第7話:消失

 バター猫のパラドックスという逆説がある。猫は自分の足を下にして着地する。バターを片側に塗ったトーストはバターを塗った方が下に向いて落ちる。そして、猫にバターが塗られたトーストをくくりつけて、上から落とすとどうなるかという内容である。

 はっきり言って意味が分からない。ある人が言うには、もしこれが実現すると反重力の中、半永久的にエネルギーを作ることができるということらしい。ワタシには何が言いたいのかさっぱりわからなかった。そもそも猫を落としたら、そのまま猫が着地するんじゃないんかな? もしかして、トーストが下になるのかな? ……これって矛盾っていうやつでしょ。


 ◆◆◆


 さとりは双人博士の所にいた。バックアップトークンの検査のためである。


「酒津さん、バックアップトークンの調子はどう?」

「どうと言われても……」

「ちゃんと幻覚から守ってくれてるかどうか話してくれたらいいのよ」


 さとりは困っていた。なんせ、バックアップトークンは幻覚に出てきてしまうし、なにより人格を持っていたことに驚いている。


「そう、ですね……。守ってくれてはいます、はい」

「へえ、そうなんですね。よかった」

「ええ……」


 さとりは苦笑いし、双人は不思議そうにしていた。さとりが外の風景を見ると雨が降っていた。窓の外では雨粒が地面に当たって跳ねていた。まるで水玉模様みたいだった。さとりはそれを見て笑みを浮かべた。


「あら、雨が降っているのね。珍しいわね。最近は天気が良い日が多かったのにね」


 双人はそう言った後、またしても不思議そうな顔をしていた。さとりはその後、双人と世間話をした後、部屋を出た。廊下に出るとそこには誰もいなかった。この研究所は無駄に広く、とても静かであった。

 さとりはしばらく歩いていたが、何か気になり後ろを振り向いた。そこにはいたのはつぼみだった。つぼみはさとりと目が合うと微笑んだ。さとりはその表情を見て胸がときめく。

 うわっ、この子ふわふわしてて可愛すぎでしょ。

 さとりはつぼみの事が嫌いではなかった。むしろ好きな方だと思っている。天使のような見た目は好きになる要素しかないのだ。さとりは思わず抱きしめたくなっていた。しかし、それは出来ない事なので我慢した。

 ああー、もう! 抱きつきたい! 今すぐぎゅってしたい! でもできない……!

 さとりはそんな気持ちを抑えてつぼみに話しかけた。


「つぼみさん、どうしたの?」

「えっと、酒津さんを見かけたので、つっ、ついてきました……」

「なら、話しかけてくれたらいいのに。一緒にお話ししましょ!」

「あ、はい。わかりました……」


 つぼみは嬉しそうにしてさとりと一緒に話し始めた。つぼみにとって誰かと話す事は久々な事だった。さとりにとっては当たり前の事だったが、つぼみにはそれが凄く新鮮だった。今まで友達と呼べる存在はいなかったからだ。つぼみはこの研究所に来る前は学校に通っていたが、病気で来れなくなったので通えなくなっていた。それからはずっとひとりぼっちだった。


「ねぇ、つぼみちゃん」

「なんですか? 酒津さん」

「私のことは呼び捨てでもいいよ」

「じゃ、じゃあ、さ、さとりさん」

「うん! それでよし!」


 さとりは笑顔になって言った。その言葉を聞いてつぼみの顔も自然とほころぶ。さとりはそれを見るともっと笑顔になった。つぼみが笑う姿はとても可愛いかった。そして二人は仲良く会話しながら歩いていった。


「へぇ、そうなんですか」

「うん。そうなんだよ。それでね」


 さとりが言いかけた瞬間、つぼみの様子がおかしくなった。


「うぐぅ……!」


 突然、つぼみが苦しんだように右手を押さえて倒れた。


「つぼみちゃん、大丈夫!?」


 さとりはすぐに駆け寄った。つぼみの様子は明らかにおかしかった。息遣いが激しくなり顔色が悪くなっていく。汗もダラダラと流れていてとても辛そうだ。さとりは急いでつぼみを抱き抱えた。


「つぼみちゃんしっかりして!」


 さとりの声が聞こえていないのか返事がない。それどころか反応すらしない。ただ、うめき声をあげるだけだった。さとりはつぼみを横向きに寝かせて背中をさすってあげた。


「うぐ……! ごめんなさい……! ごめ、ん……なさ、い……!」


 つぼみは泣きながら謝っていた。さとりは心配になり、どうすれば良いか考えていた。

 これは一体どういうことなんだろ……?

