魔族たちの沈黙が続く中、息づかいが聞こえる。哀れな魔王の呼吸音が、次第に大きく、荒っぽく、獣のようになっていく。

 ついには、吠えた。言葉にならない咆哮を上げる。


 感情が暴走した魔王は、近くにいた配下の魔族にいきなり殴りかかった。虚をかれた魔族は魔王の拳に頭蓋を砕かれ、一撃で絶命する。

 哀れな魔王はそれだけで飽き足らず、他の魔族も見境なしに攻撃していった。

 負傷し、魔力も大幅に削られ、片方の腕と足の自由はまだ利かないというのに、圧倒的な攻撃力で蹂躙していく。


 理不尽。配下の魔族たちにとって、圧倒的に理不尽な存在だった。

 これが、『哀れな魔王』本来の立ち位置。

 興奮、乱心した上位者を止めるには、さらに強い者が抑えつけるしかない。

 そして今、この場にいる最強は魔王その人であった。


 哀れな魔王の咆哮が次第に収まる。傷の痛みか、猛攻が止んだ。

 また沈黙が降りる。周囲に漂う血の臭いは濃くなっていた。

 わずかな間で、配下の魔族は半分以下に減少していた。


 肩で息をしながら、魔王は辺りを見回す。自らが屠った部下と、生き残った部下を見る。

 最初に主へ声をかけてきた魔族は、五体満足で生きていた。彼はこの惨状を見てもやはり、顔色ひとつ変えない。

 それどころか、仕えるべき主を見る目がむやみに冷たくなっていた。

 他の生き残り魔族も似たようなものだった。主を気遣う言葉もなければ、主をいさめる言葉もない。その様子もない。


 主従の形を保っただけの余所余所しさ。

 その、冷たい目で主を見続ける魔族に、哀れな魔王は語りかけた。


「おい、貴様。俺の名を呼んでみろ」

「我が主に対して畏れ多いことでございます」


 慇懃いんぎんに頭を下げる配下魔族。哀れな魔王に青筋が浮かぶ。


「いいから、呼べ。俺は、誰だ?」

「至高の魔王、ヴァーンシー・サナト・アンゲイル陛下でございます」

「そうだ。俺はヴァーンシー。ヴァーンシー・サナト・アンゲイルである」


 サナトの一語に力を込める哀れな魔王――ヴァーンシー。名にサナトの語を入れるのは、この地方を治める王であることを表す。

 ヴァーンシーは唇を噛んだ。


「だがあの方は……俺の名を覚えていなかった。覚えていなかったのだ!」


 吐き捨てる。温情の結果とも侮蔑の極みとも言える手足の傷が、うずいた。

 ヴァーンシーの言う『あの方』――かつてこの地方を治めていた先代魔王、リェダーニル・サナト・レンダニアである。


 ヴァーンシーはかつて、リェダーニルの部下であった。

 そして、先代魔王を闇の檻へと封印した首謀者でもある。

 リェダーニルを排除したのち、紆余曲折を経て、彼は現魔王の地位へ上り詰めた。


 ヴァーンシーにとって先代魔王は、畏怖の象徴だった。

 他を圧倒する力。超然としたカリスマ性。ヴァーンシーは先代魔王の側近と言っても良い地位にいた。そこで『最強の魔王』と称される男の生き様をすぐ側で見続けてきたのだ。


 始めは、純粋に憧れていた。その強さ、立ち居振る舞いに打ちのめされた。

 やがて立場が先代魔王に近づいてくると、今度は恐ろしくなった。その強さ、立ち居振る舞いが、ヴァーンシー自身に向けられると思ったからだ。

 怖れは、次いでもどかしさに変わった。あれほどの力を持っているのに、先代魔王は生きることそのものに興味がなさそうだったのだ。充分な野心を持ってことに臨めば、いくらでも栄華は手に入っただろうに。


 自らの中に出来上がった先代魔王への理想と現実。気のない態度。ヴァーンシーごとき他の有象無象と少しも変わらないとする視線。それらが積もりに積もって、先代魔王リェダーニル・サナト・レンダニアへの反旗となって噴出した。

