第7話 ジュリエットの陰謀

 ◆◆◆Side―潔葉


 凛と澄んだ風が、マフラーの隙間から侵入して胸元を冷やす。

 寒々とする胸元とは裏腹に、浮気現場を見てもなお、奥さんを愛しているといった春風に、ふつふつと怒りが沸く。

 恵梨香に浮気を辞めるよう諭すぐらいの事はしてやりたい。潔葉は唇を尖らせ、ぶつぶつと独り言を言いながら、ロングブーツの底を踏み鳴らす。


 大通りから細い路地に入ると、20メートルほど先に職場のサロンが見える。

 建物の側面には、鉄製の白い外階段が付けられており、奥菜の自宅玄関に繋がっている。

 贅沢な両開きの扉はブリティッシュグリーンの落ち着いた色合いだが、ドアの取っ手は金色で、ため息が出るほどゴージャスだ。

 思わず見とれていると、その扉が開き、中から男が出て来た。

 黒いレザーのチェスターコートに、センスよく着古したブルーのジーンズは、体にしっくりと馴染んでいる

 柔らかいウェーブヘアは風に揺れていた。

 その姿に、潔葉は思わず足を止めた。 


 何がどうして、あの人がここにいて、あそこから出てくるのだろうか?


 脳内では、すごい勢いで点と点が繋がり始めて、体中の血液がドクドクと騒ぎ立てる。


 別れを惜しむかのように、玄関に佇む奥菜が扉の隙間から見えた。

 彼女は男の首に腕を回して、とても愛おしそうにキスをした。


 その光景に、一歩、二歩と後ずさる。


 こんな時に、どうして幸せだった時の事しか浮かんでこないのだろう?

 何年一緒に暮らしても、胸が苦しくなるほど好きだった。少し陰のある横顔も、柔らかい髪も、子供扱いして頭をポンポンと叩く大きな手も。

 全て、潔葉の物だったはずだ。

 

 彼の――。風間真司の好きな人は――。


 奥菜百合子だったというのか。


 別れの挨拶がすんだ様子で、階段を降りようとしている真司から身を隠すようにサロンの壁にもたれた。

 それなのに――。


「潔葉」

 鼻にかかった甘いテノールボイスが、鼓膜を揺さぶった。声のほうに顔を上げると、白い息を吐く真司が立っていた。

「どうして?」

 泣きたくなんかないのに、声が涙で震える。

「いや、どうしてってこっちのセリフなんだけど。どうしてここに?」

「ここで働いてるのよ。奥菜社長に誘ってもらって」

「え?」

 カンカンカンと鉄階段を降りるミュールの音。

「おはよう。美影さん。今、サロン開けるわね」

 薄着のワンピースに、オフホワイトのショールを肩にかけ、含みを持たせた笑顔で外側からサロンのガラス戸を開錠した。


「あら。知り合いだった?」

 潔葉と真司の顔をわざとらしく交互に一瞥する。

 その態度は、とっくに知っていた顔だ。まるでこの状況を面白がってあざ笑っているかのよう。


「知ってて私をここへ誘ったんですか?」

 潔葉の言葉を華奢な背中で受け流しながら、奥菜はガラス戸を引いてサロンに入り、シャッター代わりのロールカーテンを開けた。。

 それを追いかける潔葉の腕を真司が掴んだ。


「潔葉。勘違いしないでほしい。僕と百合子は君との離婚が成立まで、全くそいういう関係じゃなかったんだ」


「心で繋がってたとでも言いたいの? バカにしないで!」

 その手を振り切り、奥菜を追って店内に入った。

 真実を確認する必要がある。元夫のきれいごとなんか聞きたくない。


 呆然と突っ立っている真司を遮断するように、内側から鍵をかけ、ロールカーテンを下ろした。

「説明してください。彼とはいつからなんですか?」


 奥菜はふっと一息吐いて、まるで準備していたかのようこう言った。

「そうね、かれこれ10年前かしら。彼がスタイリストデビューした頃ね。父の命令で客のふりして偵察に行ったのよ。彼はすぐに私を美容師だと見破ったんだけどさ」


 奥菜は、確認するようにチラっと潔葉の顔を見た。そして見せつけるように話を続ける。


「お互いに一目ぼれだった。結婚まで考えてたわ」


「どうして結婚しなかったの?」


「できるわけないじゃない。彼は表参道シュシュのオーナー、風間勇亮の息子。父は頭から湯気を出す勢いで怒り狂ったわ。ライバル店の息子と結婚など絶対に許さないってね。6年前、父が海外に移住してようやく自由になれると思っていた時に、あなたが現れたのよ。身を引くしかないでしょ」