 そう考えているうちに、さとりはあることに気づいた。


「まさか……」


 さとりはつぼみの肩を担いで歩き出す。そして、ある場所へ向かった。そこはつぼみの病室である。さとりはつぼみを抱えて部屋に入る。

 部屋の中は窓際にあるベッドと机と椅子しかない殺風景な部屋だった。さとりはつぼみの体をベッドにゆっくりと下ろした。


「後は双人博士に伝えないといけないんだけど」


 さとりは少し考えた後、椅子に座ることにした。

 多分、幻覚を見ているんだろうけど、どういう幻覚なのか分からないなぁ。

 さとりはつぼみの頭を撫でる。すると、つぼみの呼吸は落ち着いていき、穏やかな表情になっていった。

 これってもしかしてバックアップトークンで治った?

 さとりはそう思った。根拠はない。直感的にそう感じたのだ。


「さとりさん……」

「つぼみちゃん、起きたんだ」

「はい……」

「具合はどう?」

「まだ頭がクラクラします……」

「そっか。もう少し休んでていいよ」

「ありがとうございます」


 さとりは安心した。もしこれで元気だったら双人に言うつもりだった。


「あの、さとりさん……」

「どうしたの?」

「手を握ってくれませんか?」

「いいよ」


 さとりはつぼみの機械の右手を握った。すると、つぼみは嬉しそうに笑みを浮かべた。


「えへへ……」


 さとりはつぼみを見て笑みを浮かべた。


「私、さとりさんと出会えて良かったです」

「それは嬉しいな」


 さとりは照れくさそうに言った。雨が降り続く中、つぼみとさとりは楽しそうに話した。

 雨が止んで空が晴れると、そこには虹がかかっていた。つぼみはそれを見ると笑顔になった。


「ねえ、さとりさん」


 つぼみがさとりの名前を呼ぶ。さとりはそれに気づき振り向いた。


「何、つぼみちゃん」

「さとりさんのバックアップトークンってどんな人、ですか?」

「……!」


 さとりはその言葉を聞いて驚いた。つぼみも幻覚を見ていた。バックアップトークンを付けているなら、さとりと同じようにバックアップトークンが助けに来るのだろう。


「えっと、私のバックアップトークンはね……」


 さとりは言いかけて止めてしまった。


「どうしました?」


 つぼみは何かに気づいたように口を開いた。

「さとりさん……」


 さとりが幻覚を見ていた。


 ◆◆◆


『こんにちは』


 さとりの視界に突然現れた文字。さとりはその声を聞くと驚いて後ろを振り向いてみた。そこに立っていたのは紛れもなく祥子だった。その瞬間、さとりは理解した。自分が今見ているのは幻覚だと。


「祥子ちゃん……」

「さとり、来たよ」


 祥子は微笑んでいたが、さとりには不気味に感じていた。さとりは不安そうにしていた。

 なんでこんな時に……!

 さとりは心の中で叫んだ。さとりはつぼみと一緒にいる時に絶対に来ないで欲しいと思っていた。楽しい時間が悪夢の時間に変わるし、なによりつぼみに迷惑をかけてしまう。だから来なくていい。そう思っていた。だが、現実は非情だ。来て欲しい時は来ず、来て欲しくない時に限って来る。それが嫌だった。

 さとりは必死に考える。この場を乗り切る方法を。


「……ワタシに何か用?」


 さとりは平静を装いながら聞いた。


「特に無いかな。ただ、さとりと話がしたいだけだよ」

「どうして?」

「うーん……そうだね。暇潰し、みたいなもの」

「そう……」


 さとりは冷静を保ちながら会話を続ける。そして、チャンスを待つ。隙が見えたその時が勝負だ。

 さとりは緊張しながら会話を続けた。

 しばらくすると突然、祥子が消えていった。さとりが瞬きすると、突然水の中にいた。

 いつ? どのタイミングで? ここはどこなの?

 湧き上がる疑問と裏腹に息ができなくなる。普通に溺れてしまっている。

 どうしよう!?

 さとりが溺れている間にも、どんどん沈んでいく。

 あ、意識が……。……あれ、なんでワタシ生きてるんだろう?