 そして、今がある。


 魔王となったヴァーンシーは、先代魔王が成し遂げようとしなかった領土拡大と戦力増強に乗り出した。もともと側近として粉骨砕身していた男だ。『やり方』は学んでいた。


 順調だった――と、ヴァーンシーは信じている。


 人間世界への侵攻は、彼の野望をさらに発展させるためのもの。これまでは難しいとされていた魔王級の接穴通過は、偶然手に入れた『宝玉』の力によって道が開けた。

 リェダーニル・サナト・レンダニアがやろうとしなかったことを、他ならぬ自分が、やる。

 それはヴァーンシーにとって、自分の中にある理想の魔王像をより完全にするための一歩だった。


 なのに――。

 人間世界での記念すべき一歩が、『あの方』との再会だったとは。


 ヴァーンシーの感情はかつてないほど乱れた。

 ヴァーンシーは先代魔王にとって、不倶戴天の敵であるはずだ。なのに、名前はおろか顔すら覚えていないと。覚える気さえないと!

 身体にも、心にも、記憶にも――先代魔王に傷ひとつ付けられなかったのか、俺は!

 これほど、追い求めてきたというのに!


 そのどうしようもなく鬱屈した感情は、治まるどころか、後戻りできないところまで暴れ始めていた。

 ヴァーンシーは、自らが手にかけた配下の魔族を見る。

 死屍累々の惨状を前に、彼は吐き捨てた。


「このような雑魚ども、俺には不要だ」


 そして口元を引き上げる。


「せめて、亡骸くらいは俺の役に立て」


 ヴァーンシーが遺体に手を掲げる。

 すると魔族の身体から、黒い魔力がにじみ出て、ヴァーンシーの身体に取り込まれていった。


【生贄充填】――。


 先代魔王リェダーニル・サナト・レンダニアへの憧憬と恐怖が創り上げた、ヴァーンシーだけの能力。相手の生命力や意志を魔力に変換し、己の魔法発動時の起爆剤とする力。

【生贄充填】によって、ヴァーンシーもまた無詠唱での魔法使用が可能になった。

 ただし、無詠唱可能なのはあくまで自らが身につけた一部の魔法のみ。どんな魔法でも事実上無限に、永久に保存可能な先代魔王の能力と比較すると、下位互換と言われても仕方がない。


 だが、それでもだ。

 ヴァーンシーはこの能力を得たことで、先代魔王に並び立てたと思っている。


 ――哀れ、であった。


 ヴァーンシーは、【生贄充填】で蓄えた魔力でいきなり無詠唱魔法を使用した。

 対象は、すぐ側に控える、生き残った部下たち。

 ヴァーンシーの魔法が、彼らの精神を侵食する。配下の部下たちの赤い瞳が、ほんの少し、鈍く瞬いた。


 精神系の支配魔法。忠誠心の低い部下たちを、強固に繋ぎ止めておくための手段だった。


「魔王ヴァーンシー・サナト・アンゲイルが命じる。準備をせよ。俺は再び、人間世界へ行く」

「御意」


 恭しい仕草で、部下たちが一斉に頭を垂れる。

 うずく傷の痛みを抱えながら、ヴァーンシーは先頭に立って歩き始めた。

 言葉では「忌々しい」と繰り返している。だが、口元は薄らと笑みを浮かべていた。ヴァーンシーは自分で気づいていない。


 傷が痛むということ。それは間違いなく、先代魔王リェダーニル・サナト・レンダニアが自分に意識を向けてくれたということ。

 そのことを恨みながらも悦ぶという、屈折した感情を抱え、ヴァーンシーは準備を始める。


 ヴァーンシーが手に入れた『宝玉』。これは持ち主の力を高めると同時に、接穴と強く共鳴する特徴を持っていた。この特徴があったからこそ、接穴を拡大し、ヴァーンシーほどの上位魔族でも通れるようになったのだ。

 再び宝玉の力が使えるようになるまで、ある程度の時間がかかる。

 それまで、充分に牙を研いでおこう。

 このままでは終われない。このままでは。


「リェダーニル・サナト・レンダニア陛下。あなたをもう一度深い孤独に落とし、今度こそ、俺の名をあなたの心奥まで刻み込んでやろう」


 怒りと憎しみに血管を浮き上がらせながら、恍惚として微笑む。


「必ずだ!」


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