 奥菜は少し疲れた顔を見せた。


「私のツイッターをフォローして、何をしたかったの?」


「見物よ」


「見物?」


「あなたが現れてからも、私は時々ガラス張りの店内を外から見てた。彼をひと目見れたらそれで満足だった。けど、その姿を彼に気付かれたのよ。それから、時々食事に行ったり、ドライブに連れて行ってくれたりしたわ」


 そしてクスっと笑った。


「座席シートをわざと動かしてたのも、故意に口紅を落としたのも私よ。あなたが壊れていく様をツイッターで眺めるのが、毎日楽しかったわ。今度はどんな痕跡を残してやろうかってね」


 バチン!!!


 潔葉は思わず、奥菜の頬をひっぱたいていた。

 じんじんと熱くなる手のひらをぎゅうっと握った。


 奥菜は頬に手を置き、潔葉をきっとにらみ、笑った。


「いい事教えてあげる。彼は私がどんなに誘っても、一度たりともあなたを裏切らなかった。それなのに日々疑心暗鬼になっていく妻。結婚生活に疲れていたのは彼の方よ」


「うわぁぁぁぁぁああぁぁぁ」

 叫びながら、奥菜につかみかかる。はぎ取ったショールを投げつけ、髪を鷲掴みにした。

「あなたに何がわかるのよ。どうして私をこの店にいれたのよ」


 奥菜も負けてない。潔葉を突き飛ばし、息を切らしながらショールを拾い上げた。

 タイル張りのフローリングに酷く腰を打ち付けたが、痛みすら感じないほど怒りに支配されていた。

 奥菜は潔葉を見下ろしながら言った。


「彼をあなたに見せつけるためよ。自分で離婚を選んだんでしょう。その結果を全て受け入れなさい」

 態勢を整え、フローリングにペタンと座り、奥菜を見据える。


「先週の金曜日、急遽私の歓迎会をさせたのは、私をこの店から追い払うためね。レッスンで遅くまで居残りされたら、真司と会えなくなってしまう。いや、真司に私がこの店にいる事を知られたくなかったのかしら。ツイッターにわざわざ匂わせるような写真をアップして、悪趣味ね」


 奥菜はふふっと笑ってこう言った。

「ご名答! 名探偵になれるわね」


 そう言って、店内の螺旋階段を上っていく。


 その背中に向かって声を張り上げた。

「今すぐ辞めさせてもらいます。誘ってもらって嬉しかったのに。精一杯期待にこたえようと頑張ったのに。もうあなたの顔なんて、二度と見たくない」

 いくら声を張り上げても、ちっともすっきりしない。まだまだ言い足りない気持ちを、精いっぱい声を張り上げて泣き叫ぶ事で埋めようとしていた。


 奥菜は階段の中ほどで立ち止まり、振り返った。


「勝手にするといいわ。今すぐ出ていきなさい。昨日までの給料は振り込みます」


 カツカツカツとミュールの音が小さくなって行った。


 ガチャっと扉の鍵の開錠音が店内に響く。

 田中が出勤してきたのだ。ロールカーテンをすり抜けるようにして入って来ると、一瞬驚いた顔を見せた。


「早かったね。もう来てたんだ? おはよう」

 呑気な声が、今はなんだかありがたくもあり、腹立たしくもある。


「店長。短い間でしたけどお世話になりました」


「え? え? どうした?」

 滝のように頬を伝う涙にようやく気付いたのか、田中があちこちと視線を泳がせる。


「親切にして頂きありがとうございました」

 そう言って、深々と頭を下げて、勢いよく扉の外に飛び出した。


「ちょっとちょっとー」

 追いかけるように声が聞こえたが、潔葉はもう振り向く事ができなかった。



第二章完結

第三章に続く

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