 息苦しいのは変わりない。しかし、いつまでも意識がなくならない。さとりが溺れ始めてから一分くらいだろうか。それとももっと経っているのだろうか。時間の流れがよく分からない。もしかしたら一時間以上も経っていてその間に何度も死んだかもしれないし、もしかしたらまだ数分しか過ぎてないかもしれない。

 そんなことよりも早くここから出ないと。

 さとりは水面を目指して泳ぐが全然進めている気がしなかった。むしろどんどん沈み込んでいる。

 もうダメかな。

 諦めかけていたその時だった。デリダが水の中に現れてさとりの機械の左手を握る。引っ張り上げるようにしてさとりを引き上げた。

 二人は一緒に泳ぎ始めた。デリダがさとりの手を引いて泳いでくれるお陰なのかさとりは楽に進むことができた。

 やっと着いた。

 そこは白い部屋だった。白い床が水面みたいに揺らめいている。そこから二人の身体が浮かび上がっている様は、不自然としか言いようがなかった。

 なんなのここ……。

 さとりは周りを見たが誰もいなかった。さとりとデリダは水面から起き上がる。さとりは不思議そうな顔をして呟いた。


「ねえ、ここって一体……」

「……」

「どうしたの?デリ……」


 さとりは途中で言葉を止めた。さとりは目を大きく見開いて固まった。目の前にいたのは、祥子だった。


「……え?」


 さとりは思わず声を出してしまった。

 祥子はにっこりとした笑顔を浮かべている。

 えっ、ちょっと待って。どういう状況なのこれ。

 さとりは混乱している。なぜここに祥子がいるのか。そもそもここはどこなのか。疑問が絶えない。祥子はゆっくりとさとりに近づいてくる。さとりは何も言えず動けなかった。


「ねえ、さとり」

「……なに」

「逃げられると思わないでね」

「!?」


 さとりは驚いて後ろを振り向くと、そこには左手が生身のさとりがいた。さとりは驚きを隠せない。

 え、何? なんでワタシが二人もいるの?

 さとりは困惑が隠せなかった。さとりが戸惑ってると、さとりの側にいたデリダが話しかけてきた。


「大丈夫です。私がなんとかします」

「え、何を言って……」

「一先ず、飛ばしますね」

「あっ、ちょっ、ちょっと!」


 さとりが何かを言う前にさとりの視界が歪む。


 ◆◆◆


 次の瞬間には元の場所に戻っていた。さとりは元の場所に戻って安心したが、横を見るとつぼみが隣で寝ていた。しかもベットに横になっていることに気づき起き上がる。


「えっ、なに、この」


 さとりはパニックになった。


「どうしたんですか?」


 つぼみは眠そうに目を擦りながら起きた。


「あ、あの、これは……」

「……えっと、さとりさんが幻覚を見ていたので横に寝かせていたんです」

「げ、幻覚……」

「はい。さとりさんが急に幻覚を見始めたので心配しました」

「ごめんなさい……」

「謝らなくてもいいですから……」


 つぼみは優しく微笑みかけてくれた。さとりは申し訳なさを感じた。


「でも、急に幻覚を見るのはやっぱり大変だよ」

「はい……」

「せめて幻覚を見るタイミングと簡単に戻れる方法があれば……」

「たとえば、スタンガンを使うなんてどうだ」


 小田が二人の話に割って入ってきた。いつのまにか部屋に入っていたのだろう。さとりは突然の乱入者に驚いた。

 一方、小田はそんなことは気にせず話を続ける。


「スタンガンを首筋に当てれば、幻覚から抜け出せるんじゃないか?」「……そうですね」

「じゃあ、試してみる価値はあるな」

「はぁ……んん?」


 さとりには何か引っかかる。

 スタンガンじゃなくても揺らしたら叩いたりしても起き上がるとかは考えないの?


