16 なつかしい人

 その日の放課後。わたしは一人、自転車で黎開学園の前にある喫茶店に向かっていた。

 店に到着したのは、四時過ぎだった。約束の時間は四時半。まだ余裕がある。

 壁際に自転車を止めていると、すぐそばの電柱の陰から長日部君がぬっと顔を出した。

「うわ、びっくりした」

「あ、驚かせてごめん。まだ早いけどいろいろ話したいし、先に入ってようか」

 言いながら長日部君はもうドアを開けている。わたしは少し戸惑った。中学生だけで、いや同世代の男子と二人で喫茶店に入るなんて初めてだし、これこそ見られていたらなんだか大変なことになりそうだ、と思わず辺りを見回した。

 大丈夫。知り合いは、誰もいないようだ。

 この間と同じボックス席に向かい合って座ると、長日部君が言った。

「さっきそこでイズミさんに会ってさ。こないだの代金渡そうとしたんだけど、断られたよ」

「あ……」

 そう言えば、すっかり忘れていた。ココアを注文しておきながら、飲みもせず、お金も払わず出てきてしまったのだ。改めて、申し訳なさがこみあげてくる。

 イズミさんはちょっと変な人だったが、悪い人ではなさそうだ。何より高瀬さんの重要な相手候補だ。いかに高瀬さんに彼の魅力を伝えるか、が鍵になってくるだろう。

「ココアでいい? 今日はじっくり味わえるね」

 長日部君はそう言って店員にココアとコーヒーを注文した。

「ところで、高瀬さんの縁結びだけど……何か案はある?」

「うん。ちょっと考えたんだけど、やっぱり意識させることが大事だと思うんだよ」

「意識……」

「そう。イズミさんを、恋愛対象として意識させる。それも、嫌悪感を抱かせない程度にね」

 それは難しい。高瀬さんとイズミさんってお似合いですね、と言ったところで、高瀬さんにその気がなければ逆効果になるだけだろう。

 イズミさんって男前ですよね、モテそうですよね、そういえば高瀬さんと仲良さそうですけど……なんて言えば、少しは効果があるだろうか。

 わたしは頭の中でシミュレーションしてみた。けれども想像上の高瀬さんは表情を変えず、「ふん」と言っただけだった。

 ……うーん。だめだ。この縁結び、ちょっと難しすぎる。

「もういっそのこと、イズミさんに告白させちゃったらどうかな。わたしたちがどうこう言うより、案外うまくいくかも」

「いきなりそうしてもダメだと思うな。ある程度は、イズミさんを男として意識させないと」

「たとえば、どうするつもり?」

「それは……まだ、考えてない」

 案外、頼りない。

 ううん、縁結びと一口に言っても、さすがに神の仕事というだけあって、そう簡単に事が運びそうにない。これは長期戦になるかもしれない。

「ところで、あの水晶」

「え?」

 いきなり言われて、わたしは思い出したようにスカートのポケットに手を当てた。硬い感触。

「持ってるけど……何?」

「そうか、まだ持っててくれてるんだ」

 長日部君は安心したような表情になった。

「よかった。できればずっと、持っててほしい」

「ずっとって……」

「それはきっと役に立つ。僕の代わりに束原さんを守ってくれるはずだ」

「いやでもわたし、もう守られる必要、ないんじゃないかな。ヤシロさんも、悪霊じゃないわけだし」

「悪霊はいるよ」

 長日部君は声の調子を変えずに言った。悪霊、というその言葉に、わたしの肩はびくりと震えた。

「あ、いや、脅かしてるわけじゃなくて。実際、ヤシロみたいにこの世に取り残されて成仏できず、悪霊となった例は存在するんだ」

「前、小鬼から聞いたよ。悪霊のこと」

 わたしは静かに言った。

「ヤシロさんは、悪霊の匂いが感じられるんだって。今のところ、そんな匂いは感じてないみたいだけど」

「匂い? なるほど、それは面白い」

 長日部君が興味深げにうなずく。

「僕は霊を見ることはできないし、もちろん匂いもわからないけれど、なんとなく肌で感じることはできる。大体、心霊スポットって言われるような場所には、気分が悪くなるような悪霊が棲みついていることが多いんだ。だから絶対近づかないように」

「でも心霊スポットなんて、このへんにないでしょ?」

「廃墟とか、トンネルとかだけじゃないよ」

 長日部君は少し声を落とした。

「実はこの近くの……」

 そのとき、トレイに二つのカップを乗せたウェイトレスがテーブル横にやって来た。長日部君は言葉を止めて目の前に置かれたコーヒーを見つめた。ほとんど同時に、新たな客の来店を告げるドアベルが鳴った。

