神様のメモを拾ってから!
有栖川 黎
プロローグ
生きるということは時に苦痛を伴う。
岐路に立った時はその傾向が顕著に出ると私は考える。
そこで、多くの人が人生における指南書と言うか攻略本のようなものがあればどれほど人生が楽であることか…と考えるだろうし、それを切に望む者もいることだろう。
しかし、そこには一つの疑問が生じてしまうのだ。
<その人生は楽しいのか?>と言う非常に早熟で小生意気な小中学生が打ち立てるであろう単純でありつつも核心をついた実に愚かしい疑問である。
非常にデタラメな何の根拠にも基づかない私的な見解を適当に述べるのであれば、前述した問いには簡単に答えることができる。
それはきっと「最初は楽しいと感じて後にその感情は収束していくだろう」と言うことである。
つまりは楽しくないと解釈して良いだろう。
何故かは言うまでもなく自分の行くべき絶体解を全て達成し終えても人間と言うのは己の利をさらに広げようともっと高みへ目指すであろうから、この場合は際限なく受動的に動かなければならないので次第に高揚感や意欲などを欠いていくだろうと考えてこの結論に至る。
そんな事を滑稽にも考えていた私はどういう訳か納涼裏で一服をして、腹に燃料をいれようと…いやただ単に川の両端に築かれた納涼裏で西日を浴びつつ痛々しく黄昏ようとしていた。
夏の終わりころと言うのも相まって納涼裏は混んでいて、相席を勧められたのである。
私は相席は当然したことがなく、落ち着いて食べられないだけでなく顔の整った者であれば目の置き場に困ってしまう。
そんな御託を並べつつも、私は相席を許可したことで神々しい光を纏う大学生くらいの女性の隣に座ることになるが彼女は私が座ると同時に食事を終えて店を出て行ってしまった。
これで一人で食事ができるという喜びが湧いてきたが、そんな喜びも束の間…彼女はメモ紙の切れ端を座布団の上に忘れてしまったのである。
メモ紙には私のことが書かれている。
「8月19日 16時16分、伏見翼…心臓麻痺」
「……」
流石にいたずらか…偶然かそのどちらかだと思いたい。
しかし、世の中には神の悪戯なるものが存在するらしい。どうかこのメモ紙に書いてあることが起こらないで欲しいと私は無感情にも神頼みをしたのである。
滑稽である。
その言葉だけがどうにもこの状況を指すに相応しい言葉であると自認した時に、私は1と6重なることに着目をして徳川家康とシェイクスピアが無くなった年じゃないかと脳内でどうでもいいような御託をコレクションのように並べているうちに私はどうやら現世に何のお礼や別れも言わずして去ってしまったのである。
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