「どうした、何か気になるか」

「そもそも幻覚ってどう判断するんですか? 検査の機械もないのに分からないと思います」


 さとりは疑問を口に出した。それに、とさとりは続ける。


「幻覚と分かったところでどうすればいいの?」


 さとりの言葉に小田は一瞬考えるとすぐに答えを出した。


「まずは、無闇に揺すったり叩いて起こそうとしない。変な症状が出ても困る。その上でスタンガンを当てて起こす」

「……それって大丈夫なんですか?」

「分からんし、バックアップトークンに守ってもらう方が余程安全だと思う」

「ええ……」


 小田の元も子もない発言にさとりは呆れた。それならバックアップトークン次第だと考えざる得ない。さとりはため息をつく。

 そもそも幻覚を見るたびにスタンガンで起こされるのもどうなの。


「まあ、それはいいとして」


 良くないわとさとりは言いたかったが、やめておいた。


「お前達の幻覚はまだいいかもしれないが、悪化すれば数日は目は覚まさなくなるという報告がある。あたしや双人博士達がどうにかしてやりたいが、まだ成果が出てない」

「そうなんだ」


 さとりは少し残念だった。このままでは一生幻覚に苛まされる可能性があるからだ。小田はさとりが残念がっているのを見て話を続けた。


「だが、バックアップトークンが壊れない限りはお前達は安全だ」


 そう言って小田は部屋から出ていった。


「そっか……」


 さとりは落ち込んだ。自分の身の安全が一応保証されてるとはいえ、ずっとこの状態が続くのは辛い。


「……さとりさん」


 つぼみがさとりの肩に右手を置いた。その手は不思議と暖かかった。


「大丈夫ですよ。きっと方法が見つかりますから」


 つぼみの声色はさとりの不安を和らげるような優しさがあった。


「ありがとう……」


 さとりは感謝を述べた後、つぼみの手を握り返した。


「うん、頑張ろうね」


 さとりは微笑みかけた。つぼみは顔を赤くしながら小さく返事をした。


「はい……」

 さとりとつぼみはしばらくそのままでいた。その後、二人は他愛のない話を始めた。


「さとりさん、あの、さっき聞けなかったこと、なんですけど……」

「さっき?」

「はい。さとりさんのバックアップトークンってどんな姿なんでしょうか?」

「えっとね……。なんて言えばいいんだろう、好きな人の姿をしてるの」

「さとりさんの好きな人の姿……」

「うん」


 さとりはデリダを思い浮かべる。デリダの見た目はツギハギがある若木祥子の姿でとても綺麗である。さとりはその姿を思い出すだけで幸せな気持ちになった。


「へぇ、素敵ですね」

「えっ?」

「だって、その人のことを好きじゃないとその姿を想像できないでしょう?」

「あっ……そうだよね」


 確かにそう言われればそうかもとさとりは思った。


「……ねぇ、つぼみちゃん」

「はい、何ですか?」

「つぼみちゃんのバックアップトークンはどんな姿?」

「えっ!?」


 つぼみは驚いているようだった。


「……です」

「えっ、誰?」

「……内緒です」

「えー、教えてくれないの?」

「ダメです」

「ええ、ずるい……」


 自分から聞いておいて答えてくれないのは残念だなとさとりは思ってしまった。しかし、つぼみが恥ずかしがってるのが分かるので無理に聞き出すつもりはなかった。

 さとりはつぼみと話した後、自分の病室に戻っていた。部屋を出ても、いつ来るか分からない幻覚に脅かされては堪らない。そのため、さとりは幻覚を見る前に戻ることにしたのだ。

 さとりはベッドに寝転がった。そして、目を瞑る。


『さとりさんのバックアップトークンってどんな姿なんでしょうか?』

『さとりさんの好きな人の姿……』


 つぼみに言われたことを思い出す。確かに祥子は好きだが、ツギハギなんてないはずだ。しかし、デリダはツギハギのある祥子の姿でさとりの幻覚に現れた。それに果たして何の意味があるだろうか。考えは尽きない。

 それに……。

 祥子はもういない。

 この世に生きていない。

 死んだ人間なのだ。

 花瓶や先生、生徒の反応から恐らく祥子は死んでいる。それをあかりは隠していた。さとりには悟られないように振る舞っていた。

 さとりの目からは涙が溢れていた。

 どうして祥子ちゃんは死んでしまったの。どうしてワタシは生きているの。なんであかりちゃんはそれを隠していたの?

 そんな疑問が頭の中で渦巻いていた。さとりは目を開ける。天井を見つめながらさとりは考えた。


「ねえ、ワタシは一体何を忘れているの?」


 さとりは自分に問いかけた。


「分からないよ……」


 答えは出なかった。


「……分からない」


 答えは出ない。

 忘れているのだから知りようがない。誰に聞けばいい?

 双人博士?

 宮尾さん?

 あかりちゃん?

 ……幻覚?

