第1幕

第1話

――恋する気持ちは、素晴らしいものだから。それを大事にしなければいけないよ。


 幼いころ、祖母に不思議な水差しと共に渡された言葉。でも、素晴らしいものならば、どうして人は恋心に苦しむのだろう。恋をすると欲張りになって、相手にも求めてしまう。けれど、相手が同じ様に恋をするとは限らない。そんなの辛いではないか。どろどろとした気持ちが澱のように溜まっていくだけ。そんな気持ち、本当に大事にすべきなの?




「おう、嬢ちゃん。薬持ってんだろ? こっちへ渡せ」


 人相の悪い男に、ライラは絡まれていた。破落戸はずっと洗濯していなさそうなターバンを巻いていて、腕まくりされた肌には刺青が入っている。頭上から見下ろされ、正直怖い。行く手は阻まれ、じりじりと追い詰められている。もう背後は土レンガの壁だった。


「な、なんのことですかね? 先を急いでますので、通してください」


 ライラは冷や汗を垂らしながら答えた。


 ここは砂漠の王国ティタース。オアシスごとに村を形成し、キャラバン(行商人の隊)が行き来することで、物と情報が動いている。異なったオアシスに属する村へ移動する際はラクダを用いるが、同じオアシスに属する村への移動ならば、徒歩が一般的だ。


ねえね、怖いよ」

「早く逃げようよ、姉ね」

 ライラの両脇には、六歳になる双子の妹たちがしがみついている。

 ライラ・ハールンは十六歳だが、五年前に母親が事故で亡くなって以来、彼女らの母親代わりも務めていた。普段は口ばかり達者で手が掛かるが、大切で愛しい妹たちなのだ。


「ほらほら、ガキ達も怖がってるじゃねえか。薬さえ出せば、さっさと解放してやるぜ。お前だろ、ヒュリスの薬屋の娘ってのは」


 破落戸はボサボサの髭をひと撫ですると、ぐいっとさらに近寄ってきた。


「……なんの薬か、分かってるんですか?」

「ダンジョンの遺物を使って作られる恋の薬だろ? 親分がたいそう欲しがってるんだ」


 破落戸はにやりと笑った。その笑みが気持ち悪くて、ライラは鳥肌が立ってしまう。


「私は本人に直接会って、薬を作るかどうか決めています。薬が欲しいなら、その親分さんが店に来てください」


 この薬は人の心を変えてしまう危険なものだ。使い方を間違えれば、毒といっても過言ではない。こんな男に奪われてしまっては、どう悪用されるか分かったものではない。


「はぁ? 舐めたこと言ってんなよ。親分に来いだと?」


 破落戸のにやりとした笑みが消えた。あっという間に怒りの表情に入れ替わる。


「は、はい。薬をお渡ししない訳ではありません。ですから、今回はお引き取り下さい」

「お前分かってないな。俺さ、今薬持ってるって知ってるわけ。これから依頼主のところに届けに行くんだろ? だからさ、それ渡せ。ほら、それで解決だ」


 破落戸の言葉にライラは押し黙ってしまう。自分だけだったら隙を付いて逃げることは出来るかもしれない。でも、幼い妹たちを連れてでは、すぐに追いつかれてしまう。

 では誰か助けてくれる人を待つか。だが、ここは村と村の中間地点で民家もなく、現在の人通りは皆無だ。つまり人が通る可能性は低い。自分でどうにかするしかない。

 このまま何もしなければ、男は暴力に訴えてくるだろう。自分が殴られるだけならまだしも、幼い妹たちが本気で殴られたら死んでしまうかもしれない。そして、確実に薬は奪われてしまう。殴られた挙句に薬も奪われるというのだけは避けたかった。


「分かりました。薬は差し上げますから……その、妹たちを先に帰らせてもいいでしょうか」

「ガキを安全な場所に避難させてから、自分も逃げる気か?」


 男が訝しげに睨みつけてくる。


「いいえ、そんな悪あがきしたところで、どうせすぐに捕まってしまいます。ただ、妹たちが怯えているのが可哀そうで。私はここを動きませんから、お願いします」

「まぁ、そういうことなら」


 破落戸が顎をしゃくり、行ってよしと示す。ライラはしゃがむと小声で妹達に説明した。


「さっき休んだ場所まで戻って隠れてて。私が行くまで絶対に動かないで待ってるのよ」


 妹たちは、すがるような目で見上げてくる。ライラは安心させるように二人の頭を撫でると、背中を軽く押した。妹たちは後ろを気にしながらも駆けだす。だんだんと小さくなる二人を見送り、ライラはほっとした。これで、あとは薬のことだけだ。


「お待たせしました」


 破落戸は、暇そうにタバコをふかしている。この油断している様子なら、薬を出した途端に奪い取られる事はないだろう。ライラは慎重に、薬を斜め掛けの鞄から取り出した。


「それか。さっさとよこせ」


 ライラは息を吐くと、破落戸の方を見る。ゆっくりと薬の小瓶を差し出すが、途中で勢いよく頭上に振りかぶった。そして、思い切り地面に叩きつける。渾身の力を込めたおかげか、小瓶はパリンと音を立てて割れた。青い薬液が、地面にみるみる染み込んでいく。


「手が滑って、薬を落としてしまいました」


 ライラは勝ち誇ったように微笑んだ。


「なっ……なにしてくれてんだよ!」


 破落戸が怒りに任せて叫んだ。


「残念、お渡しすることが出来なく――ぐっ」


 頭を下げようとした瞬間、ライラに衝撃が襲った。頭が一瞬真っ白になり、身体が地面に倒れてしまう。次に感じたのは熱さだった。頬が焼かれたように痺れ、次第に痛みがじわじわと侵食してくる。どうやら、破落戸に殴られたのだと理解するのに、しばらく時間が掛かった。口内に血の味が広がっていく。殴られた衝撃で口内が切れてしまったようだ。


「やってくれたな! 女だと思って下手に出てりゃ調子に乗りやがって。殺してやる!」


 破落戸がわめき散らしながら、ライラに向けて足を振りあげた。


「私を、殺したら……もう、薬は、手に入らない。それでも……いいの、ですか」


 ライラは途切れ途切れになりながらも、破落戸に伝える。すると、途端に悔しそうに破落戸の顔がゆがんだ。


「このアマ……人の足元見やがって。性根が腐ってやがる」


 そうはいうが、先に理不尽なことを言ってきたのは破落戸のほうだ。ライラはそれに精一杯対抗したに過ぎないというのに。


「ちっ、分かった。じゃあ、手加減して蹴るだけにしてやる」


 途端、鈍い痛みが腹部に走った。頭にも。暴力を振るわれることは、覚悟のうえだったから仕方がない。妹たちに危害が及ばなかっただけ良かったのだ。あとは、早く気が済んでくれと、ひたすら祈るのみだった。

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