「早いね」

 現れたのは、高瀬さんだった。時計を見ると、四時二十分だ。

「この間は、ごめんなさい。謝りたかったの」

 いきなり言われ、わたしはあわてて両手を振った。

「いえいえ、わたしのほうこそ失礼なことを……失礼なことを言ったうえにいきなり出ていってしまって、すみませんでした」

「いいよ、そんなこと。ねえあなた、束原さんの隣に座ったら? 付き合ってるなら、隣同士のほうがいいでしょう」

 高瀬さんがそう言うと、長日部君は飲んでいたコーヒーを喉に詰まらせて咳き込んだ。

「つっ……付き合って、な、いです、げほ」

「そ、そうです誤解です! ただの、友人です!」

「あ、そう」

 あっさりとそう言うと、高瀬さんはわたしの隣に座った。

 まさか、わたしと長日部君が付き合っていると思っていたとは。一体、どこをどう見たらそういうふうに思えるんだろう。

 紅茶を注文した高瀬さんは、横にいるわたしに顔を向けた。表情が、この間会ったときよりもやわらいでいる気がする。

「それで……その、改めて聞くけど。ヤシロ君が死んじゃったって、本当なの」

 高瀬さんは眉のあたりに不安をにじませながら言った。

「はい。本当です」

 わたしは高瀬さんに、ヤシロさんのことを話した。あの日の朝、駐輪場で話したことも、バイト情報誌を買いに行こうとしていたことも。

 長日部君も初めて聞くことがあったせいか、興味深げに耳を傾けていた。高瀬さんは話を聞き終わると、テーブルを見つめてしばらく黙っていた。

「そう……結局、高校もろくに行ってなかったんだ」

 高瀬さんはそう言うと、ふっと息をついた。

「あの人らしい」

「実はこの前、ヤシロさんのお母さんと話したんです。お母さんは高瀬さんのことを覚えていて、お礼が言って話をしたいからぜひ会いに来てほしいって言ってました」

「お母さんが?」

 高瀬さんは少し驚いたような表情になった。そうしてすぐに、目に憂うつの色が浮かぶ。

「そう……でも、それはちょっと、難しいかもしれない」

「どうしてですか?」

 長日部君が言う。

「あんまり急なことで、すぐには向き合えそうにないの。ヤシロ君のこともだけど、ヤシロ君のお母さんにも」

 高瀬さんはそう言って小さくため息をついた。

 確かに、それは無理もないことかもしれない。

 お父さんが死んでしまったとき、わたしはしばらくの間、それを現実として受け入れることができなかった。

 生きているということ。命。それはすごくずっしりとした、頑丈なものだと思っていた。

 けれど、お父さんは勤め先の病院で倒れて、次の日に死んでしまった。

 この世界から去って、いなくなってしまったんだ。

 死は、すごく勝手だ。

 残される人の気持ちなんて、少しも考えてくれない。無言で襲いかかって、無言で去っていく。

 いくら会いたいと思っても、小鬼の言ったように、遠い世界に行ってしまった。隔てられてしまった。

 見られない、触れない、話せない。生きていたときだって、ほとんど家にいなかったから、同じような状態だったのに。あのときのそれと今のそれとでは、天と地ほどの差がある。

 高瀬さんも、ヤシロさんの死を受け入れるには、時間が必要だ。

 そう思ったとき、妙な感覚を覚えた。

 はっとして、店内を見回す。

(お父さん? ……ううん、違う。ヤシロさん?)

 それは、見えない誰かの心の揺らぎのような気配だった。けれども、どこにもヤシロさんの姿は見えない。

 気のせい、だったんだろうか。

 昨日と同じように、ティーサーバーで紅茶が運ばれてくる。高瀬さんは、ガラスの中の琥珀色の液体を静かに見つめた。

「束原さんが教えてくれた、ヤシロ君の言葉……『十八歳がやばい』っていうの、わたしが言ったことが関係してるのかもしれない」

 高瀬さんは、紅茶をカップに注ぎながら続ける。

「今はまだいいけれど、あっと言う間に十八歳になる。そのとき自分のしてきたことを振り返って後悔しないようにしなさいって。今思えばほんと、お母さんみたいなこと言ったなぁ」

 そう言って高瀬さんは、口元だけで笑った。

「でも……そのせいで、死んじゃったのかもね。わたしが、そんなこと言ったから……追いつめちゃったのかもね」

 それはほとんどひとり言に近い、小さなつぶやきだった。紅茶を飲むことでその言葉をごまかそうとでもするように、高瀬さんはカップにつけた口をなかなか離さなかった。

 違う。高瀬さんのせいじゃない。これじゃあ、ヤシロさんのお母さんと同じだ。

 このままでは、ずっと自分を責め続けることになってしまう。高瀬さんに、そんなふうになってほしくない。人の死は、ひとりで背負うには、あまりにも重すぎる。

 その思いに突かれるように、わたしのくちびるが動いた。

「それは、違います」

 高瀬さんがカップを下ろし、こちらに目を向ける。

「あれはほんとに、単なる事故です。高瀬さんの存在はむしろ、ヤシロさんにとって……」

 そこまで言ったとき、長日部君の隣にぼうっと黒い影が現れた。

 それは、ヤシロさんだった。やっぱりさっきの気配の正体は、彼だったのだ。

 ヤシロさんは、長日部君やわたしには目もくれず、正面にいる高瀬さんの顔に見入っている。見つめることで何かを取り戻そうとするかのように、ヤシロさんの目は真剣さとあたたかみに満ちていた。

 わたしは、顔がほころぶのを感じながら言った。

「ヤシロさんにとって、とても、ありがたかったはずです」

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