 さとりは不意に幻覚のことを思い出す。もしかすると、それが何かヒントになるかもしれないと思った。さとりは再び幻覚を見るためにどうすればいいか考えた。

 幻覚はいつも何かしてる途中で来る。でもなんでそんなタイミングなんだろう?

 さとりはある事を思いつく。左腕を撫でながら問いかける。


「もしよかったらワタシに幻覚を今見せて欲しいよ。その、祥子ちゃんについて知りたいの。お願い、ワタシに幻覚を見せて」


 しばらく沈黙が続いた。

 やっぱりダメかなと諦めかけた時、さとりの目の前が真っ暗になった。


 ◆◆◆


「これは……」


 さとりは辺りをキョロキョロと見渡す。何も見えない空間が広がっている。ここはどこだろうと思いながらも、とりあえず歩いてみる。少し歩くと遠くの方から声が聞こえてきた。


「さとりさん、待ってください」


 さとりはその声に振り返る。そこにはデリダがいた。


「デリダちゃん!」


 さとりはデリダに駆け寄り迷わずデリダに飛びついた。デリダの身体はとても暖かく、柔らかかった。デリダはさとりの頭を優しく撫でる。さとりは嬉しくなってデリダの胸に顔を埋めた。さとりはしばらくそのままでいた。それからしばらくして、さとりはデリダから離れた。


「デリダちゃん、よかった……」

「さとりさん……」


 デリダは不安そうな表情を浮かべる。


「なんで自分から幻覚を見ようとしているんですか」

「えっと、それは……って、デリダちゃんはワタシが幻覚を見たがってたこと分かるの?」

「一応、あなたの脳信号は感じ取れます。バックアップトークンも基本的にはボイジャーと同じ作りなので」


 さとりはデリダの言葉を聞いて驚いた。バックアップトークンやボイジャーはさとりの脳信号、つまり思考を読み取っているということだ。それは即ち、さとりの思考を読み取って動く。ボイジャーは装着者の思考に合わせて動かせるように設計されているのなら、この幻覚というバグの理由は。


「そういうことだったんだ」

「何がですか」

「幻覚を見る理由だよ。ボイジャーがワタシの思考を巡って幻覚を起こしているんだよ……」


 さとりは冷めた様子で言う。

 さとりの脳信号を受信しているのはボイジャーやバックアップトークンである。さとりのバックアップトークンであるデリダはさとりの思考を感じ取り、幻覚に現れる。つまり、ボイジャーによる幻覚も装着者の思考に原因がある。

 ということは。


「つまり、ワタシ自身に原因があるって意味にもなるんだよね……」

「……」


 デリダは何も言えなかった。さとりはふぅと息をつく。そして、再び周りを見渡した。先程まで見えなかった景色が見えるようになっていた。しかし、見えると言っても一面灰色の世界だった。地面はコンクリートのような素材で出来ていて、建物も全て同じ材質でできているようだった。

 また、空には雲がかかっていて太陽の光は差し込んでいない。薄暗い世界が広がっていた。

 まるでワタシの心みたいだ。彩りがない光の少ない世界。そうだと思う。

 さとりはゆっくりと歩き始める。しかし、いくら歩いても景色は変わらない。さとりは少し疲れて立ち止まる。


「ねぇ、デリダちゃん」

「はい」

「ワタシは一体何を忘れてるのかな?」

「……」


 デリダは無言で俯く。


「教えてくれないの?」

「はい、教えられません」

「どうして?」

「私はあなたを守ること以外、何もできません」

「そっか……」


 さとりはため息をつき、その場に座り込んだ。

 さとりは目を瞑る。


「……ワタシ、怖いよ」

「……」

「ワタシが忘れている記憶を思い出したらワタシはワタシじゃなくなる気がする。ワタシの身体が変わってしまったように、ワタシが今まで信じていたものが崩れるような感覚がしてとても怖くなるの。でも、ワタシには思い出さないといけないことがある。だから、ワタシは……」

「……」

「ワタシ、これからどうすればいいのかな?どうしたらいいと思う?ワタシが忘れているものはなんなの?それを知ったらワタシは一体何になるの?……分からないよ」


 デリダはただ黙って聞いていた。そして、ゆっくり口を開く。


「私には分かりません。でも一つだけ言えることがあります」

「それはなに?教えて欲しいな」

「それは……私がさとりさんの味方だということです」

「ありがとう」


 デリダは微笑む。その笑顔はどこか悲しそうにも見えた。さとりは立ち上がり、デリダの手を握る。二人は歩き始めた。しばらく歩いていると目の前に扉が現れた。さとりはその扉を開ける。

 そこに建っていたのは電波塔だった。その高さは優に百メートルを超えるだろう。天に向かって伸びている柱は太く頑丈そうだ。

 さとりが塔を見上げながら呟いた。


「これ、なんだろ……」


 塔をよく見ると、頂上らしき部分が雲に覆われていることが分かった。その部分だけ都合よく囲まれているようだが、よく見えない。すると突然、大きなサイレン音が聞こえた。サイレンの音を聞いた瞬間、さとりは恐怖に襲われた。さとりの身体中に震えが走り、心臓の鼓動は早くなり、息が苦しくなった。身体中の血液がドクンドクンと激しく流れる。視界は狭まり周りの音も聞こえなくなった。まるで脳だけが別の世界に存在しているような錯覚を陥りそうになる。


「さとりさん、しっかりしてください!」


 デリダの声でハッとする。さとりは大きく深呼吸をして心を落ち着かせた。それからもう一度、塔を見る。

 今度は落ち着いて見ることができた。それでもまだ少し不安だったが、先程の恐怖に比べればマシだと思った。

 さとりはデリダと共に塔の入口へと向かう。扉を開けると中に梯子があった。さとりが梯子を掴んで上を見ると暗闇に包まれていた。どこまで続いているのかは分からなかったが、上に行けば行くほど闇が深くなっているように見えた。

 さとりは躊躇うことなく登る。デリダも後に続いて登った。

 しばらく登り続けると頂上にたどり着いた。


「また部屋だ……」


 登ってきたさとりが呟いた。


「ええ、部屋のようですね」


 デリダが言う。さとりは辺りを見渡す。壁や床、天井は全て真っ白だ。目の前に扉がある。


「あの扉から外に出られるかも……」


 さとりはゆっくりと近づき、ドアノブに手をかける。


「開けるね」

「はい」


 さとりがゆっくりと扉を開いた。


「えっ……」


 そこはまるで街だった。いや、さとりの知っている街そのものだった。さとりが立っている場所は大通りで、周りには多くの店が並んでいる。

 看板やショーウィンドウには服やアクセサリーが飾られている。

 店の看板や広告には様々な言語が書かれている。

 さとりが呆然としていると、背後から人が通り過ぎた。その人は白いワンピースを着ていて、頭に帽子を被っている。そして、右手には日傘を持っていた。さとりは思わず振り向く。しかし、そこには誰もいなかった。さとりは不思議に思いながらも前を向いて歩き始める。さとりはしばらく歩くと、あることに気がついた。周りには人がいるのだが、皆、顔がないのだ。首から上は霧がかかったように見えなくなっている。しかし、さとりは特に気にすることなく、街の中を歩いた。

 しばらくして、さとりはある建物の前で立ち止まった。それは、さとりが通う高校の校舎だった。さとりは校門を通り抜けて学校に入る。


「なんで学校があるの?」

「……幻覚だから何があってもおかしくありませんよ」

「そうかなぁ」


 二人が校庭を歩いていると、人が見えた。

 さとりに似た人物だった。

 だが、左手が生身のさとりである。


「あれ、ワタシだよね?」

「恐らくそうでしょう」


 さとりはもう一人の自分に近づいていく。


「こんにちは」


 さとりが挨拶をする。すると、もう一人のさとりは驚いた表情をした。


「あなた、ここに来ちゃったの?」

「そうなんだよ。どうすれば出られるか分かる?」

「あなた、ここがどこだが分かってるの?」


 さとりは首を横に振る。すると、もう一人のさとりはため息をつく。


「ここはあなたを裁くところよ」

「学校じゃなくて?」

「中に入れば分かるわ」

「待ってください」


 デリダが引き止める。


「あなた、なぜ私達を襲わないのですか。あなた、いえあなた達にとっては敵のはずですよね?」


 もう一人のさとりは少し考える素ぶりを見せる。その後、呆れたような顔をしていた。


「ワタシがそんなことしなくてもすぐ分かるよ」


 風が吹くと塵となって消えてしまった。デリダはさとりの方に向き直す。


「……まあ分かりませんが進んでみますか? それとも引き返しますか?」

「ワタシは……進むよ。祥子ちゃんのことちゃんと知りたいから」


 二人は校舎の中へと入っていった。

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